第一部 第5章:不敵なる旅立ち、不退転の誓い ―― 灰の中から昇る焔
黒鉄期1733年、冬。フランク王国の東端、隣国ゲルマニアへと続く国境の検問所には、骨まで凍てつかせるような北風が吹き荒れていた。 「――次、止まれ。商人か?」 詰所に控える兵士の、退屈さと寒さへの苛立ちが混じった声が響く。その声に、俺たちの先頭に立つオットーさんが、揉み手をしながら卑屈なまでの愛想笑いを浮かべて近づいていった。
その手つき、腰の低さ、淀みのない嘘。かつて傭兵団の兵站を支え、数多の修羅場で交渉を重ねてきた老練な男の演技は、どこからどう見ても、食い詰めた小悪党の行商人そのものだった。
「はい、その通りでございます、旦那様。許可証はこちらに。辺境の小領主様に頼まれた品を運んでおりましてね」 兵士は鼻を鳴らし、乱暴に荷台の覆いを捲り上げた。
「……何だ、これは。ボロ布に、使い古しの武具か? ろくなもんじゃねぇな」 「へへっ、お目が高い。ですが、質より量を求める方々もいらっしゃるので、これでも商売になるのです」
兵士は鼻で笑って許可証を突き返した。俺――シンは、馬車の傍らでその光景を冷徹に見つめていた。荷台のボロ布の下には、かつて最強と謳われた『憂国の傭兵団』の、血と泥に塗れた誇りが眠っている。団長たちが命を賭して守り、俺たちに託した形見の武具だ。
俺はふと、自らの選択を反芻した。読み書きができ、計算も早い俺なら、このまま身分を偽ってどこかの街で帳簿係として生きることもできるだろう。戦場という泥濘を離れ、平和な、しかし退屈な日常に紛れ込む道だ。 他に、楽な道はいくらでもある。だが――俺は、それを選ばない。 俺の視線の先には、フランク王国という「歪んだ合理性」が支配する世界を塗り替えるための、果てしない荒野が広がっていた。
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検問所を通り抜け、人気のない森へと馬車を走らせた。 一番の難所は、検問所の手前で目覚めたガーブだった。オットーさんに腹を殴られ、気絶させられていた屈辱と、オルレアン伯爵への煮え繰り返るような殺意。我を忘れた彼女は、目を覚ますなり獣のような咆哮を上げた。
「離せ! 離せって言ってるんだよ! あの野郎……伯爵を今すぐ殺しに行くんだ!」 馬車の荷台で暴れるガーブを、ヤミルとハンスが必死に押さえつける。だが、彼女の「緋色の傭兵」としての膂力は凄まじく、二人の巨躯さえも跳ね飛ばさんばかりだった。
俺は彼女の肩を強く、痛いほどに掴み、その瞳を正面から射抜いた。 「ガーブ! 一人で行って何ができる!」 「うるさい! どけ、シン!」 「いいか、伯爵を殺すと言うが、どうやって近づくつもりだ? 衛士、兵士、騎士……重厚な石壁と軍勢に守られているあの男に、剣一本で辿り着けるとでも思っているのか!」
その言葉に、ガーブの動きがわずかに止まった。彼女の瞳にはまだ激しい怒りが渦巻いているが、俺は畳み掛けるように言葉を続ける。
「みんなを殺したあいつを、俺だって野放しにするつもりはない。だが、今の俺たちが行くのは復讐じゃない、ただの自殺だ。……復讐を『成し遂げる』ために、俺たちは一度この国を捨てるんだ」
俺は震える指で、地面に広げた古びた地図の東、数十の領主と傭兵が入り乱れる混沌の地を指し示した。
「ゲルマニアへ行く。あそこが、俺たちの再起の場所だ」
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地図を囲む仲間たちの顔を見渡す。ヤミル、クリス、ハンス、そして怒りで呼吸を乱しているガーブ。 俺は脳内で弾き出した「数式」を、彼らに提示した。それは、あまりに壮大で、あまりに無謀な、血塗られた未来の設計図だった。
「ゲルマニアで傭兵団を立ち上げる。名を挙げ、力を付け、ゲルマニアの軍を動かせるほどの影響力を手に入れるんだ」 「軍を……動かす……?」 ヤミルが呆然と呟く。俺は頷き、確信を持って言葉を継いだ。
「ああ。ゲルマニア軍を動かし、フランク王国に攻め込ませる。そうなれば、王国一の大貴族であり、軍略家を自負するオルレアン伯爵も、最前線に出陣せざるを得ない。……そこで、俺たちの傭兵団が奴の首を獲る」
沈黙が場を支配した。俺が言っているのは、一貴族への暗殺ではなく、国家間の戦争を引き起こし、その戦場をコントロールするという狂気の沙汰だ。
「成功すれば、伯爵を城から引きずり出せる。だが、失敗すれば――俺たちは、ここで終わりだ」 俺は一拍置き、ガーブを真っ直ぐに見つめた。 「……どうだ、ガーブ。あんた、その新しい団の『団長』にならないか?」
ガーブはあっけにとられて驚きの声を上げた。 「……は?」
「今はたった6人しかいない、ボロ布の下に剣を隠した惨めな集団だ。だが、あんたの武勇と、俺の知略があれば、いつか必ずその場所へ辿り着ける。どうだ、乗るか?」
沈黙の後、ガーブの口角が吊り上がった。それは絶望の淵から這い上がった、獰猛な狼のような笑みだった。 「……乗った。あー、もう! 何度でも言うよ。乗った! それで行こうじゃないか!」 「よし。言質取ったぞ。途中で愚痴るなよ、弱音を吐くなよ」 「するか! さぁ、行くぞ、ゲルマニアへ! 旗揚げだ!」
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馬車がゆっくりとゲルマニアの荒野へと足を踏み入れる。 振り返れば、夕闇の向こうに、俺たちを「使い捨て」にし、汚名を着せて放逐したフランク王国の山々が沈んでいくのが見えた。
俺の胸の内には、皆にも語っていない「さらに先」の野望がある。 単なる復讐で終わらせるつもりはない。自らの足で立ち、王や貴族に搾取されるだけの「道具」ではない、自由な生きる権利を、この理不尽な世界から勝ち取ってやる。俺たちの行く手を阻む奴らは、それが誰であろうと、すべてぶち壊して進むだけだ。
この瞬間、俺たちはもう、かつての「憂国の傭兵」ではない。 過去の名誉も、安らぎも、すべてを捨てた。手にあるのは錆びた剣と、胸に燃え盛る執念、そして「生き残ってから戦う」という、変容した強固な信念だけだ。
「金と交渉はオットーさんに任せるよ。俺は立ち上げと団員募集、依頼の精査を。……俺たちは、単なる兵隊じゃなく、一つの『組織』になるんだ」 「おい、シン! 何してる、行くぞ! 遅れるな!」 先を歩くガーブの呼びかけに、俺は静かに応えた。 「ああ。……今行くよ、団長」
黒鉄期1733年、冬。 『緋色の傭兵団』。 後に大陸の歴史を塗り替え、伝説として語り継がれることになる狼たちの歩みが、今、冷酷な冬の風を切り裂き、ここから始まった。




