刹那の赤
梅雨の時期は、いつも憂鬱だ。
雨が降る。止む。降る。
そのたびに、雨が時間を錆びつかせて、動かなくしてしまっている。
窓際の席。
ぼんやり外を見ていると、雨粒がガラスを伝って、まるで世界がゆっくりと溶けていくようだった。
溶け合った景色は、いつも同じ姿をしている。
変わらない街、変わらない空。
でも、その色を丸ごと塗り替えるような色があるなら。
そんな願いは、存外早く叶った。
ホームルームが始まる。
ちょうどそのとき雨が止んだ。
雲の切れ間から、微かな光が差し込む。
「早速だが、転校生を紹介するぞ」
教室に、天使の梯子が差し込む。
そのとき、雨の音が消える――そんな気分がした。
光だけが、静かに世界を支配していた。
光りに包まれるように、転校生は立っていた。
驚くほどきれいな黒髪のロングヘア。
雨に濡れた髪は、窓からの光を受けて微かに煌めいている。
制服もまた、生活感を拒むかのようにぴしりと整えられており、皺ひとつ見当たらない。
その少女の名前は白根悠。
刹那、教室の空気が塗り替わる。
まるで、絵画の中に一色の鮮烈な"赤"が置かれたように。
気がつけば、僕は息を止めていた。
この閉じた世界を、壊す存在だと確信させるような――
それほどの存在感が、彼女にはあった。
「白根 悠です」
彼女は名前だけを告げ、視線を窓の外に投げた。
光の射す空でもなく、雨に濡れた街でもなく、 そこにある“色”だけを確かめるように。
その視線の先に何があるか、僕にはわからない。
ただ一つ言えることは、その景色は僕らには見えていないということだけだった。
先生が指したのは、僕の隣の空席。
興奮と緊張で胸が高鳴る。普通の転校生でもドキドキするのに、こんな――普通じゃない子。
ソワソワしながら彼女が来るのを待つ僕とは対象的に、彼女はまるで最初からこのクラスの一員で、毎日そうしてきたかのように静かに席につく。
まるで、僕……いや、僕らクラスになんか興味がないように。
隣に人がいる。ただそれだけのことなのに、 僕の心臓はやけに騒がしかった。
小声の囁きや好奇の視線が、教室のあちこちでちらついていた。
だが彼女は、一切それらを気にかけなかった。
僕らの反応なんて、絵の背景に過ぎない──
そんなふうに思えてしまった。
ノートも、教科書も出さない。
机の上に置かれたのは、小さなスケッチブックだけ。
──そのとき、僕はまだ知らなかった。
彼女が、ここに何を描きに来たのかを。
そして、その絵の終わりに、何が失われるのかも。
※
放課後よりも静かな昼休み。
梅雨の教室は湿りっぽく、雫が落ちるたび、静けさがひとつずつ削り取られていく。
クラスメイトたちは弁当を広げてスマホに目を向けたり、談笑を楽しんだりしている。
もうすでに転校生への興味は失われたのか、白根悠には誰も話しかけない。
彼女の周りには、透明な壁があるように、人を拒絶する。
壁というか、霧だろうか。まるで掴み所がない。
友達の輪に誘われても、無視するでも反応するでもない釣れない対応を続け、いつしか話しかける人はいなくなった。
そんななか、僕はなんとなく窓際の彼女を目で追っていた。
今日も、彼女は机の上に小さなスケッチブックを開き、鉛筆を走らせている。
彼女の指は細くて、白くて、どうしようもなく繊細で――今にも壊れてしまいそうだった。
鉛筆が走る。
シャッ、シャッ。雨の残響と混ざり合う。
彼女が書いているのは雨か、雨が彼女の鉛筆に合わせて降るのか。
……どうしてか、その世界を覗き込みたい衝動に駆られた。
好奇心か、はたまたお近づきにでもなりたい下心か、あるいはたんに暇だったからか。
なんにせよ、僕は動いた。
「……えっと、何を、書いているんですか?」
自分でも情けなくなるような消え入るような声。
雨音にかき消されて届いているかもわからなかった。
彼女の手が、一瞬だけ止まる。
そして、すぐに何事もなかったかのように動き出した。
拒否の雰囲気はない。ただ、無関心。
そのとき僕はなんとなく理解した。
彼女は僕らとは別のものが見えているのだと。
