第一部 第3章:氷雪の誓い ―― 歪められた真実と「赤」の産声
黒鉄期一七三三年、冬。 オルレアン領での凄惨な消耗戦から、早くも四ヶ月が経過していた。夏に流れた同胞たちの血は、すでに冷たい大地に吸い込まれて消え、代わりに従いてきたのは、すべてを白く塗り潰そうとする非情な雪と、骨までを削るような北風だった。
俺たち『憂国の傭兵団』の生き残り六人は、フランク王国東端、隣国ゲルマニアとの国境に近い辺境の街へと辿り着いた。四方を峻険な城壁に囲まれたその街は、隣国からの侵攻や周辺に跋扈する魔獣の脅威から民を守るための、文字通りの「盾」であった。 だが、その「盾」が守るのは、王国の秩序の内側にいる者だけだ。
「あー、腹が減って死にそうだ……。まだかよ、これ」 二メートル近い巨躯を分厚い外套の下に丸め、ヤミルが低い声で零す。その横では、馬車の手綱を握るオットーさんが、鋭い視線で彼を牽制した。 「静かにしろ。……分かっているな? 俺たちは行商人オットーさんの護衛だ。余計な音を立てるな」
俺――シンは、馬車の傍らで冷え切った城壁を見上げながら、脳内で一つの「数式」を組み立てていた。 (――情報の伝播速度は、常に剣の振るわれる速度を凌駕する)
オルレアン伯爵領での敗戦から四ヶ月。俺たちの移動速度と、立ち寄った先々での情報の断片を統合すると、ある冷酷な結論が導き出される。伯爵は、物理的な追っ手を放つ代わりに、より合理的で確実な「毒」を王国全土にばら撒いたのだ。
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検問を通り抜け、街に入った俺たちは、わずかな暖を求めて宿場町の酒場へと向かった。そこは暖炉の火に集まる客たちの熱気で溢れていたが、その中心から聞こえてきたのは、俺たちの心を凍りつかせる旋律だった。
一人の吟遊詩人が、酒瓶を片手に高らかに「戦勝の詩」を歌い上げていた。 「――聴け、オルレアンの奇跡を! 卑怯なる傭兵団が敵を挑発し、恐怖に駆られて逃げ惑う中、正々堂々たるオルレアン伯爵領軍がこれを救い、帝国軍を蹂躙したのだ!」
その歌を聴いた瞬間、隣にいたガーブの顔が、怒りで一気に朱に染まった。「緋色の傭兵」としての誇りを、最も下劣な嘘で塗り潰されたのだ。
「嘘を言うな! 誰が逃げたって!? あいつ、デタラメを……!」 腰の剣に手をかけ、今にも詩人に掴みかかろうとする彼女の体を、俺は力任せに引き戻し、背後から羽交い絞めにした。
「離せ、シン! 聞いただろ、あの言い草を! 親父さんたちが、どんな思いで……!」 「落ち着け、ガーブ。ここで暴れれば、俺たちの正体を宣伝するようなものだ。今は引くんだ」 表面上は冷静を装っていたが、俺の脳内は怒りよりも冷徹な分析に支配されていた。
これは単なる詩人の創作ではない。オルレアン伯爵が、自らの手柄を神格化し、生き残った俺たちの口を封じるために、意図的に流布させた「公式見解」なのだ。 生き残った傭兵をあらかじめ「卑怯者」として社会的に抹殺しておく。これほど合理的で、これほど吐き気のする「防衛策」があるだろうか。
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翌朝、事態は俺の予測を上回る速度で悪化した。 宿屋の主からは「卑怯者は御免だ、今すぐ出て行け」と宿泊を拒否され、街の通りを歩けば、昨日まで同じ「王国」の民であったはずの人々から、石を投げんばかりの冷たい視線が突き刺さる。 職を求めて訪ねた傭兵ギルドの看板には、無残な殴り書きがされていた。 『卑怯者は出て行け』――。
街を離れるため門へ向かう際、門衛の男が俺たちの足元に痰を吐き捨てた。 「二度と来るな、面汚しの卑怯者ども。お前たちのせいで、どれだけの名誉が汚されたと思っている」 ガーブの拳が震え、ヤミルやクリスも限界を超えた怒りの炎を宿していた。だが、俺はガーブの手首を強く掴み、静かに首を振った。
(――ここでこいつを斬れば、一時的な鬱憤は晴れる。だが、それは“正解”じゃない)
