第8話 わたくし、あなたのことが……
学園長室の扉は、重く、冷たくそびえ立っていた。
隣にはエドガー様。
彼は涼しい顔でノックをし、返事を待たずに扉を開けた。
「失礼します。ミレイユをお連れしました」
部屋の中は、高級な絨毯と古い魔導書の匂いがした。
執務机の奥。
白髭を蓄えた学園長が、穏やかな、しかし感情の読めない瞳でこちらを見ていた。
「よく来たね、クラウゼル嬢。そしてリヒター君」
「お呼びと伺いましたが……」
わたくしは努めて平静を装い、カーテシー(淑女の礼)をした。
心臓が早鐘を打っている。
昨夜の地下侵入がバレたのか。
それとも、レオンとの密会が露見したのか。
学園長は手元の書類――わたくしの魔力測定データを指先で弾いた。
「単刀直入に言おう。君の魔力波長が乱れている。非常に……『感情的』にね」
「……申し訳ありません。修練不足で」
「不足? いやいや、逆だよ。過剰だ」
学園長は立ち上がり、ゆっくりと窓際へ歩いた。
背を向けたまま、低い声で続ける。
「この学園の理念は『秩序ある魔力の探求』だ。過度な感情、特に恋愛ごっこによる魔力の変質は、将来の宮廷魔術師として致命的な欠陥となる」
「欠陥……」
「君には期待しているのだよ。お母上の血を引く、優秀な『器』としてね」
お母上。
その単語が出た瞬間、地下の光景がフラッシュバックした。
水晶の中に閉じ込められた母。
この人は知っている。
母がどこにいて、何をされているのかを。
「……学園長先生。母は、病気で亡くなったと聞いておりますが」
問いかけたい衝動を抑えきれず、言葉が漏れた。
エドガー様がピクリと眉を動かす。
学園長はゆっくりと振り返り、爬虫類のような冷たい笑みを浮かべた。
「当然だ。公式記録ではそうなっている」
「では、実際は……?」
「詮索は身を滅ぼすよ、お嬢さん。……特に、悪い虫がついている時はね」
悪い虫。
レオンのことだ。
学園長は机に戻り、一枚の書類を突き出した。
そこには『退学勧告書』という文字と、レオン・アークライトの名前があった。
「彼がこれ以上、君の心を乱すようなら、排除せざるを得ない。彼のためにも、君の身の振り方を考えたまえ」
脅迫だ。
わたくしを人質にしてレオンを追い出すと、そう言っている。
「……承知いたしました。以後、気をつけますわ」
震える声で答えるのが精一杯だった。
◇
**【経過時間:放課後】**
「聞いたかい、ミレイユ」
学園長室を出た廊下で、エドガー様が立ち止まった。
彼はわたくしの肩に手を置き、優しく、しかし逃げられない力で掴んだ。
「君は穢れを知らない純白でなければならない。あんな薄汚い平民と関われば、君自身の価値が下がる」
「……彼は、汚くなどありません」
「ほう? まだ庇うのかい」
エドガー様の指が食い込む。
痛い。
「君は婚約者としての自覚が足りないようだ。いいかい、これは君の家のためでもある。もし退学になれば、クラウゼル家はどうなるかな?」
家。
父やお兄様たちの顔が浮かぶ。
わたくしの我儘で、家族に泥を塗るわけにはいかない。
それは貴族として、絶対に越えてはならない一線。
「……わかっています」
「ならいい。今日からは僕が送り迎えをする。彼とは一切の接触を断つんだ」
エドガー様は満足げに微笑み、わたくしの額に冷たいキスを落とした。
それは焼印のように、わたくしの心を焼き焦がした。
◇
放課後の渡り廊下。
わたくしは一人、歩いていた。
エドガー様には「図書室に忘れ物をした」と嘘をついて、少しだけ時間を貰った。
どうしても、レオンに会いたかった。
会って、伝えなければならない。
もう会えないと。
そして、昨夜の訓練の礼と、地下での借りを。
(……いた)
中庭の見える回廊の手すりに、彼はいた。
いつものように制服を着崩し、アンニュイな表情で空を見上げている。
その横顔を見るだけで、胸が締め付けられるほど苦しい。
これが恋だと、もう否定できない。
でも、この恋は始まってはいけないものだった。
「……レオン」
声をかける。
彼はゆっくりと視線を下ろし、わたくしを見た。
その瞳に、いつものような温かさはなかった。
冷え切った、他人の目。
「……なんだ、お嬢様か」
声のトーンが低い。
昨夜、あんなに近くで囁き合ったのが嘘のようだ。
「あの、昨日は……ありがとうございました。それから、学園長に呼び出されて……」
「ああ、聞いたぜ。俺が退学になりそうなんだってな」
彼は鼻で笑った。
ポケットに手を突っ込み、面倒くさそうに踵を返す。
「もう俺に関わんな。迷惑なんだよ」
「……え?」
耳を疑った。
迷惑?
昨夜、「お前は悪くない」と言ってくれたのに?
「迷惑って……どういうことですの?」
「言葉通りの意味だ。お前といると、教師の目がうるさいし、俺の評価まで下がる。ただでさえ特待生枠ギリギリなんだ。お遊びに付き合ってる暇はねえんだよ」
お遊び。
彼は、昨夜のあれを、命がけで逃げた時間を、お遊びだと言うの?
「嘘ですわ……。昨日は、あんなに優しく……」
「優しく? はっ、勘違いすんなよ」
レオンが振り返り、わざとらしい嘲笑を浮かべた。
その笑顔は、胸が張り裂けるほど痛々しくて、残酷だった。
「お前が俺の魔力を『中和』できるから利用しただけだ。便利な電池代わりだよ。……貴族のお姫様が、本気にしたのか?」
電池。
利用しただけ。
頭を殴られたような衝撃。
言葉が出ない。
呼吸がうまくできない。
「お前には婚約者がいるだろ。あのお人形みたいな優等生がお似合いだ。……大人しく籠の中にいろよ」
彼は冷たく言い放ち、歩き出した。
すれ違いざま、彼の袖がわたくしの腕にかすめる。
でも、魔力の共鳴は起きなかった。
彼が完全に心を閉ざしているからだ。
「……待って!」
わたくしは彼の背中に叫んだ。
プライドも、淑女の仮面もかなぐり捨てて。
「嘘ですわよね!? わたくしを巻き込まないために、わざと……!」
レオンの足がピタリと止まる。
背中が強張っているのが分かる。
肯定して。
振り返って、「バレたか」と笑って。
数秒の沈黙の後、彼は背中を向けたまま、低い声で言った。
「……うっとうしいんだよ、お前」
その声は、拒絶の刃となってわたくしの心を貫いた。
彼はもう振り返らなかった。
足早に、角を曲がって消えていく。
残されたのは、夕暮れの廊下と、愚かな令嬢が一人。
「……っ、うぅ……」
涙が溢れた。
止まらなかった。
初めての恋だった。
何も始まっていないのに、何も伝えられていないのに、終わってしまった。
空が急に暗くなり、ポツリポツリと雨が降り出した。
わたくしの心模様を映すように、雨足はすぐに激しくなる。
「さようなら……レオン」
雨音にかき消されたその言葉は、誰にも届かない。
胸のペンダントが、悲鳴を上げるように微かに明滅していた。
でも、その光に気づいてくれる人は、もういない。
ザァァァァァ……。
雨に打たれながら、わたくしはその場に立ち尽くしていた。
体内で行き場を失った魔力が、どす黒く、重く、渦を巻き始めていることにも気づかずに。
これが「絶望」という感情であることを、わたくしはこの時初めて知った。




