第1話 婚約者がいる令嬢、恋愛禁止学園に入学します
「――以上、新入生代表。ミレイユ・フォン・クラウゼル」
講堂を埋め尽くす拍手の音が、耳の奥で反響する。
わたくしは背筋を伸ばし、優雅に一礼した。
一ミリのブレもなく、完璧な角度で。
壇上から降りる足取りも、あくまでしなやかに。
視線は前へ。表情は涼やかに。
誰がどこから見ても、わたくしは「氷の白百合」と称される侯爵令嬢そのものだったはずだ。
(……危なかったぁぁぁあああ!)
心の中で、淑女らしからぬ悲鳴を上げる。
いま、最後の「ル」のところで舌がもつれかけた。
絶対に気づかれてはいない。
そう、わたくしは完璧なのだから。
席に戻ると、隣の席のエドガー様がハンカチを差し出してくれた。
亜麻色の髪に、理知的な瞳。
わたくしの婚約者にして、伯爵家の次期当主。
彼はいつもの穏やかな微笑みを浮かべている。
「素晴らしいスピーチだったよ、ミレイユ。君の魔力制御論、教師陣も唸っていたね」
「恐縮ですわ、エドガー様」
「特に『恋愛感情は魔力回路におけるノイズである』という箇所。実に論理的だった」
彼の言葉に、わたくしは頷く。
そう。
この王立アルセリア魔法学園において、最も重い掟。
校則第1条。
『学内ニオケル、一切ノ恋愛行為ヲ禁ズ』
魔力は感情に左右される。
未熟な学生が色恋に現を抜かせば、魔力暴走事故につながりかねない。
だから、将来の国を担う魔術師や騎士を育てるこの学園では、恋などという不確定要素は排除されるべきなのだ。
「僕たちは婚約者同士だけれど、学内では節度を保とう。それが生徒たちの模範になる」
「ええ。もちろんです」
エドガー様は正しい。
いつだって合理的で、無駄がない。
わたくしたちの間に燃え上がるような熱情はないけれど、信頼と尊敬はある。
それで十分だ。
そう、自分に言い聞かせる。
胸の奥で、小さく何かが軋む音がしたけれど。
わたくしはそれを、コルセットの締めすぎだということにした。
◇
入学式のあとの、立食パーティー。
どこへ行っても視線が集まる。
「クラウゼル様」「素晴らしい挨拶でした」「さすがは筆頭合格者」。
称賛の言葉と、値踏みするような視線。
息が詰まる。
笑顔の仮面が、少しずつ重くなる。
(……逃げよう)
ほんの少しだけ。
誰もいない場所で、深呼吸がしたい。
わたくしは人混みを巧みに抜け出し、校舎裏へと向かった。
以前、学園の見取り図で確認しておいた古井戸のある中庭。
あそこなら、今は誰も来ないはずだ。
辿り着いた中庭は、予想以上に荒れていた。
手入れされていない芝生。
枯れかけた桜の巨木。
静寂だけが満ちている。
ふう、と息を吐き出したときだった。
「ニャー」
頭上から、弱々しい声が聞こえた。
見上げると、桜の太い枝の上に、白い毛玉が震えている。
子猫だ。
どうやってあんな高いところへ登ったのか。
降りられなくて怯えているらしい。
「……待っていてね。いますぐ助けますわ」
周囲を確認する。
誰もいない。
魔法を使って下ろす?
いいえ、光属性の魔法は目立ちすぎる。
誰かに見つかれば、パーティーを抜け出したことがバレてしまう。
わたくしはドレスの裾をまくり上げ、ハイヒールを脱ぎ捨てた。
幼い頃、兄たちと屋敷の裏山を駆け回っていた技術が、火を噴くときだ。
ガシッ。
木の幹に手をかける。
淑女にあるまじき姿だが、緊急事態である。
スルスルと枝を伝い、子猫の元へ。
「さあ、おいで。怖くないわよ」
子猫を抱きかかえる。
温かい。
無事に確保できたことに安堵し、降りようと下を見た瞬間。
(……高っ)
登るときは無心だった。
しかし、いざ降りるとなると、足場が見えない。
ドレスのフリルが枝に引っかかる。
風が吹いて、バランスが崩れそうになる。
待って。
これ、詰んでませんこと?