今、無名の門衛を斬り伏せることに、どんな戦略的価値がある? 無駄に騒ぎを大きくし、伯爵の追手に現在地を教えるだけだ。 「今の俺たちの剣には、ここで抜くほどの価値はない」 俺は仲間を促し、一度も振り返らずに門を潜った。俺たちの背後で閉まる重い門の音は、俺たちを「捨て石」として扱ったフランク王国という国との、完全な決別を告げる音だった。
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その夜、街道を外れた森の中で、俺たちは小さな焚き火を囲んでいた。薪が爆ぜる乾いた音だけが、死んだような静寂をかろうじて押し返している。 沈黙を破ったのは、オットーさんの、ひどく重苦しい声だった。
「……皆、聞いてくれ。俺は、あの日……最後の戦いの前夜に、あの本陣で何が語られていたのかを話さねばならない」 オットーさんの語る真実は、俺が薄々感じていた最悪の予測を、生々しい現実として確定させた。
あの日、伯爵は八つの傭兵団の団長を呼び出し、表情一つ変えずにこう告げたのだという。 『――明日の戦い、傭兵団は全軍をもって正面中央から突貫せよ。屍を晒してでも、帝国軍を足止めするのだ。正規軍が戻るまでの二ヶ月、一歩も引くことは許さん』 「死ねと言うのか!」と吠えた他団の団長に対し、伯爵は虫を見るような目でこう答えた。 『――では、死ね。所詮は傭兵風情。帝国軍を引き連れて地獄へ行くか、ここで我が領軍に屠られるか……選ぶがいい』
さらに、オットーさんは密談の内容を明かした。伯爵は、傭兵が生き残ることを最初から望んでいなかった。勝利の功績を独占するために、戦力として使い潰した後は、その存在ごと歴史から消し去るつもりだったのだ。 「団長たちは……それを分かった上で、若いお前たちだけを逃がそうとしたんだ」
オットーさんの声が震えていた。俺たちの「親父さん」たちは、自分たちが名誉も命も奪われる「仕組み」の一部であることを理解した上で、俺たちに未来という名の重荷を託したのだ。
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「ふざけるな……! 伯爵の野郎、ぶっ殺してやる!」 ガーブが叫び、逆上して飛び出そうとした。だが、俺は彼女の肩を強く、痛いほどに掴み、その瞳を正面から射抜いた。
「ガーブ! 一人で行って何ができる! 重厚な石壁と軍勢に守られているあの男に、剣一本で辿り着けるとでも思っているのか!」 「うるさい! じゃあ、あいつを野放しにするって言うのか!」 「違う。復讐するかどうかは、もう問題じゃない。……どうやって、確実に奴のすべてを根こそぎ奪うか、だ」
俺は地面に広げた地図の一点――フランク王国の東に広がる混沌の地、ゲルマニアを指し示した。 「ゲルマニアへ行く。そこなら伯爵の手も、王国の腐った法も届かない。そこで新しい傭兵団を立ち上げ、名を挙げ、力を付け、ゲルマニアの軍を動かせるほどの影響力を手に入れるんだ」
俺の提案は、あまりにも壮大で、あまりにも無謀なものだった。 「ゲルマニア軍を動かし、フランク王国に攻め込ませる。そうなれば、伯爵も最前線に出陣せざるを得ない。……そこで、俺たちが奴の首を獲る。奴が信奉する『合理』という名の権力構造そのものを、俺たちの力で塗り替えてやるんだ」
沈黙が流れた。だが、俺は確信していた。個人の暗殺では意味がない。俺たちは「殺される側」の駒から、自ら「盤面を支配する側」へと成り上がる必要があるのだ。
「……どうだ、ガーブ。あんた、その団の『団長』にならないか?」 ガーブは呆然としていたが、やがて、その瞳に獰猛な狼のような輝きが戻った。 「……乗った。あー、もう! 何度でも言う。乗ったよ! それで行こうじゃないか、旗揚げだ!」
その瞬間、俺たちはもう、ただの逃亡者ではなくなった。 自分たちを「捨て石」として扱った世界を、自分たちの足で踏み荒らす獣へと変わったのだ。
「金と交渉はオットーさんに。俺は組織の構築と戦略を考える」 「ああ、任せろ」 「おい、シン! 何してる、行くぞ! ゲルマニアへ!」
黒鉄期一七三三年、冬。 振り返れば、俺たちを追放した王国の山々が夕闇に沈んでいく。 だが、俺たちの前には、冷徹な計算と燃え盛る執念によって描かれた、果てしない荒野が広がっていた。