「えっと、僕は結城 透って言うんだけど、覚えてるかな―、なんてね。あはは……」
尻すぼみの言葉、どこからか失笑が聞こえてきそうでちょっと耳が赤くなる。
「音」
突然、悠が口を開いた。
「え?」
僕は驚いて素っ頓狂な声を上げる。
無視して彼女は続ける。
「音を書いてたの。落ちる音、ガラスを伝う角度……全部違う音になる。それを書いてたの」
彼女はまた視線をスケッチブックに戻す。
走る鉛筆の先を、僕はただ見つめた。
「雨の絵じゃ、ないんですか?」
僕の声は自分でも驚くほど小さかった。
「そう。でも音のほうが正確に世界を表せる」
彼女の指が止まる。
スケッチブックのページに、黒い線と点が散らばっていた。
何を描いているのか、全く理解できなかった。
けれど、不思議と“聴こえた”。
机の上で、雨が弾む音が。
その瞬間、チャイムが鳴り、お昼休みの終わりを告げる。
「……あ、昼休み終わりですね」
「うん。でも、雨は終わらない」
言葉通り、窓に新しい雫が落ちた。
まるで彼女の声が、雨を呼んだようだった。
スケッチブックを脇に抱えて、教室から去っていく彼女をただ見つめていた。
※
気になる。
彼女――悠のことが、僕は気になって仕方なかった。
放課後、彼女がいそうなところを、さり気なく回る。
「失礼します……」
放課後の美術室は、普段から誰にも使われていないんじゃないかと錯覚するほどに、無音で人気がなかった。
美術部でも活動しているかと思ったら、あとから聞いた話だと彼らは第二美術室で活動しているらしく、こちらは無人だった。
カーテンは半開きで、薄暗い室内に夕陽が斜めに差し込んでいた。
絵の具と、木の匂いが鼻腔をくすぐる。
授業で描かれたのだろうか、乾ききっていないキャンバスが光を反射していた。
奥のイーゼルの前に、白根悠がいた。
彼女は制服の袖をまくり、筆を走らせていた。
光の中に溶け込むように、肩が小さく揺れている。
僕はその場で立ち尽くした。
筆の動きがあまりにも速く、正確で、迷いがない。
絵を描いている、というより——世界を切り取って、そこに別の世界を貼り付けているようだった。
「……白根さん?」
声をかけても、彼女は振り向かない。
筆の音が、一定のリズムで空気を震わせていた。
シャッ、シャッ。
昼休みに聞いた、あの音。
僕はその音に引き寄せられるように、少しだけ近づいた。
キャンバスには、赤と灰色、黒が交じり合った模様が広がっていた。
何を描いているのか、まるで分からない。
けれど、目を離せなかった。
悠の頬を一筋、汗が流れた。
「……ねえ」
彼女が筆を止めずに言う。
「夕陽って、音がするんだよ」
「音?」
「うん。もうすぐ消える光が、空気を焦がす音。それを描いてるの。」
筆が止まる。
その瞬間、部屋の中の音がすべて消えた気がした。
悠は微笑んで、小さく呟いた。
「……聴こえたでしょ?」
僕は何も言えなかった。
ただ頷いた。
窓の外、夕陽が完全に沈む。
それでも、キャンバスの赤だけが――
まだ、燃えていた。
※
放課後の美術室で、悠が呟いた。
「……もう少し、描きたいの」
壁際の時計はすでに五時を回っている。
窓の外は茜色に染まり、カーテンが風に揺れていた。
「でも、先生にバレたら怒られるよ?」
「大丈夫。鍵、閉めたから」
カチリ、と金属音。
心臓が跳ねる。
閉ざされた音が、なぜこんなにも胸に響くのだろう。
「……そんな顔しないで。静かな方が集中できるの」
「い、いや、別に! 僕はその、手伝いでも――」
言い訳を言い終える前に、悠はもう筆を取っていた。
シャッ、シャッ。
筆の音だけが、ゆっくりと部屋を支配していく。
夕暮れの光が彼女の髪に降りて、細い指先を照らした。
その動きは迷いがなく、まるで光そのものを描いているようだった。
時間が止まった気がした。
僕はただ、隣で息を潜める。
音も光も、今この瞬間だけ、彼女のために存在している。
──そして、日が沈むまで彼女は描き続けた。
時計の針が七時を指したころ、ようやく筆が静止する。
「終わった?」
「うん。……行こっか」
鍵が開く音。
