第二部 第3章:三つの巨影と、軍師の「選別」
宿の古びた食堂の一角。エールの独特な酸っぱい香りと、安物の煮込み料理から立ち昇る脂っこい匂いが、重苦しい沈黙を包んでいた。 「まあ、みんな、座れ」 俺――シンの声に、不満げに腹を鳴らしていたヤミルも、無意識に剣の柄を弄んでいたガーブも、静かに腰を下ろした。
俺は、昼間ギルドで購入したばかりの地図を、テーブルの真ん中に広げた。そこには俺が走り書きした、数十箇所に及ぶ領主の勢力図、推定兵力、産業の特性といった生々しい「数字」が、執拗なまでに書き込まれている。 その地図を覗き込んだ仲間たちの目に、一瞬、奇妙な色が浮かんだ。それは信頼というよりは、あまりに精密すぎるシンの知略に対する、生理的なまでの違和感と恐怖に近かった 。
「ここからが本当の『旗揚げ』だ。現在地と、俺たちが目指すべき場所を整理する」 俺はペンを指し示し、ゲルマニアという土地の成り立ちから語り始めた。
「まず、ゲルマニアというのは特定の『国』の名前じゃない。かつてのロマヌス帝国が瓦解し、南の東ロマヌス帝国と、北の神聖ロマヌス国に二分されたのは知っているな。その神聖ロマヌス国があった場所が、今俺たちがいるこのゲルマニアだ」
俺の言葉に、クリスが冷めた瞳で地図をなぞる。 「かつての帝国は、もう見る影もないな」 「ああ。かつての帝国の貴族たちがそれぞれ独立し、中小の領主が乱立して争い始めた。本家である神聖ロマヌス国は北東の端っこに辛うじて存続しているが、もはや力はない。宗教的な権威だけで首を繋いでいる、いわば巨大な墓標だ」
地図を見れば、ゲルマニアは四方を強大な勢力に囲まれている。西には俺たちを「捨て石」にしたフランク王国。北西には荒波が打つ北外海。北東には北部大森林。東にはデロス藩王国と、幽族の支配地域。そして南には大内海。 「百二十年前、フランク王国の軍が進軍してきたが、この地の領主たちは結束してそれを追い払った。つまり、バラバラに見えるこの地の領主たちも、外的という共通の敵がいれば、王国に匹敵する軍勢に化ける。問題は、その『調整役』が誰か、ということだ」
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俺は三本の指を立てた。 「だが、近年その勢力図が激変し始めた。現在、ゲルマニアで力を大きくしてきた勢力は三つ。俺たちの『運命』を預ける先はこのどれかだ」
一つ、北部海岸地帯の『ガウス自治領』。
「港街ゲルニーハーヘンを拠点とする商人の街だ。四人の大商人が実質的に支配し、海運交易で得た膨大な金の力で、周辺の領主を経済的に取り込んでいる。その武力は、十数組もの傭兵団を札束で囲い込むことで成立している。ここは『商売の論理』が全てを支配する場所だ」
二つ、東部山岳地帯の『ヴィットマン子爵領』。
「林業と狩猟しか産業がない貧乏な地だが、それゆえに兵が異様に強い。過酷な自然環境で育った彼らは屈強な『鉄鋼兵』という重装兵団を組織し、守りの固さはゲルマニア随一だ。子爵自身、鬼人の血を引くという不穏な噂があるほどだ」
三つ、中央平原の『ミューラー公国』。
「最も治安が悪く、領主同士の争いが絶えない激戦区のど真ん中だ。だが、現公主の息子が『戦争と政治の天才児』と呼ばれ始めてから一変した。包囲した四つの領主軍を知略だけで蹴散らし、逆にそれらを統合した。今やゲルマニアで最も危険視されている、新興の覇権候補だ」
説明を終えた俺に、クリスが尋ねた。 「その三つ以外という選択肢はないのか?」
「ないな。力がない、欲がない、あるいは金がない。そんな領主の下についても、俺たちの目的――オルレアン伯爵への復讐は果たせない。ただの使い捨ての駒に戻るだけだ」
