第5話 婚約者は正しくて、優しい人です
鏡の中に、知らない少女がいる。
純白のドレスに身を包み、髪を完璧に結い上げた侯爵令嬢。
誰からも羨まれる、エドガー様の婚約者。
「……笑って」
指先で頬を持ち上げる。
鏡の中の少女が、引きつった笑みを返してくる。
まるで精巧に作られたビスクドールのようだ。
今日は学園主催の「春の舞踏会」。
本来なら心躍るイベントのはずなのに、胃の底に鉛が入っているように重い。
コンコン。
控えめなノックの後、扉が開く。
「ミレイユ、支度は済んだかい?」
エドガー様が入ってきた。
夜会服を隙なく着こなした彼は、ため息が出るほど美しい。
けれど、わたくしを見るその目は、美術品を鑑定する学芸員のようだった。
「素晴らしいよ。今日の君は、どこに出しても恥ずかしくない」
「……ありがとう存じます、エドガー様」
「さあ、行こうか。今日のダンスで、僕たちの『結合』の深さを証明するんだ」
結合。
その単語に、背筋が粟立つ。
彼は優雅に手を差し出したが、その手には白い手袋がはめられていた。
校則第1条、接触禁止。
だから、彼の手を取ることはない。
指先を空中で重ねるふりをするだけだ。
わたくしは震える息を吐き出し、見えない手を取るように歩き出した。
◇
大広間は、光と音の洪水だった。
シャンデリアが煌めき、オーケストラが優雅なワルツを奏でる。
しかし、フロアの光景は異様だ。
男女のペアが踊っているが、誰一人として触れ合っていない。
1メートルの距離を保ち、互いの魔力を糸のように繋いで、操り人形のように旋回している。
これが「魔導舞踏」。
接触せずに心を通わせるという、この学園独自の伝統。
「行くよ、ミレイユ」
エドガー様の魔力が、わたくしの腰に見えない紐を巻き付ける。
ぎゅっ、と締め付けられる感覚。
物理的な痛みはない。
でも、魂を鷲掴みにされたような不快感がある。
「はい……」
音楽に合わせてステップを踏む。
エドガー様のリードは完璧だ。
一ミリのズレもなく、わたくしを誘導する。
右へ、左へ、ターン。
わたくしの意思は関係ない。
彼の魔力が「右へ動け」と命じれば、わたくしの足は勝手に動く。
「いい動きだ。魔力伝導率も上がっている」
彼は満足げに囁く。
1メートル向こうの彼は、涼しい顔で微笑んでいる。
「次は第3楽章だ。少しテンポを上げるよ」
「っ、エドガー様、少し早すぎ……」
「君ならできる。僕に合わせて」
魔力の拘束が強まる。
息ができない。
まるで水槽の中で踊らされているようだ。
周囲からは「なんて息の合ったペアだ」「美しい」という称賛の声が聞こえる。
違う。
これは調和じゃない。
一方的な支配だ。
(苦しい……誰か、止めて……)
助けを求めようとして、視界が揺れた。
その時、ふと脳裏をよぎったのは、あの日の倉庫の暗がり。
レオンの、不格好で温かい上着の重み。
彼の魔力は、こんなふうに強制したりしなかった。
ただ隣にあって、わたくしを支えてくれていた。
「ミレイユ! 足元が乱れているよ」
エドガー様の鋭い声。
ハッとする。
わたくしはステップをもつれさせ、無様にバランスを崩しかけた。
とっさに魔力で姿勢を直すが、ドレスの裾を踏んでしまう。
ビリッ。
小さな音がして、純白の布が裂けた。
音楽は止まらない。
でも、エドガー様の顔から笑みが消えた瞬間を、わたくしは見てしまった。
失望。
そして、欠陥品を見る冷たい目。
「……休憩しようか」
彼は低い声で言い、魔力の糸をプツリと切った。
支えを失ったわたくしは、よろめきながら壁際へと下がった。
◇
「君らしくないね。少し頭を冷やしてくるといい」
エドガー様にそう言われ、わたくしは逃げるようにバルコニーへ出た。
夜風が熱を持った頬を撫でる。
涙が出そうだった。
悲しいのではない。
自分が情けないのだ。
完璧な令嬢であるはずのわたくしが、ダンス一つ満足に踊れないなんて。
それに、エドガー様は正しい。
わたくしを美しく見せようと、完璧なリードをしてくれたのに。