二人で廊下に出ると、外は群青の闇だった。
昇降口を抜け、校門へ向かう。
「……あれ、閉まってる?」
門はきっちりと施錠され、誰もいない。
「うそ……」
珍しく感情らしきものを見せた悠に、思わず笑いがこぼれる。
悠は眉をひそめたまま、門を見上げていた。
「どうしよう。怒られるね」
「ま、まあ……登るしかない、かな?」
「登るの?」
その声に、ほんの少しだけ興味が混じっていた。
僕は鞄を地面に置き、鉄の門に手をかける。
冷たい金属が肌を刺した。
制服の袖が擦れて、夜風が腕を撫でる。
上までよじ登り、手を伸ばす。
「手、貸して」
悠が見上げる。
その顔を、夕暮れの名残りがかすかに照らしていた。
指先が触れた。
想像よりも、ずっと冷たい手だった。
力を込めて引き上げる。
一瞬だけ、彼女の体温が伝わる。
髪が頬をかすめた。
心臓がまた跳ねる。
門の向こう側に降り立ったとき悠は、息を整えながら、小さく笑った。
「ありがとう、結城くん。今日、静かで良かった。描けた」
「そ、そう……なら、よかった」
「うん。秘密ね」
「え?」
「鍵、勝手に閉めたこと。先生に言わないで」
そう言った悠は、どこか笑っているように見えた。
夜風に溶けていくその微笑みが、なぜか、胸の奥に痛いほど残る。
──その日から、僕の世界には“音”が消え、代わりに、彼女の筆音だけが鳴り続けていた。
※
「星、描きたいの」
放課後の教室で、悠がふと呟いた。
外はすっかり夏の気配を帯びて、湿った風がカーテンをふくらませていた。
「結城くんしか、頼れる人いないから」
そんな言葉を、彼女は当たり前みたいに口にした。
胸の奥で、何かが弾ける音がした。
理由なんてどうでもよかった。彼女が望むなら、僕はただ従えばいい。
それが、あの日以来の僕の“役割”みたいになっていた。
※
夜になって、僕らは街を少し外れた高台に立っていた。
ここは昔、天文部が観測会をしていた場所らしい。
人気はなく、街灯も遠く、代わりに虫の声が微かに響いている。
「ここなら見えるよ」
そう言って僕が指差すと、悠は少しだけ頷いた。
風に髪がなびいて、月明かりの下できらりと光る。
空は、想像よりもずっと澄んでいた。
梅雨の合間の晴れ。
群青の幕に、針の先ほどの光が無数に散らばっている。
「……すごいね」
悠の声は、どこか遠くのものを見ているようだった。
「まるで、生きてるみたい」
彼女はスケッチブックを開き、膝の上に置く。
鉛筆が紙の上を走るたび、星がまたひとつ瞬いた。
どちらが先に生まれたのか分からない。
まるで、彼女が描くたびに、夜空の星がそれに応えるみたいだった。
「ねえ、知ってる?」
悠は視線を空から外さずに言った。
「星の光って、もう存在しないかもしれない星のものなんだよ」
「存在しない……?」
「うん。何千光年も離れた星の中には、もうとっくに燃え尽きたのもある。でも光はまだ旅を続けて、こうして今、私たちの目に届くの」
風がそっと吹き抜けて、草の葉を揺らした。
悠の髪が頬をかすめ、夜の匂いがした。
「だから、あんなにきれいなんだろうね」
「どうして?」
「だって、もうないものだから。消えたものの光って、どんな真実よりも儚くて、正しいと思うの」
彼女の声は小さく、どこか祈るようだった。
僕は言葉を失った。
胸の奥で、何かが軋んだ。
理解できないのに、涙が出そうになるほど美しかった。
悠は鉛筆を置き、夜空を仰いだ。
「ねえ、結城くん。星って、死んでも光り続けるんだよ。人も、そうならいいのにね」
その横顔は、星の光よりも静かに輝いていた。
何かを決めているような、そんな強さと寂しさが混ざっていた。
「……悠」
名前を呼んだのに、彼女は答えなかった。
風に紛れて、言葉が消えたのかもしれない。
しばらくして、悠は微笑んだ。
「ありがとう。今日、来てよかった。ちゃんと見えた。……描ける気がする」
その笑みは、星の光みたいに儚くて、どこか現実じゃない気がした。
僕は空を見上げた。
星たちは確かにそこにあった。
けれど、悠の言葉が頭から離れなかった。
“もう存在しない光”