「……おい」
下から、低い声がした。
心臓が跳ね上がる。
恐る恐る視線を落とすと、木の根元に誰かがいた。
男だ。
着崩した制服。
ボサボサの黒髪。
眠たげな瞳が、呆れたようにこちらを見上げている。
いつの間に。
気配なんて、まったくしなかった。
「な、ななな、何ですの!?」
動揺して、声が裏返る。
子猫を抱いたまま、わたくしは枝にしがみついた。
「何ですのはこっちの台詞だ。お前、そこの新入生代表だろ? なんで野生児みたいなことしてんだよ」
「や、野生児とは失礼な! 人命救助……いいえ、猫命救助ですわ!」
「で、降りられなくなったと」
「ち、違います! ちょっと景色を楽しんでいただけです!」
「ふーん。じゃあ俺は行くけど」
男が踵を返そうとする。
待って。
行かないで。
このまま誰も来なかったら、わたくしは「木の上で夜を明かした令嬢」として学園史に名を刻むことになる。
「……待ちなさい!」
「あ?」
「……お、降りるのを、手伝ってくださらない?」
恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
男は鼻を鳴らし、面倒くさそうに溜息をついた。
それでも、彼は木の下まで歩いてきて、両手を広げた。
「飛び降りろ」
「は?」
「受け止めてやるから。早くしろよ、教師に見つかったら面倒だ」
「む、無理です! こんな高さから……」
「魔法使いの卵だろ? 身体強化くらい無意識にやれよ」
無茶苦茶だ。
初対面の、しかも見るからにガラの悪い相手に飛び込めなんて。
でも、枝がミシミシと嫌な音を立て始めている。
ええい、ままよ!
「……もし受け止めそこねたら、末代まで祟りますわよ!」
「はいはい。さっさと来い、お嬢様」
わたくしは子猫を胸に抱きしめ、空中に身を躍らせた。
重力が内臓を揺らす。
地面が迫る。
怖い。
ぎゅっ、と目を閉じた。
ドンッ。
硬い衝撃ではなく、温かな感触があった。
男の腕が、わたくしをしっかりと受け止めている。
鼻先にかすめる、日向のような匂い。
「……ってえな」
男の声が、すぐ耳元でした。
目を開ける。
至近距離。
眠たげな黒い瞳が、わたくしを真正面から見据えている。
彼の腕の中に、わたくしがいる。
その瞬間だった。
ドクンッ。
心臓ではない。
もっと深い場所、魂の根底にある「魔力」の源泉が、大きく脈打った。
「っ……!?」
彼も目を見開いた。
二人の身体が触れている部分から、熱い奔流が流れ込んでくる。
それは光だ。
眩いばかりの金色の光が、わたくしたちを中心に弾けた。
視界が白く染まる。
パァァァンッ! という乾いた音がして、頭上の枯れ木が震えた。
「な……何ですの、これ……!」
「おい、離れろ! 魔力が暴走してやがる!」
男が叫ぶが、身体が痺れて動かない。
光の粒子が雪のように降り注ぐ。
その光に触れた枝から、次々と蕾が膨らみ、一瞬にして花開いていく。
ポン、ポン、ポンッ。
枯れ木だった桜が、狂ったように満開の花を咲かせていく。
季節外れの桜吹雪が、わたくしたちを包み込む。
あまりにも幻想的で、異常な光景。
心臓の音がうるさい。
彼の体温が、ドレス越しに伝わってくる。
これが、魔力の共鳴?
いいえ、教本で読んだどんな現象とも違う。
まるで、魂が溶け合うような――。
「貴様ら! そこで何をしている!!」
鋭い怒号が、甘い空気を切り裂いた。
ハッとして入り口を見る。
鬼のような形相をした教師が、こちらへ走ってくるのが見えた。
男が舌打ちをする。
わたくしは、まだ彼の腕の中から出られずにいた。
満開の桜の下。
見つめ合う二人。
そして、響き渡る教師の足音。
わたくしの完璧な学園生活は、初日から詰んでいたのかもしれない。




