第三部 第4章:静寂の狩人と紅の猛獣
深夜の宿場町外れ、家畜小屋の隅にヤミルはいた。二メートルを超える筋骨隆々の巨躯を、彼はまるで背景に溶け込ませるかのように小さく、静かに折り畳んでいる。手には愛用のグレイヴが、主の静謐な呼吸に合わせてその鈍い輝きを殺していた。
ヤミルが実践しているのは、かつて「憂国の傭兵団」の先輩から授けられた独自の呼吸法だ。殺気に満ちた戦場において、あえて「気を静め、溜める」。動くことなく石と化すことで、周囲の自然な空気の流れと同化し、敵の警戒網をすり抜ける。この「待ち」の技術こそ、彼が戦場を生き残るために研鑽してきた生存戦略だった。
石と化したヤミルの周辺に、月明かりと夜風だけが流れてから一時間が過ぎた。 不意に、森の境界から巨大な影が這い出した。体長二メートルを超える熊型の魔獣だ。獣は立ち止まり、湿った鼻を動かして「人の匂い」と「鉄の匂い」を嗅ぎ分ける。人里である以上、匂いがするのは当然だが、この獣は狡猾だった。慎重に数歩進んでは止まり、周囲を観察する。
獣の狙いは、柵の向こうにいる家畜の脂の乗った肉だ。五日前に喰った鶏では足りない。目の前の囲いを叩き壊し、思う存分肉を喰らう。その飢えた本能が頂点に達し、獣が二本足で立ち上がったその瞬間――。
視界の端で、銀色の閃光が走った。 「ヒュン」という短い風切り音。 次の瞬間、獣の視界は不可解なほど急激に地面へと落ちた。首を上げようとしても、意識を司る神経はすでに断たれている。何が起きたのか理解する間もなく、魔獣の巨体は前のめりに崩れ落ち、沈黙した。
その横で、無造作にグレイヴを振り下ろしたヤミルがゆっくりと立ち上がった。「ふー……」と、溜めていた息を吐き出すその姿は、再び圧倒的な存在感を取り戻していた。
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一方、もう一つの襲撃予測地点である畦道では、ヤミルとは正反対の光景が広がっていた。
「遅い……。遅すぎる」 ガーブは腕を組み、仁王立ちで苛立ちを募らせていた。気が短い彼女にとって、この静かな待機時間は苦行でしかない。ヤミルが「気を静める」のに対し、ガーブは戦いを前にした興奮と闘志で「気を充満」させていた。
それは周囲の魔獣に対し、「喰らいたければ俺を倒して行け」と大声で叫んでいるようなものだった。もし俺がここにいたら、「風下にいる意味がないだろ」と呆れていただろう。
果たして、森から現れた二体目の魔獣は、明確にガーブの存在を認識していた。獣は立ち止まり、本能的な戦力分析を行う。目の前の人間は小さく、ひ弱そうに見えるが、その背にある鉄の刃が放つ威圧感は無視できない。だが、自らの体長は二メートル四十センチ、体重は六百キロを超える。圧倒的な質量と、頭蓋を粉砕する四本の爪があれば、一撃でこの獲物を沈められる。そう確信した獣は、地を蹴った。
鈍重に見える巨体からは想像もつかない瞬発力。走る騎馬すら凌駕する速度で、魔獣がガーブに飛びかかる。 「があ! があ!」 凄まじい顎が空を斬る。避けられた。獣は即座に反応し、左腕の爪を振るうが、それも空を裂く。獲物は上に飛んでいた。
ガーブは空中を舞い、魔獣の頭上を鮮やかに飛び越える。着地と同時に低く屈み込み、獣の死角へ。怒り狂った魔獣が再び覆いかぶさろうとした瞬間、世界が反転した。
「……どちゃり」 獣は何が起きたのか分からなかった。ただ、急に後ろ足の感覚が消え、地面に這いつくばっていた。 「なかなか良かったよ。迫力だけはね」 ガーブが肩に大刀を乗せ、不敵に笑いながら見下ろしていた。魔獣の強靭な後ろ足は、彼女の神速の一撃によって一瞬で両断されていたのだ。
「これで、終わり」 大刀が閃き、数十秒の「遊び」は残酷なまでの結末を迎えた。
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「終わったようです」 俺は傍らで硬直しているマルコに告げた。
「えっ……? 何も見えない。何が起きたのか全然……」 マルコはがっくりとうなだれた。無理もない。月明かりだけが頼りの暗闘だ。熟練の傭兵の動きを、ただの里人が追えるはずがない。
後処理のためにクリスとハンスがそれぞれ動き出すのを見て、俺も重い腰を上げた。だが、歩き出そうとしたその瞬間。俺の背筋を、かつて戦場で何度も感じた最悪の悪寒が駆け抜けた。
「マルコ! しゃがめ!!」 俺の怒鳴り声と同時に、闇の中から「それ」が姿を現した。 家畜小屋の陰から立ち上がったのは、前の二体とは比較にならない、三メートルを超える巨躯を誇る「三体目」だった。 「……やべぇ、特異体(特異個体)か!?」
通常個体とは桁違いの質量と魔那を宿した変異種。マルコは訳も分からず俺の視線を追うが、魔獣と目が合った瞬間、蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「バカ! 早くしゃがめ!」 俺は瞬時に腰のナイフを引き抜き、魔獣の目に目掛けて投げつけた。鋭い朱線が闇を切り裂き、ナイフが獣の眼球に深く突き刺さる。
「ゴアアア!!!」 鼓膜を震わせるような絶叫を上げ、のけぞる魔獣。だが、その痛みは獣を退かせるどころか、狂暴な怒りに火をつけた。
獣の巨大な腕が薙ぎ払われる。俺はその一瞬の隙にマルコに抱きつき、無理やり地面へと押し倒した。
「ぶん!!」 空気を引き裂く爪が、俺の背中の服をかすめていく。その衝撃だけで、俺たちは数メートルも吹っ飛ばされ、地面をごろごろと転がった。
「……っ、マルコ! 立て! 走れ!!」 目を回しているマルコの頬を叩き、俺は全力で怒鳴りつけた。
「あ……あっ……」 「早く行け! こいつは俺が止める!」
俺は魔獣から目を離さず、背後のマルコに退避を促し続ける。恐怖に顔を歪めたマルコは、這うようにして立ち上がり、そのまま夜の闇へと走り去った。
目の前では、魔獣が目に刺さったナイフを強引に引き抜いていた。片目を失い、どす黒い血液を流しながらも、残ったもう一つの目が怪しく、残酷に光っている。獣は四つ足で姿勢を低くし、ゆっくりと、確実に俺を追い詰めるように歩み寄ってきた。
俺は残りのナイフを二本抜き、逆手に構える。 「……こいつはやべぇな。ガーブかヤミルがいたら……いや、俺がやるしかない」
魔獣が速度を上げる。俺の計算能力をフル稼働させても、生存率は極めて低い。だが、俺は「緋色の傭兵団」の頭脳だ。ここで倒れるわけにはいかない。
「本当に……やべぇな!」 俺は双刃を抜くことさえ躊躇われる極限状況の中で、一歩前に踏み出した。