もしそうなら、今僕たちが見ているこの美しさも、いつかの誰かが残した最後の息吹なのかもしれない。
そして――
今、彼女が描こうとしているその星も。
いつか、誰かの胸の中でだけ光る“亡霊”になるのだろう。
その夜の星空は、なぜか、涙が出るほどきれいだった。
※
午後の陽射しが、空気の粒を金色に染めはじめたころ。
川沿いの遊歩道で、悠の姿を見つけた。
白いワンピースに、古びたカメラ。
彼女は黙々とシャッターを切っていた。
風の流れ、傾いた電柱、道端の猫、割れたガラス。
何を撮っているのか、僕には分からなかった。
「……絵の資料?」
思わず声をかけると、悠はレンズを覗いたまま、首を傾けた。
「違うよ。今日は“写真”」
「写真? スケッチじゃなくて?」
「うん。写真には、偶然があるから」
そう言って、ようやくこちらを振り向いた。
瞳の奥が、光をまっすぐ跳ね返していた。
「ねえ、偶然って、神様のいたずらみたいで好きなの」
その言葉は、祈りのように響いた。
僕はよく分からないまま、彼女の後をついて歩いた。
悠は立ち止まってはファインダーを覗き、また歩き出す。
分からない——けれど、その分からなさが、少し心地よかった。
「たとえばね」
悠が言った。
「風でスカートが揺れる瞬間とか、水たまりに雲が落ちるときとか。
誰も狙っていない形が、一番美しいの」
そのとき、彼女がふと笑った。
僕のほうを見て、カメラを構える。
「今の顔、いい」
パシャ。
「え、な、なに撮って——」
次の瞬間、背中を押された。
土手が崩れ、バシャッと水の音。
冷たい感触が全身を包む。
田んぼの泥が服を重くする。
見上げると、悠が立っていた。
カメラを構えたまま、息を弾ませている。
「……いい、その落ち方」
パシャ。
彼女の顔には、悪意はなかった。
むしろ、虹を見つけた子どものような笑顔だった。
「ほら、偶然でしょ?」
僕は何も言えなかった。
怒るよりも、寒気がした。
――この人は、本当に心からそう思っている。
僕が泥に沈む姿さえ、美の一部として見ている。
悠はカメラを首から下げ、手を伸ばした。
「ごめんね。びっくりした? でも、すごく良かったよ」
その手は、泥で汚れることなど気にも留めず、まっすぐだった。
僕は黙ってその手を取った。
触れた瞬間、またあの冷たさが蘇る。
夕陽が水面を照らし、光の粒がはじけていた。
悠の笑顔も、その光と一緒にきらめいていた。
――あれは、狂気ではなかった。
それよりも、もっと純粋で、もっと恐ろしいものだった。
パシャ。
光が、また一枚、切り取られた気がした。
※
雨の音が、授業の内容を消していく。
黒板の前で先生の口が動くたびに、文字は湿ってにじみ、僕の頭の中では「シャッ、シャッ」という筆の残響だけが勝っていく。
もう、ここにはいない音だ。
白根悠は、あの日を境に教室へ来なくなった。
出席番号のところで先生が一拍だけ間を置く。その間が、教室全体の湿度を上げる。
窓ガラスを打つ雨は三拍子。僕の心臓は、合わせ方を忘れた楽器みたいに、勝手なリズムで跳ねる。
昼休み、机に突っ伏したふりをしてスマホを開く。
メッセージの欄には、短い文とスタンプが規則正しく並んでいる。「大丈夫?」「今日、来る?」「星、まだ描く?」
既読はつかない。
画面の向こうで、時間だけが乾かない。
放課後の廊下は、音がよく響く。
第二美術室からは笑い声、運動部の掛け声、床を叩くシューズの音。
けれど僕の足は、誰もいない方へ曲がる。
薄暗い第一美術室。
あの日と同じようにカーテンは半分だけ閉まっていて、光は斜め。
誰もいない。
なのに――耳が、覚えている音を探す。
シャッ、シャッ。
空っぽの部屋に、その音だけを足して聞いてしまう。幻聴か、それとも記憶の復唱か。
キャンバスの布の匂いを吸い込むと、胸の中の空洞が少しだけ埋まる気がした。
帰り道、川沿いを歩く。
水面は細かく鉛色に砕けて、そこに街の灯りが散る。
彼女が言った「届く」という言葉を思い出す。
星の光は死んでから届く。
じゃあ、メッセージはいつ届く? 音は? 視線は?