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「ヴィットマンはねぇな」 ヤミルが大きな手を挙げて、地図の一部を隠した。 「重装兵団で固めてるんなら、余所者の傭兵が入る余地なんてねぇ。そもそも貧乏なんだろ? 飯が食えない団なんて御免だぜ」 「同感だ」 俺はヴィットマン領に大きな×印を書き込んだ。
「じゃあ、このガウスっていうところはどうだい?」 ガーブが身を乗り出し、北の港街を指さした。
「金があるんなら、武器も食料も不自由しない。傭兵を何組も雇ってるんなら、俺たち六人くらい、すぐにもぐり込めるだろ?」「いや、ガウスもダメだ。そこが一番の『罠』なんだよ」 俺はガーブの目を見据えて断言した。
「あそこにはすでに有力な傭兵団がいくつもいる。たった六人の俺たちが行っても、どこかの団の末端に吸収されて終わりだ。最悪の場合……俺たちはまた、誰かの帳尻合わせのための『捨て石』として使い潰される。金の力に従うということは、誰かの数式の一部になるということだ」
「捨て石」という言葉に、テーブルの空気が一瞬で凍りついた。オルレアン伯爵の事務的な「死んでくれ」という宣告。あの合理の怪物が残した傷跡は、今も俺たちの魂を蝕んでいる。
「……俺はもう、誰かの駒として死ぬのは御免だ」 俺は残った最後の一つ、地図の真ん中に位置するミューラー公国をペンで囲った。
「おいシン。お前、最初からここ(ミューラー)って決めてたんだろ」 ガーブの鋭い指摘に、俺は否定せずに頷いた。だが、ガーブはそれだけでは納得しなかった。
「……ミューラーに行くのは分かった」 ガーブは低く、刺すような声で言った。
「でも、それが『一番安全』だからじゃないだろ。お前、自分と似た匂いのする『アレク』とかいう奴に、会いに行きたいだけじゃないのか?」
俺の筆が止まった。 図星だった。合理的な選択の裏側に、俺と同じように世界を盤上の数式として捉える「天才児」アレク・フォン・ミューラーへの、個人的な渇望が混じっている。俺は、自分自身の異常性を、あのアレクという鏡で確かめたいだけなのかもしれない 。
「……そうかもしれないな。だが、その賭けに勝たなきゃ、俺たちの復讐は始まらない」
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俺はミューラー公国を指さし、言葉を継いだ。 「公主の息子――アレク・フォン・ミューラー。四つの領主軍を返り討ちにしたその知略、本物かどうか見極めてやりたい。そして、そんな男なら理解しているはずだ。『強い指揮官に、弱い兵は不要だ』ということをな」
「でもよ、シン。そんな『天才児』が、名もなき六人の傭兵なんかに会ってくれるのか?」 ヤミルの当然の疑問に、俺は獰猛な笑みを浮かべた。 「ただ会いに行っても門前払いだろうな。だから、ミューラーに辿り着くまでの道中……俺たちは各地で依頼を受け、魔物狩りと盗賊狩りに精を出す。徹底的にな」
「名を上げて、あのアレク殿下の方から『会いたい』と言わせるんだ。いや、こちらから選んでやるくらいの噂を振りまいてやる」
俺の言葉に、ガーブが立ち上がった。彼女の目には、かつての『緋色の傭兵』としての凶暴な輝きが戻っていた。 「ゲルマニアで名を上げ、力を付け、軍を動かす……。面白いじゃないか。やってやろうじゃないか、シン!」 「よし。言質は取ったぞ。……クリス、ヤミル、ハンス、オットーさん。いいな?」
全員が力強く頷く。 かつての団を失い、居場所を奪われた六匹の狼は、今、自らの牙で「伝説」を刻むための最初の目的地を定めた。
「目指すは中央平原、ミューラー公国。……俺たちの初陣は、もうすぐそこだ」
俺たちの「前進」という名の道は、今、確実に始まった。 だが、その一歩ごとに、俺たちの心の一部が摩耗し、人間としての何かが削り取られていく。
勝利の後に残る爽快感が、次第に機械的な作業への充足感へと変わっていくことに、俺だけは気づき始めていた 。




