第2話 問題児と席が隣になるなんて聞いてませんわ!
最悪ですわ。
ええ、朝の紅茶が泥水に思えるほどに。
わたくし、ミレイユ・フォン・クラウゼルは、教室の一番後ろの席で優雅にペンを握りしめていた。
ミシミシと音がするほど強く。
もしこれが高級な万年筆でなければ、とっくにへし折れていたことだろう。
理由は明白。
視界の端、わずか数十センチ隣に存在する「異物」のせいだ。
「……ぐぅ」
寝ている。
神聖なる魔法史の授業中に、堂々と船を漕いでいる。
黒髪はボサボサ、制服のタイは緩みっぱなし。
昨日の「中庭事件」の共犯者、レオン・アークライト。
なぜ、わたくしの隣に彼がいるのか。
話は一時間前のホームルームに遡る。
『クラウゼル、アークライト。お前たちの魔力波長は極めて不安定だ』
生活指導のセオドア先生は、冷たい眼鏡の奥からそう告げた。
昨日の桜満開事件のおかげで、わたくしたちは「要注意監視対象」に認定されたのだ。
『よって、二人の席を隣同士とする。互いに監視し、魔力が暴走しそうになったら即座に報告するように』
なんという理不尽。
わたくしは巻き込まれただけです!
そう叫びたかったけれど、完璧な令嬢としてのプライドがそれを許さなかった。
結果、学年首席のわたくしが、学年最下位の問題児の隣という異常事態になったのである。
「……んぅ」
また寝息。
しかも、机に突っ伏した彼の顔が、徐々にこちらのテリトリーに侵食してきている。
不快だ。
不潔だ。
怠惰だ。
わたくしの辞書にある、あらゆるネガティブな言葉を彼に投げつけたい。
(起しなさいよ、ちょっと!)
心の中で毒づきながら、チラリと彼を見る。
長い睫毛。
意外と整った鼻筋。
黙って寝ていれば、それなりの顔立ちをしているのが余計に腹立たしい。
昨日の、あの一瞬。
彼に抱き止められた時の熱。
思い出すだけで背筋が粟立つ。
あんな事故、二度と御免だ。
コツ、コツ、コツ。
教壇の老教師が黒板を叩く音が子守唄のように響く。
春の陽気も手伝って、教室全体が微睡んでいる。
その時だった。
ずりっ。
レオンの腕が滑った。
バランスを崩した彼の手が、泳ぐように空を切り――。
ぱふっ。
わたくしの左手の上に、彼の手が重なった。
「っ……!?」
心臓が跳ねた。
温かい。
いや、熱い。
彼の手のひらから、昨日のような痺れる電流が微かに伝わってくる。
(ど、どきなさいよ!)
手を振り払おうとした。
けれど、動けない。
彼の手が、わたくしの指を無意識にぎゅっと握り込んだからだ。
「……行くな……」
寝言。
その声は、普段のぶっきらぼうな口調とは違い、どこか寂しげで。
まるで迷子が親を探すような切実さがあった。
ドクン、ドクン。
心拍数が禁止されている速度まで加速する。
校則第1条。
異性との接触禁止。
いま教師に見られたら退学だ。
「……離して、ください」
小声で囁く。
でも、彼は離さない。
むしろ、より強く指を絡めてくる。
彼の体温が、手首の脈を通じて全身に巡っていく。
変だ。
気持ち悪いのに、嫌悪感じゃない。
むしろ、わたくしの中の魔力が安堵して、ため息をついているような感覚。
どうして?
「クラウゼル嬢、そこを読んでみたまえ」
不意に、教師から指名された。
「ひゃいっ!?」
裏返った声が出た。
教室中の視線が集まる。
わたくしは慌てて立ち上がろうとしたが、左手はまだ捕獲されたままだ。
机の下で必死に手を引っ張る。
起きろ、このバカ!
ガタッ!
勢い余って、自分の椅子を蹴飛ばしてしまった。
「ど、どうしたのかね?」
「い、いえ! 虫が! 虫がおりましたの!」
「ほう、虫か。で、答えは?」
「……ええと」
教科書のどこを読んでいるのか分からない。
冷や汗が背中を伝う。
完璧な優等生の仮面が、音を立ててひび割れていく。
その時。
隣で気だるげな声がした。
「……124ページの3行目だろ。古代ルーン文字の解釈違いによる魔力ロスの話だ」
レオンだ。
いつの間にか目を覚まし、頬杖をついたままボソリと呟いた。
教師も生徒も気づいていない音量。
わたくしにしか聞こえない距離で。
わたくしはハッとして、その箇所を読み上げた。
教師は満足げに頷く。
「よろしい。座っていいぞ」
席に着く。
心臓がまだバクバクしている。
隣を見ると、レオンは何事もなかったかのようにあくびを噛み殺していた。
手は、いつの間にか離されていた。
(……助けられた?)