届く前に、消えてしまうもののほうが多い気がする。
僕の胸の奥で、なんでもない考えが重くなる。
考えることは、濡れた服みたいだ。まとわりつくのに、何の役にも立たない。
夜、家の天井を見ている。
雨が屋根を叩く小さな音。壁の時計の秒針。妹がリビングで皿を重ねる乾いた音。
世界は音で埋まっているのに、必要な音だけが、ない。
スマホの画面は黒いまま、僕の顔だけを映している。
通話ボタンを押す指は、何度もためらって、何度も押す。コール音が伸びる。伸びる。切れる。
留守番電話の機械的な声が、雨より冷たい。
何を残せば届く? 文字か、沈黙か、あの日の星の話か。
僕は何も言えずに通話を切る。
届く前に、言葉が死ぬ。
数日経つと、人は慣れる。
クラスで彼女の話題は消えた。
誰かが忘れ物をして、誰かが告白に失敗して、誰かがテストの点を自慢して、日常は無傷の顔で続いていく。
僕だけが、少し傷を見失っていない。
傷の場所がぼやけないように、指で触れて確かめている感じだ。
そうしていないと、僕まで乾いてしまいそうで。
土曜の午後、僕はひとりで高台へ行った。
前に悠と星を見た場所。
空は厚い雲でふさがれて、星はどこにもいない。
代わりに、遠くの道路のタイヤが水を切る音が、一定のテンポで続く。
目を閉じる。
落ちる、伝う、弾く。悠の声が、言葉より先に音でよみがえる。
目を開ける。
何も、ない。
でも、ないこと自体に形があって、そこに彼女が向けていたはずの視線を、僕は真似してみる。
たとえば、風で草が伏せる瞬間。
たとえば、傘の縁から水が垂直に千切れる角度。
たとえば、遠い救急車のサイレンが、雨で鈍る距離。
――彼女の不在が、世界の輪郭を濃くする。
いないから、見えるものがある。
そんなの、ずるい。
日曜の夕方、祖母の家だという住所を紙に写して、ポケットに入れた。
行くつもりはなかった。ただ、文字を持っていたかった。
持っていることと、届くことの間には、きっと海がある。
海は、雨と仲がいい。
濡れた指で紙を触ると、インクが少し滲んだ。
滲むのは、存在の証拠になるだろうか。
月曜の朝、学校に行くと、美術室の前に先客がいた。
美術教師が中を覗き込み、ため息をつくところだった。
「道具、減ってるな」
その一言で、胸が音を立てた。
彼女が描いている。どこかで、まだ。
授業中、僕はノートの端に「届く」とだけ書いた。
書いても、意味は増えない。ただ、紙の手触りだけが増える。
夜、決めた。
連絡がつかないなら、行く。
届かないなら、近づく。
それは、正しいかどうかより先に、身体が知っていた。
傘を持って玄関に立つ。
妹が「どこ行くの」と聞く。
「ちょっと、音を拾いに」
自分でも何を言っているのかわからない答えが口を出る。
けれど、嘘ではなかった。
雨の中へ出る。
傘に当たる水音が、すぐに僕の世界を埋める。
踏切のベルが濡れて、遠くで犬が吠えて、街灯の下で雨脚が白くなる。
どの音も、彼女が好みそうな、形を持っている。
住所の前で立ち止まる。
古い門。低い屋根。庭の木に混じる、金属の匂い。
呼び鈴を押す指が、震えている。
一度、二度。
返事はない。
ふと、横を抜ける風に、ちいさな鈴の音が混じった。
玄関脇に吊るされた風鈴が、濡れた空気をかすかに鳴らす。
その音は、筆の「シャッ、シャッ」に似ている。
似ているだけで、違う。
だから、胸が痛い。
門の前で、僕は深呼吸をした。
届かない場所に向かって、届く形で声を出す方法を探す。
声は、雨に弱い。紙も、雨に弱い。
強いのは、足音だ。
門扉を、軽く二度、靴で叩く。
コン、コン。
雨の三拍子に、僕の二拍子を重ねる。
どこかで、誰かが、その拍に気づくかもしれない。
気づかれなくても、いい。
僕は僕の拍で、ここにいることを刻む。
そのとき、家の奥で小さく何かが倒れる音がした。
風かもしれない。猫かもしれない。勘違いかもしれない。
それでも、僕はもう一度だけ門を叩いた。
コン、コン。
やがて、何も起きないまま、雨脚が強くなる。
僕は傘を握り直し、ゆっくりとその場を離れた。
帰り道、信号待ちの横断歩道で、救急車の音が近づいてきた。
雨で鈍ったサイレン。
赤い光が、ガラスに滲んで、道路に落ちる。
