第三部 第6章:生還の対価と、揺るがぬ北極星
俺が薄暗い治療院のベッドで目を覚ました時、最初に耳に飛び込んできたのは、仲間たちの騒がしい足音だった。 俺たちが絶体絶命の危機を脱し、こうして生きて再会できたのは、ひとえにマルコの「根性」のおかげだった。彼は魔獣の咆哮を背に受けながら、ただ街へ逃げ込むのではなく、ハンスの潜伏地点を正確に見定め、俺の危機を報せに走ったのだ。
(ただの宿場町のごろつきにしちゃ、出来すぎた判断だ。あいつには、人を導く資質があるのかもしれないな……) のちに「教育隊長」として孤児たちをしごくことになるマルコの片鱗を、俺はこの時、意識の混濁の中で確かに感じていた。
宿場町に戻った俺を診察した治療院の老婆は、俺の体を無造作にひっくり返すと、しわがれ声で笑った。 「おや、あの巨体の爪を喰らって骨の一本も折れていないなんて、あんた、中身が鉄でも詰まってるのかい? ひぇっひぇっひぇ」 その笑い方は不気味だったが、腕のしびれ以外に致命的な損傷がないという言葉に、俺は心底安堵した。
戦いのアトシマツについては、俺は治療院のベッドから動けず、すべてをハンスに委ねるしかなかった。ハンスの報告によれば、現場の惨状は凄まじかったらしい。 通常個体二体、そしてあの規格外の「特異体」一体。もし俺たちが介入していなければ、この宿場町は今頃、地図から消え去っていただろう。親父さんをはじめとする町衆たちは、事態の重大さを後から知り、顔を真っ青にしていたという。だが、危機が去れば宴が始まるのが人間の常だ。壁越しに聞こえる喧騒を、俺は遠い国の出来事のように聞いていた。
夜半、親父さんとマルコが連れ立って見舞いに来た。
「ありがとう。あんたたちが来なければ、俺たちは……」 親父さんは深く、深く頭を下げ、重みのある報奨金の袋を置いていった。中身を確認すると、当初の約束にかなりの色が付けられている。 特異体という、二百名の討伐隊を全滅させるような災厄を、一人の死者も出さずに仕留めたのだ。この程度の金額で済んだのは、町にとっても僥倖だろう。
だが、この「良心的な対応」に、我らが副団長オットーさんは納得しなかった。
「シン君、算盤を弾いてみてください。特異体との交戦による装備の損耗、消耗品、そして君の治療費。これ、普通に請求したら大赤字ですよ?」 オットーさんは目の前に積み上げた請求書の山を叩き、算盤をパチパチと鳴らした。
結局、俺の治療費は町が全額負担し(治療院の老婆が受け取りを拒んだのも大きいが)、農家からは感謝の印として大量の保存食や野菜が提供された。現物支給分を厳密に換算し、ようやくオットーさんの「経営判断」が黒字に転じた。やれやれ、このおっさんを納得させるのが魔獣狩りより大変だとは。
三日後、俺は治療院を退院した。宿に戻るなり俺が向かったのは、裏庭だ。
特異体の打撃を受けた腕は、折れてこそいないが、神経が驚いているのか思うように動かない。しびれが残る指先で、ナイフを投げてみる。 「カツン、カツン」 的に当たる音はするが、いつものような「吸い付く感覚」がない。可もなく不可もなく――実戦で使うには、まだ不安が残る精度だ。
「もういいのかい?」 背後から、いつもの柔和な、だが射抜くような眼光を湛えたオットーさんが現れた。
「ええ。まずまず、といったところです」 「そうかい。まぁ、シン君の場合は『頭脳』さえ残っていれば、手足の多少の不自由は、我々が補いますからね」 オットーさんの言葉に苦笑するが、彼は急に真顔になった。
「特異体が出たと聞き、君が一人で相手をしていると知った時、ガーベラさんとハンス君がどんな顔をしていたか分かりますか? クリス君もヤミル君も、あんなに慌てた彼らを見るのは初めてでしたよ」 俺は姿勢を正し、彼の言葉を「緋色の傭兵団の背骨」としての忠告として受け止めた。
「ガーベラさんが怒っているのは、君が死ぬことを覚悟したからではありません。君が『諦めた』からです。 それは、我々への裏切りですよ。我々はまだ何も成し遂げていない。オルレアン伯爵という、我らの真の敵に一矢報いるどころか、指先さえ触れていないのです。シン君、君はこの団の『頭脳』だ。指揮系統の欠落は、団の死を意味するのですよ」
「……その通りですね」 俺は的に向けてナイフを放った。カチッ、と今度は深く突き刺さった。
「シン君。なぜ、あの場で『双刃』を抜かなかったのですか?」 その鋭い問いに、俺は言葉を失った。俺の隠された獲物――かつて騎士の端くれとして、そして憂国の傭兵として振るった二振りの刀。それを抜かなかったのは、どこかで「自分はこの程度で終わる」と線を引いていたからかもしれない。
「……参りましたね。オットーさんには敵わないな」 俺は的に刺さったナイフを回収しながら、決意を新たにした。 俺たちは、俺は、這ってでも、泥を啜ってでも前に進まなければならない。誰も欠けてはいけない。全員でこのゲルマニアで名を上げ、いつか必ず、オルレアン伯爵領の城門を叩き潰す。
「オットーさん、ありがとう。もう迷いません。……ただ、赤字については、今後なんとかしますから」 「当然ですよ。黒字でやり切る、それがシンの役割でしょう」 オットーさんは満足げに頷くと、いたずらっぽく笑った。
「さて、あとは……ガーベラさんに譲りましょうか」 「げっ」 逃げ出そうとした俺の襟首を、鋼のような握力が掴んだ。 「シン……。どこに行くのかな? 腕の調子が悪いなら、アタシがじっくり『検分』してあげよう。ね?」 そこには、瞳の奥に静かな焔を灯したガーブが立っていた。 逃げることはできなかった。その夜、俺の悲鳴が裏庭に響いたのは言うまでもない。
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夜。宿屋の裏庭で、俺は独り月を仰いでいた。 ガーブとの「対話(物理)」を終え、全身が痛むが、頭は冷徹に冴え渡っている。 考えなければならないことは、山積している。
一つ、なぜこの平穏な地域に、本来北方に現れるはずの特異体が出没したのか。環境中の魔那の変質か、それとも何者かの意図か。
一つ、現れた特異体のサイズ。北方の狼型に比べ、今回の熊型は小ぶりだった。その不自然さの正体。
一つ、今回の「特異体討伐」という圧倒的な実績を、どう対外的な宣伝に利用するか。
一つ、目標とする五十人以上の団員を、どう選別し、読み書きや計算を含めた「戦う知力」を持たせて育成するか。
一つ、五色の傭兵群団の干渉を避け、かつ迅速にゲルマニア中を駆けるための拠点をどこに置くか。やはり「すべての道が通ずる」旧帝都か。
一つ、そして最も重要なこと。ミューラー公国のアレク殿下に、どうやって俺たちの価値を知らしめ、対等な交渉の席に着かせるか。
策はある。だが、現状での成功率は五分以下だ。 情報が足りない。実力が足りない。 俺は、旧街道の先にある暗闇を見つめ続けた。雲に隠れた月は、ただ冷ややかに、俺たちの遠い道程を照らしていた。