いいえ、そもそも彼が原因だ。
礼なんて言うものですか。
わたくしはプイと顔を背け、赤くなった左手をそっとスカートの陰に隠した。
◇
**【経過時間:放課後】**
最悪の一日は、まだ終わらなかった。
ホームルーム終了後、セオドア先生に呼び止められたのだ。
「中庭の清掃を命じる。昨日の『花見』の後始末だ」
あの中庭の桜は、あの一瞬で咲き誇った後、魔力切れで大量の花びらを散らしていた。
地面は見渡す限りのピンク色。
これを二人で片付けろと言うのだ。
「……チッ。めんどくせ」
箒を手にしたレオンが舌打ちをする。
わたくしだって同感だ。
ドレスのような制服で掃除なんて。
「文句を言わないで手を動かしてくださいな。あなたのせいですわよ」
「はあ? 落ちてきたのはお前だろ、お嬢様」
「受け止め方が下手だったのです!」
「理不尽だなあ」
言い合いながら、花びらを集める。
ふと、レオンが手を止めた。
中庭の隅にある、古びた石灯籠の前にしゃがみ込む。
昨日の騒ぎで倒れ、角が欠けてしまっている。
「……あーあ。これ、結構古い型式だな」
彼は欠けた石片を拾い上げた。
わたくしは呆れて言った。
「『修復』をかければ一瞬ですわ」
魔術師にとって、物の破損を直すのは初歩中の初歩。
わたくしが杖を取り出そうとすると、レオンが制した。
「やめろ。魔法で直すと『味』がなくなる」
「は?」
「こういう古い石材は、魔力を通すと脆くなるんだよ。手でやった方が長持ちする」
彼はポケットから接着剤のようなものと、小さな工具を取り出した。
そして、驚くほど繊細な手つきで石片を合わせ、継ぎ目を磨き始めた。
粗雑な言葉遣いとは裏腹に、その指先は職人のように丁寧だ。
まるで、壊れたものに敬意を払うかのように。
夕日が、彼の横顔を照らしている。
真剣な眼差し。
先ほどまでの眠そうな顔とは別人のようだ。
「……変な人」
「なんか言ったか?」
「いいえ。魔法が使えないから、手作業で誤魔化しているだけだと思いましたわ」
「ひでえ言い草だな。ま、俺は不器用だからよ」
彼は自嘲気味に笑い、綺麗に直った灯籠をポンと叩いた。
「魔法は便利だけどな、万能じゃねえよ。大事なもんほど、自分の手で触らねえと分かんねえだろ」
その言葉が、胸に刺さった。
自分の手で触れる。
わたくしは、何でも魔法で、あるいは使用人に任せて解決してきた。
婚約者との関係でさえ、決められた手順通りに。
彼の手は汚れていたけれど、その灯籠は魔法で直すよりも、ずっと温かみがあるように見えた。
「ミレイユ」
不意に名前を呼ばれ、ビクリとする。
振り返ると、回廊の影に人影があった。
「エドガー様……」
婚約者、エドガー・フォン・リヒター。
彼は笑顔を貼り付けたまま、冷ややかな視線をレオンに向けていた。
そして、わたくしの元へ歩み寄ってくる。
「掃除ご苦労様。手伝おうかと思ったけれど、もう終わりのようだね」
「え、ええ。もう済みましたわ」
エドガー様はハンカチを取り出し、わたくしの頬についた埃を拭った。
その手つきは優しいけれど、どこか潔癖症のような冷たさを感じる。
さっきの、レオンの無骨な手の温かさとは違う。
「行こうか。君がそんな……平民の底辺と関わる必要はない」
底辺。
その言葉に、わたくしは息を呑む。
レオンを見る。
彼は何も言い返さず、ただ黙って箒を片付けている。
その背中が、なぜかとても大きく、そして寂しく見えた。
「……はい、エドガー様」
わたくしは頷いた。
それが「正しい」ことだから。
レオン・アークライトは問題児で、わたくしは侯爵令嬢。
住む世界が違う。
一瞬触れ合った手が熱かったとしても、それは間違いなのだ。
エドガー様にエスコートされ、中庭を出る。
去り際、もう一度だけ振り返った。
夕闇に沈む中庭で、直された石灯籠だけが、ポツンと佇んでいた。