胸が、無意味に跳ねる。
関係ないかもしれない。関係あるかもしれない。
世界は、いつだってそうやって僕を試す。
僕は目を閉じて、音が通り過ぎるのを待った。
開けたとき、赤はもう残っていなかった。
ただ、雨だけが続いている。
その夜、ベッドの上で、はじめてはっきり言葉になった。
――僕は彼女を救いたいんじゃない。
彼女が描く音の、証人になりたい。
救うという言葉は、永遠に触りたがる。
僕は、今だけに触っていたい。
明日、もう一度行こう。
濡れても、届かなくても、拍を打ちに行こう。
眠りに落ちる直前、窓に当たる雨が、すこしだけ弱くなった気がした。
翌朝、学校の昇降口で、知らない番号から着信が入った。
心臓が、音を外す。
画面を見たまま、世界が薄くなる。
通話ボタンを押す指が、かつてないほど静かだった。
耳に当てる。
向こうの声は、濡れていて、事務的で、現実だった。
言葉は、ひとつずつ届いた。
届くたびに、僕の中で何かが割れて、音がした。
僕は短く返事をして、電話を切った。
傘を取りに戻る。
雨は、まだ、終わっていない。
※
電話口の声は、淡々としていた。
「白根さんが倒れましてね……。体調は落ち着いていますが、念のため入院ということで」
その一文のあいだに、僕の中で何かがひび割れた。
頭のどこかで「やっぱり」と思っている自分と、「嘘だ」と叫んでいる自分がいた。
病室のドアを開けると、白い世界が待っていた。
消毒の匂い、薄いカーテン、窓を打つ小さな雨の音。
ベッドの上で、悠は起き上がっていた。
髪はほどけ、肌は透きとおるほど青白い。
けれど、目だけは――あのときと同じ、燃えるような光を宿していた。
「……結城くん」
名前を呼ばれる。
その声に、血の温度が一瞬で上がる。
だが次の言葉が、それを凍らせた。
「もう、時間がないの」
「時間?」
「描かないと。今の光が消える前に」
布団の上に、スケッチブックがあった。
ページの隙間には、未乾の絵の具が滲んでいる。
病院の白の中で、その“赤”だけが異様に生々しかった。
「先生に言われた。しばらく安静にって……」
言いかけると、悠はゆっくり首を振った。
表情に怒りはない。ただ、焦燥と祈りが混ざっていた。
「描かなきゃ、生きていけない。呼吸と同じなの」
「でも、今は……」
「呼吸を止めろって言うのと同じだよ」
その一言で、僕は言葉を失った。
理屈で止めるべきだと分かっていた。
けれど、その声があまりにも“生”の音をしていた。
「ねえ、結城くん。手伝って」
彼女は静かに笑った。
それは弱々しくて、それでいて恐ろしいほど美しい笑みだった。
――手伝うべきじゃない。
でも、彼女の「生きる」がそこにあるなら。
「……分かった」
答えた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
きっと、それは罪の音だ。
*
夜。
雨脚が強くなる中、僕らは病院を抜け出した。
傘もなく、薄い病衣の上にカーディガンを羽織った悠は、歩くたびにふらつく。
街灯の下で、彼女の影が細く揺れる。
「大丈夫? まだ戻れるよ」
「戻ったら、描けなくなる」
その声に、ためらいはなかった。
僕は肩を貸しながら、彼女の足取りを支える。
体重は軽すぎて、まるで抱えているのが人ではないみたいだった。
彼女の指が僕の腕を掴むたび、氷みたいな冷たさが皮膚に残る。
靴音と、雨の音だけが道を刻んでいく。
夜の街は、息をひそめていた。
遠くで雷が鳴り、光がアスファルトをかすめた。
その光に、彼女の横顔が浮かび上がる。
濡れた睫毛、震える唇。
それでも、目だけはまっすぐ前を見ていた。
「……もうすぐ。祖母のアトリエ」
その声はかすれていたが、確かな希望の音をしていた。
*
たどり着いたのは、郊外の小さな木造の家だった。
庭には草が伸び、軒下には古びた風鈴がぶら下がっている。
玄関の鍵を開ける音が、夜に沈む。
中に入ると、湿気を含んだ空気と、油絵の具の匂いが混ざり合っていた。
裸電球がひとつ、天井からぶら下がっている。
光は弱く、部屋の隅々まで届かない。
それでも悠は、まるでそこが世界の中心であるかのように立った。
「……描くね」
彼女は震える手で筆を取る。