それに応えられないわたくしが悪いのだ。
「……はぁ」
手すりに寄りかかり、深く息を吐く。
月が綺麗だ。
いっそ、このまま消えてしまいたい。
「シケた面してんなあ、元・新入生代表」
不意に、上から声が降ってきた。
驚いて見上げると、バルコニーの屋根の縁に、誰かが座っていた。
黒いベストに蝶ネクタイ。
ウェイター姿のレオンだ。
「レ、レオン!? そこで何をしてますの!?」
「バイトだよ、バイト。特待生は学費免除だけど、生活費は自腹なもんでね」
彼はひらりと身軽に飛び降りてきた。
音もなく着地する身のこなしは、猫のようだ。
手には銀のお盆。
そこには、グラスに入った炭酸水が一つ乗っている。
「ほらよ。喉乾いてんだろ?」
「……わたくしに?」
「他に誰がいんだよ。さっきから見てたけど、随分と窮屈そうなダンスだったな」
図星を刺され、言葉に詰まる。
彼はグラスを押し付けるように渡してきた。
受け取ると、冷たい結露が指先を濡らす。
「……わたくしのダンスは、完璧でしたわ。周囲も褒めていました」
「あいつらは節穴だろ。お前、ずっと息止めてたじゃねえか」
「っ……」
「あんなのダンスじゃねえよ。ただの遠隔操作だ」
彼は手すりに背を預け、夜空を見上げながら言った。
痛いところを突く。
でも、不思議と腹は立たなかった。
エドガー様は「結果」しか見ていなかったけれど、レオンは「わたくし」を見ていてくれたのだと分かったから。
一口、炭酸水を飲む。
シュワシュワと泡が弾け、喉の渇きを癒やす。
美味しい。
さっきの高級シャンパンより、ずっと。
「……ドレス、破けちまったな」
彼はわたくしの足元を指差した。
裾が少しだけ裂けている。
「ええ。これではもう、会場には戻れませんわ」
「貸してみ」
彼は懐から、またあの小さな工具セット……ではなく、今度は安全ピンを取り出した。
そして、片膝をついて、手際よく裾を留めていく。
「ちょ、ちょっと! 何をして……!」
「動くな。応急処置だ。裏から留めれば目立たねえ」
彼の指先が、ドレス越しに足首に触れる。
熱い。
心臓が跳ねる。
でも、嫌じゃない。
彼の作業は、魔法よりもずっと丁寧で、優しかった。
「……よし、これでいい」
彼は立ち上がり、満足げに頷いた。
「あんたは魔法が下手なわけじゃねえ。ただ、相性が悪いだけだ」
「相性?」
「あの優等生野郎の魔力は、お前を型枠に嵌めようとする。でも、お前の魔力はもっと……自由になりたがってる」
彼は真剣な目でわたくしを見た。
その瞳に、自分の情けない顔が映っている。
「無理して笑うなよ。ブサイクだぞ」
「……無礼ですわよ! ……でも」
わたくしは、もう一度炭酸水を口に含んだ。
泡が鼻にツンときて、涙が滲んだ。
「……でも、ありがとう。美味しいですわ」
素直な言葉がこぼれた。
レオンは少し驚いた顔をして、それからフッと口角を上げた。
「どういたしまして、お嬢様」
その笑顔を見た瞬間。
わたくしの中で、何かが音を立てて崩れた。
それは「完璧な令嬢」としての仮面か、それとも「エドガー様への義務感」か。
ガチャン。
バルコニーの窓が開く音がした。
「ミレイユ、ここにいたのか」
エドガー様だ。
わたくしは弾かれたようにレオンから離れた。
レオンは瞬時にウェイターの顔に戻り、恭しく一礼して闇に紛れようとした。
「……待て」
エドガー様が呼び止める。
その視線は、わたくしではなく、レオンの背中に向けられていた。
「君、名前は?」
「……ただのバイトです」
「そうか。……君からは、不快なノイズを感じるな」
エドガー様は氷のような瞳でレオンを一瞥し、わたくしに手を差し出した。
「さあ、戻ろうミレイユ。次はラストダンスだ」
その手を取らなければならない。
それが正しい選択だ。
でも、わたくしの視線は、闇に消えていくレオンの背中を追っていた。
彼の背中が、何かを言いたげに一瞬だけ止まり、そして学園の地下へ続く階段の方へと消えていったのを、わたくしは見逃さなかった。




