第二部 第2章:群雄割拠の荒野、あるいは軍師の選択
フランク王国とゲルマニアの境界を分かつ、冷え切った石造りの門を潜り抜けてから三日が経過した。背後に残した故郷は、今や冬の霧に霞んで見えない。 俺たち『緋色の傭兵団』――いや、今はまだ六人の逃亡者に過ぎない一行は、追っ手の影から逃れたという安堵の中にいた。だが、安堵は同時に、未知なる土地への剥き出しの緊張感をも連れてくる。
ゲルマニア。かつての神聖ロマヌス国が崩壊し、数百年にわたって領主たちが食い合いを続けている「傭兵の約束の地」だ。街道を歩けば、領地ごとに異なる旗印が風に翻り、すれ違う旅人の腰には例外なく護身用の武器が備わっている。
「……空気が違うな。血と鉄の匂いが、フランクよりずっと濃い」
馬車の隣を歩くヤミルが、野獣のような鋭い視線を周囲に走らせながら呟いた。 「それがゲルマニアって場所だよ。ここは法よりも力が、血筋よりも勝利が優先される。俺たちにはおあつらえ向きだ」
俺――シンは、手にした粗末な地図を広げながら答えた。だが、その声はどこか空虚に響いた。俺たちの「前進」は、常に何かを削り落としながら進む。この一歩が、俺たちの人間としての輪郭をさらに歪ませていく予感が胸を掠めた 。
三日間の強行軍の末、俺たちはゲルマニア領内でも比較的規模の大きな商業都市へと辿り着いた。街の入り口には武装した門兵が立っているが、その装備はバラバラで、どこかの領主から払い下げられたような代物だった。
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情報を制する者が戦場を制する。それが俺の持論だ。今の俺たちに必要なのは、飯よりも先にこの地の「勢力図」だった。 商業ギルドの受付に座っていたのは、「だるま」のように丸々と太った中年男だった。毛深い手を机に広げ、品定めするような粘着質な視線を向けてくる。
「情報が欲しい。この辺りの情勢と、今勢いのある領主についてだ」 俺が切り出すと、だるま親父は鼻を鳴らし、太い指先を突き出した。 「情報料だ。タダで教えるほど、このギルドは暇じゃねぇんだよ」 想定内だ。オットーさんが行商人のような愛想笑いを浮かべ、懐から銀貨を一枚、指先で弄んで見せた。
そこから始まったのは、老練な商人と強欲な受付係による、血を流さない「戦争」だった。オットーさんは言葉の端々に相手のプライドをくすぐる毒を混ぜ、だるま親父はそれを飲み込みながら、少しずつ情報の単価を下げていく。
俺はその光景を眺めながら、脳内でこの地の「数式」を組み立てていた。だが、完璧な計算など存在しない。あるのは「間違っていた時、誰が死ぬか」という冷徹な事実だけだ 。
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だるま親父が語った現状は、想像以上に混沌としていた。神聖ロマヌス国が瓦解して以来、数十の領主が四〇〇年以上にわたって争い続けている。 「今、ゲルマニアで『勝ち馬』に乗りたいなら、この三つのどこかだな」 だるま親父が地図に記したのは、三つの特異な勢力だった。
一つ、山岳地帯の『ヴィットマン子爵領』。林業と狩猟しか産業がない貧乏な地だが、屈強な「鉄鋼兵」を組織し、近隣の領主を四人も討ち取っている。
二つ、北部海岸地帯の『ガウス自治領』。海運と商業で膨大な資金を蓄え、それを背景に十数組もの傭兵団を雇い入れている。
三つ、平原中央地帯の『ミューラー公国』。最近の注目株だ。今代の公主の息子――アレクという「天才児」が表に出てきてから戦い方が一変し、すでに三つの領地を飲み込んだ火薬庫だという。
「なるほどな。参考になったよ」 俺は情報を整理し、立ち去ろうとした。その時、俺の計算に微かな「ズレ」が生じた。
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だるま親父が、ふと俺たちの足元の装備に目を留め、怪訝そうに眉をひそめた。 「……ところで、お前ら。どこの傭兵団だ? フランクの武具だが、見たことねぇ紋章だな」
オットーさんが誤魔化そうとしたが、だるま親父の目は、ギルドの奥にある報告書へと向けられていた。
「待てよ……。フランクの南部……『憂国の傭兵団』か? 確か、あの戦いで使い潰されて壊滅したって噂の……」
その瞬間、ギルド内の空気が凍りついた。「卑怯者の『憂国』か!? なぜこんなところにいやがる!」という怒鳴り声が背中に刺さる。 「行こう、オットーさん!」 俺はオットーの腕を掴み、ギルドを飛び出した。
噂は剣よりも速い。そして厄介なことに、剣と違って、どこから斬られたのかが分からない 。オルレアン伯爵が流した「卑怯者」という毒は、俺の推論を追い越し、すでにこの街の隅々にまで浸透していた。
俺の「正しさ」が、形のない悪意によって呆気なく揺るがされた瞬間だった 。
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宿に帰り着いた俺は、食堂のテーブルに買ったばかりの地図を広げた。ガーブたちが固唾を呑んで俺のペン先を見つめる。 「ガウス自治領と、ヴィットマン子爵領……ここには行かない」 俺は地図上の二つの地点に大きな×印を書き込んだ。
「ガウスにはすでに多くの傭兵団がいる。俺たち六人が行っても末端に吸収されて終わりだ。最悪、また捨て石にされる。ヴィットマンは傭兵に払う金がない」 俺のペン先が、地図の真ん中――ミューラー公国を指し示した。「……ミューラーに行くのは分かった」 ガーブが低く、射抜くような声で言った。
「でも、それが『一番安全』だからじゃないだろ。お前、自分と似た匂いのする『怪物』に、会いに行きたいだけじゃないのか?」 俺は一瞬、答えに詰まった。俺の合理的な選択の裏側に、アレク・フォン・ミューラーという異質への個人的な渇望が混じっていることを、彼女は見抜いていた。
「……かもしれないな。アレクという男なら、俺の『数字』の価値を理解するはずだ」 俺は認めた。それは軍師としての判断であると同時に、孤独な同族を求める獣の直感でもあった 。
「目的地はミューラー公国。道すがら、魔物狩りや盗賊狩りで俺たちの『実績』を積み上げる。アレク殿下の方から『会いたい』と言わせるほどの噂を振りまいてやる」
俺の言葉に、ガーブが獰猛な笑みを浮かべ、ヤミルがグレイヴを握りしめた。 絶望の淵から這い上がった六匹の狼は、自らの牙で運命を切り拓くための、真の一歩を踏み出した。 だが、その一歩ごとに、俺たちの心はさらに摩耗していく。勝利とは、何かを失い続けることと同義だということを、俺たちはまだ知らない振りをしていた 。