僕は黙って見ていることしかできなかった。
筆先がキャンバスに触れる。
シャッ、シャッ。
その音が、再び世界を動かしはじめる。
雨音、裸電球の微かな唸り、呼吸。
それらが混ざり合い、ひとつのリズムになる。
悠は何も食べず、何も飲まず、ただ描き続けた。
色が重なり、滲み、また上書きされていく。
赤、灰、黒。
何を描いているのか分からない。
でも、そこに“生きようとする音”があった。
僕はタオルで彼女の汗を拭きながら、水を差し出す。
けれど、悠は首を振る。
「今、飲んだら、色が変わる」
その言葉が、あまりにも真剣で、何も言えなかった。
時間が、ゆっくり溶けていく。
時計の針が動く音すら、この部屋では遠い。
筆の音だけが、唯一の現実だった。
外では雨が強くなっていた。
窓を叩く音が、まるで彼女の鼓動の代わりみたいに響く。
世界は、音で満たされていた。
それでも彼女は描き続けた。
命を削るように、世界を写すように。
僕はその光景を、ただ見届ける。
見届けることしか、僕にはできなかった。
筆が止まるまで。
夜が明けるまで。
そして、その絵が、彼女の“最期”になるまで。
※
何時間が過ぎたのか、もう分からなかった。
時計は止まっていないはずなのに、針の音が消えている。
雨は相変わらず屋根を叩いていた。
まるで世界が、この小さなアトリエだけを生かすために音を奏でているようだった。
悠の腕は細く、筆を握る指先が震えていた。
それでも、止まらない。
手首の筋肉が限界を迎えても、彼女の目だけは、燃えていた。
赤、灰、黒――無数の層が重なり、絵の表面が微かに光を返している。
光でも闇でもない、不思議な色。
その中心に、何かが生まれようとしていた。
僕は声をかけることもできなかった。
水を差し出すたび、悠は小さく首を振った。
まるで飲み物よりも、絵の具を血に混ぜて生きているようだった。
「……ねえ、結城くん」
筆を握ったまま、彼女がつぶやく。
その声は掠れて、雨音と同化していた。
「描くのってね、痛いんだよ。でも、やめたら死んじゃう」
言葉の意味を理解するより先に、胸の奥が締めつけられた。
筆がまた走る。
シャッ、シャッ、シャッ。
動きは緩慢なのに、ひとつひとつの線が鋭くて、迷いがなかった。
まるで、命の残りを削って描いているようだった。
時間の感覚が崩れる。
裸電球の光がぼやけて、雨の音が遠くなる。
僕は椅子に座ったまま、意識が溶けていく。
けれど、眠ることはできなかった。
その瞬間を、見届けなければならないという確信だけがあった。
やがて、筆の音が変わった。
――やさしく、ゆっくり、音を確かめるように。
悠の手が震えながら、最後の線を引く。
それは、絵の中にひとつの“人影”を描き加える動きだった。
僕は息をのんだ。
彼女の視線が、僕に向いていた。
「……結城くん」
かすれた声。
僕は立ち上がり、思わず一歩、近づいた。
悠は微笑んで、筆を置いた。
「できた」
その言葉は、吐息のように小さく、確かだった。
彼女の手が、わずかに宙を探る。
僕はその手を握る。冷たい。
けれど、その冷たさの中に、ほんのわずかな熱が残っていた。
「ねえ……見て」
彼女が指差したキャンバスには、確かに僕がいた。
濡れた髪、濁った瞳、雨に濡れた服――
その姿は、現実よりも静かで、どこか祈りのようだった。
背景には赤い滲み。
それは、血にも炎にも見えた。
「……もう、満足」
悠は小さく呟き、目を閉じた。
「この絵は、燃やして」
「……え?」
その言葉が、理解の外から降ってくる。
「永遠になったら、死んじゃうから。絵も、人も。燃やせば、ちゃんと生きられる」
彼女は、微笑んだまま力を抜いた。
筆が床に落ち、鈍い音を立てた。
「……悠?」
返事はない。
胸の上下が止まっていた。
光が、彼女の瞼の下で静かに消える。
雨がさらに強くなる。
屋根を叩く音が、心臓の代わりみたいに響いていた。
僕は彼女の手を握ったまま、しばらく動けなかった。
アトリエの中で、裸電球だけがまだ光っている。
光は黄色く、湿気に溶け、キャンバスの“赤”をゆらゆらと照らしていた。
その赤は――まるで燃えはじめる前の火のように、息づいて見えた。
※
手が震えていた。
