第5話|名は波に乗りて
息長氏は、近江国北部を地盤とする豪族です。
帯姫ら一族は、吾名邑と呼ばれる琵琶湖北東の地に住んでいました。
吾名邑は、かつて新羅の王子、天日槍が訪れたと伝えられる土地でもあります。
帯姫の母、葛城高顙媛もまた、天日槍の血を引く一族の娘でした。
息長氏は、琵琶湖の水運を軸に交易を営んできました。
湖を通じて各地と結ばれ、物だけでなく、噂や知恵までも運んできたのです。
やがて、帯姫の父、宿禰王の胸にさらなる野望が芽生えました。
――湖だけでは足りない。
――渡来人との縁があるなら、海へ出ねばならない。
そう考えた宿禰王は、帯姫を伴い、北陸の要衝敦賀へと向かいました。
姫を連れていくのには、理由がありました。
帯姫のほうが渡来人の言葉に通じていたこと。
そして敦賀は、有力者や商人、役人が集まる地であり、
姫の名を世に知らしめるには、これ以上ない舞台だったことからです。
敦賀は、人と物と噂が渦巻く港町でした。
かつて都怒我阿羅斯等という渡来人が治めていましたが、彼の帰国後は統率を欠き、諸勢力が入り乱れていました。
ある日、帯姫は父に言いました。
「次の満月の夜、海から大きな命が流れ着きます」
宿禰王は驚きながらも、娘の言葉を疑いませんでした。
これまで何度も、帯姫の予見は現実となってきたからです。
数日後――
満月の夜明け、敦賀の浜に、巨大な鯨が漂着しました。
人々はどよめき、駆け寄りました。
肉も、油も、骨も、すべてが財となる海の贈り物です。
宿禰王はこれを商いに用い、大きな利を得ました。
「やはり、姫の申した通りだ」
そのひと言が、港にさざ波のように広がります。
「敦賀に、聡き姫あり」
驚きとともに語られたその評判は、
船乗りや商人たちの口にのぼり、
やがて海路を伝って各地へと広がっていきました。
息長の名とともに。
いいえ、それ以上に、人々が口にしたのは姫の名でした。
――息長帯姫。
その名は北陸の海を越え、山を越え、
ついには都へと届きます。
「敦賀に、神意を受ける聡き姫がおります」と。
そのひと言が、
静かに、しかし確かに、
天皇の耳へと届くことになったのでした。
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次回、第6話「波間に交わる視線」。
敦賀で帯姫と足仲彦天皇は運命的に視線を交わし、
やがて天皇からの求婚が告げられます。




