第1話|神の声を聞く姫、息長帯姫
息長帯姫は、幼いころから人と違っていました。
力でも、声でもありません。
――神の声を聞くことでした。
里の人々が米が実らぬと嘆いていた年、帯姫はまだ十にも満たない子どもでした。
大人たちが天を仰ぎ、神を恨み、ただ手をこまねいているのを見て、姫は静かに言いました。
「水は、山から流れてきているのでしょう。ならば、その水を田へ引けばよいのです」
皆が驚いて姫を見ました。
やがて男たちが山へ入り、姫の言葉どおりに溝を掘ると、乾いていた田に水が満ちていったのです。
稲はたわわに実りました。
また別の年、姫は空を見上げて父に告げました。
「三日後、大雨が降ります。川はあふれます」
人々は半信半疑でしたが、姫の言葉どおり、三日後に空は裂けるように雨を落としました。
川は濁流となり、低地の家々は水に沈んでしまいました。
けれど、姫の忠告で高台へ移っていた者たちは、難を逃れることが出来たのです。
――この子は、ただの人ではない。
そう悟ったのは、父、息長宿禰王でした。
姫の内にある霊の強さは、日ごとに増しています。
――この娘は、その辺の男の妻になるような器ではない。もっと高い位の者のもとへ行く運命だ。
帯姫は、すでに二十五になっていました。
里の娘なら、とっくに子を抱いている年です。
同じ年頃の女たちは、すでに二人三人と子を連れていました。
しかし、当の姫自身は、尊き家へ入ることに興味はありませんでした。
人と話せば話すほど、どこか噛み合わないと感じていました。
(皆が見ている世界と私の見ている世界は、少し違う)
里の娘たちが誰に嫁ぐかで胸を弾ませている横で、姫はひとり考えます。
このまま誰にも嫁がず、神の声だけを聞いて生きるのも、悪くないのではないか――と。
そんなある夜、姫は夢とも現ともつかぬ光景を見るようになります。
夜霧の中に、広い水面。
湖とも海ともつかぬ、果ての見えぬ水のひろがり。
月の光を映して、黒く、静かに揺れています。
その向こう岸に、ひとりの男が立っていました。
高貴な衣をまといながら、ひどく憔悴した男。
顔立ちは整っているのに、瞳の奥に深い疲れと悲しみを宿しています。
まるで、重い石を胸に抱えたまま、遠い岸を歩き続けているような男でした。
姫は最初、その男をただ水越しに眺めるだけでした。
けれど夜を重ねるごとに、姫はその男が、国を動かす立場にあることを知ります。
湖の向こうには、無数の火が灯っています。
人々の祈りと期待と信仰が、星のように集まり、
その中心に、あの男は立たされています――逃げ場もなく。
(あの方は……ひとりなのだわ)
不思議なことに、姫はその男に強く心を惹かれていました。
名前も知らぬのに、ただその憂いに、胸が締めつけられるのです。
そして、ある夜――。
夢の中で、姫の耳に、低く澄んだ声が響きました。
「息長帯姫よ」
それは人の声ではありませんでした。
山鳴りのようであり、海鳴りのようでもある、天と地のあいだから降りてくる声。
「あの男のもとへ行け」
姫の胸が、どくんと脈打ちました。
「汝は、皇后となり、国を導く」
その瞬間、姫の脳裏に浮かんだのは、あの憂いを帯びた男の姿でした。
高貴な衣、疲れた瞳、押し殺したような悲しみ。
(……あの方が、大王……?)
声は続いた。
「汝の知恵と霊は、天の下を救うためにある」
姫は、息をのみ、しばらく動けませんでした。
自分が皇后になる――そんな未来を、これまで一度も望んだことはありません。
けれど。
あの男の憂いを思い出すと、胸の奥に、静かな熱が生まれます。
(もし……あの方が、ひとりで苦しんでいるのなら)
自分にできることが、あるのではないか。
夜明け前、姫はひとりで外に出ました。
東の空が、わずかに白み始めています。
姫は、胸の前で手を組み、そっとつぶやきました。
「……神よ。
それが定めなら、私は――逃げません」
そのとき、どこからともなく、風が吹きました。
まるで、姫の覚悟を確かめるように。
姫は、まだ知りません。
あの夢に現れた男こそ――
即位して間もない大王、
足仲彦天皇であることを。
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次回、第2話「英雄の影に立つ大王」。
英雄の子として即位した足仲彦尊は、
自分自身の価値を問いながら、
王としての在り方を模索していきます。




