苦悩と謝罪。
「行ってきまー……」
す、を言わなかったのは途中で自分の行動に馬鹿馬鹿しさを覚えたからだ。
誰もいない家に向かって挨拶をしても、返事がある筈もない。いつもはしないことをした理由は、気を紛れさせるためだった。
新学期早々されるであろうことを想像したら、気分が悪くなったのだ。
まぁ、新学期が始まるまでにはまだ少し余裕がある。それまでに心の準備を完璧にしておけばいい。
それよりも今は、有阪に謝りに行くことの方が大切だ。
有阪が入院している総合病院は、俺たちが通う高校とは反対方向の仁が住んでいる町にある。
マンションの廊下に出て、下のボタンを押してエレベーターが来るのを待つ。
なかなか昇ってこないので苛々してボタンを連打していたら、到着音がして目の前のドアが開いた。エレベーターには既に人が乗っている。それは、見知った顔だった。
「……あ、川野さん。こんにちは」
「おう、琥珀じゃん。何、どっか行くの?」
にっ、と笑って訊ねてきたこの人――川野さんは、何かスポーツをやっているらしく、良く日焼けした精悍な顔立ちの大学生だ。俺の上の部屋に住んでいる。親切な人で、何度か世話になった。
「はい。友達の見舞いに……」
「あーあ、友達入院かよ。怪我でもしたのか?」
少し心配そうな顔をして、川野さんは更に質問してきた。
「いえ、そうじゃないんですけど」
首を横に振って答えると彼は、
「そうか……お大事にって伝えてくれ」
と言った。
「わかりました。川野さんは今帰りですか?」
「まぁな。そこのコンビニで飲み物買ってきたんだよ。あ、でもこれからこいつ持って友達の部屋に行くから、まだ帰りって訳でもねぇか……」
川野さんは、手に持っていたらしいコンビニの袋を見せながらそう答えた。ちょうど、俺からは見えていなかった物だ。2Lのペットボトルが入っている。半透明のビニール越しには少しわかりにくいが、色からして、レモン50個分のビタミンCが含まれていると謳われている、黄色い炭酸飲料だろう。
どうやらそれは、友達への手土産らしかった。
「炭酸、ですか……」
思わず呟いた。
「スポーツやってる癖にってか?」
川野さんは苦笑しつつ言った。
スポーツをする人にとって、炭酸飲料はあまり良くないとされる。個人差はあるだろうが、炭酸によって胃が張ったり、飲んだ翌日
は身体が重く感じられたりする為だ。
炭酸飲料に含まれる大量の糖分にも問題がありそうだが。
「……ええ、まぁ……ちょっと気になっただけなんですけど」
「スポーツやってるって言ってもサークルだし、暫くは試合無いから大丈夫だよ。高校までは部活で割りとマジにやってたから控えてたけどな」
「そうなんですか。なんか、すみません」
偉そうなことを言ってしまった――。
そう思った俺は謝り、頭を下げた。
「いや、気にすんなよ」
川野さんは困ったように笑いながら言った。そして、続けた。
「どうした? らしくもねぇ顔して……なんかあったか?」
言いながら、エレベーターを降りてくる川野さん。その背後で乗客がいなくなったエレベーターのドアが閉まった。
「顔……?」
指摘され、思わず右手で自分の頬をなぞった。
「……なーんか暗い顔してんぞ」
川野さんは、溜め息をついて俺の頭に手を置いた。
「そう、ですか?」
「しゃきっとしろ。何があったかは知らないが……いつもの腹立つくらい自信たっぷりの顔はどうしたよ」
俺の髪をくしゃっとかき回し、川野さんは笑ったが……いや、いつも俺そんなに自信満々な顔してねぇよ。
「何があった? ん?」
「実は――――」
俺は川野さんに、これから有阪に謝りに行くことや、喧嘩をして気まずいこと、それは俺がやりすぎたことが原因だったことなどをすべて話した。
「……なるほどなぁ。そりゃ、元気なくなるわけだ」
川野さんは頭をかいて、少しだけ笑う。
「でもま、お前もわかってるんじゃん。今回はお前が悪かったんだろ?」
「はい、でも――」
なんて謝れば、有阪は許してくれる?
「だったら、男らしく頭下げて謝ってきな。ちゃあんと誠意みせて謝れば、友達も許してくれるさ」
「……ですかね」
不安な気持ちが沸き起こった。だからこその曖昧な返事。
「琥珀、お前が仲良くしようって思う友達だろ? そんなに心狭いやつなのか?」
「それは違います。あいつは、優しい……優しいやつです。心も広くて、俺とは正反対な……。でも……普段優しいやつだからこそ、俺に我慢できなくなったのかもしれないじゃないですか……」
いつになく情けない自分の声。自分で聞いても力ないのがわかった。
俺、なんであんなことしたんだよ。
普通に、素直に応援してやればよかったのに。
――まだ先輩が好きだったから……自分でも気付かないうちに壊そうとしていた……?
自分で自分を酷く恐ろしいと感じた。
「そんなの、会ってみないとわかんないだろ? 決めつけてるだけかもしれない」
――それって、全部お前の想像だろ? 訊いてみないとわからねぇだろ。
いつだったか、俺が有阪に言った言葉。
川野さんの言葉は、それに酷似していた。
それはただの偶然。
しかしその言葉は、波立つ心を更にかき混ぜた。
やってみないとわからない。やればわかる。
それは、誰に対しても言えることだ。そして同時に、とても難しいことでもある。
俺は、有阪に言った。
訊いてみないとわからない、と。
有阪はその後、すぐに行動に移そうとした。
そして俺は、その努力を潰した。
川野さんは、俺に言った。
会ってみないとわからない、と。
俺は、ずっとここで立ち止まっている。
情けないことだ。
人には偉そうなことを言っておきながら、自分はできない――なんて。
「……じゃねぇよ……」
「あ?」
川野さんが驚いたように俺に注目する。
「甘えてんじゃねぇよ、俺!! 馬鹿野郎が!!」
思いきり、叫んだ。喉の奥が痛い。
「…………」
川野さんは、しばらく目を丸くして立ち尽くしてしたが、やがて俺の肩に手を置いて言った。
「いけるか? 頑張れるな?」
ひどく、優しい声音だった。
「はい」
深く、頷いた。
――そのとき。
鳴り出す着信音。
画面には、『有阪悠樹』の表示。
メールを開くと、そこにはたった一言。
『302号室』
俺の目的地が決まった。
「ありがとうございました……」
川野さんにお礼を言って、俺はその場を後にした。
それから、どうやって病院まで行ったのか、どうやって面会の申請をしたのか――よく覚えていない。
恐らく、きちんと順序を踏んだのだろうが、我に返ったときには302号室の前だった。
目の前のスライドドアを開け、室内に踏み込む。
ベッドの上からこちらを見ている有阪のすぐ近くまで、無言で歩み寄った。
視線がぶつかった、その瞬間。
勢いよく頭を下げた。
「ごめん…………!!」
もっと大きな声で、はっきり話すつもりだった。
しかし、声が掠れ、出てきたのはありきたりな――その一言だけだった。
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