ポケットからスマホを取り出すと、指が思うように動かない。
数字の羅列が、まるで別の言語みたいに遠かった。
それでも、押した。
コール音が鳴る。
声が返る。
救急車、と言うだけで喉が詰まる。
住所を伝え、電話を切る。
部屋の空気が重く、息ができない。
雨音が、外からだけでなく胸の中まで響いている気がした。
悠の体は軽すぎて、まるで風の抜け殻みたいだった。
その傍らに立つキャンバスが、僕を見ていた。
赤、灰、黒。
塗り重ねられた色が、まだ乾かないまま呼吸している。
彼女が最後に描いた僕の姿が、そこにいた。
濡れた瞳、濁った空、そして、あの日の雨。
――燃やして。
悠の声が、まだ耳の奥で鳴っている。
その一言が、僕を動かした。
アトリエの奥、古い灯油缶があった。
祖母の使っていたストーブ用のようだ。
蓋を開けると、鼻を刺すような匂い。
それを少しだけ布に染み込ませ、キャンバスの下に敷いた。
外は、土砂降りだった。
庭の草は濡れ、空は墨を流したように暗い。
それでも、手は迷わなかった。
絵を抱えて外へ出る。
雨の粒が頬に当たるたび、体温が奪われていく。
けれど、それがちょうどいい気がした。
熱と冷たさの間でしか、いまの自分を保てなかった。
マッチを擦る。
火花が一瞬だけ世界を照らす。
湿った風が抵抗する。
それでも、火は落ちた。
炎が、絵の下からゆっくりと立ち上がる。
赤が、燃える。
燃えながら、光の形を変えていく。
炎の中で、悠の描いた赤と、本物の火の赤が混ざった。
どちらが絵の色で、どちらが炎の色か分からなかった。
雨がそれを打つ。
じゅっ、と音がして、煙が上がる。
白と灰が夜空に溶けていく。
光が、雨に滲む。
「……届いたよ、悠」
自分でも、どうしてその言葉を口にしたのか分からなかった。
ただ、そう言わなければ、世界が止まってしまう気がした。
炎はゆっくりと小さくなっていく。
絵の輪郭が崩れ、灰が風に散る。
それはまるで、赤い心臓が静かに灰へと変わるようだった。
気づけば、救急車のサイレンが遠くで鳴っていた。
雨の中、その音だけが現実の証のように響く。
僕は膝をつき、濡れた地面に手をついた。
掌に、まだ火の温もりが残っている。
悠の絵はもう、どこにもなかった。
けれど、燃えたあとの灰が、雨に溶けて流れていくのを見て――
僕はようやく理解した。
彼女は永遠を拒み、その代わりに、今を燃やして生きたのだと。
炎の跡が消えても、雨は降り続いていた。
まるで世界がまだ、彼女の余熱を抱えているみたいに。
※
仕事帰りの電車の中、窓に映る自分の顔が、やけに他人みたいに見えた。
ネクタイを緩め、書類の角で手を切った指先を見つめる。
小さな傷なのに、どこか懐かしい。
絵の具で汚れたあの指を、ふと思い出した。
オフィス街の夜は、冷たく光っていた。
蛍光灯、車のヘッドライト、傘に落ちる雨の粒。
それらの反射が、まるで誰かが描いた風景みたいに整っている。
だが、そこに「作者」はいない。
誰も、この景色を見ようとはしていない。
僕はビルの窓辺に立ち、雨に煙る街を眺めた。
世界は濡れて、静かで、どこか遠い。
その雨の音が、アトリエの夜と重なって聞こえた。
――何者にもなれなかった。
大人になって、社会の一部にはなれたけれど、あのときの“観測者”としての自分は、もうどこにもいない。
ふと、彼女の声が脳裏で蘇る。
「たった一人でも、鑑賞者がいれば作品は意味を持つ」
それは、死の直前に残した唯一の希望だった。
悠の絵は、もうこの世に存在しない。
灰になり、雨に流され、どこにも残っていない。
けれど、僕の中にはまだある。
彼女の線、色、音。
そして、あの夜の“赤”。
窓の外を歩く人の傘がひとつ、街灯の下で光を反射する。
赤い傘。
その色が、雨に滲みながら揺れていた。
まるで、あの日の炎が、まだこの街のどこかで呼吸しているみたいに。
僕は息を止め、ただそれを見つめる。
指先がわずかに震えた。
心臓の鼓動が、遠い過去と現在をつなぐ。
——いつから好きだったのだろうか。
あの横顔を見たときか。
絵の赤に触れたときか。
あるいは、最初からだったのかもしれない。
彼女が筆を握るその手を見た瞬間、僕はもう、逃れられなかった。
恋ではなく、信仰のように。
窓の外、雨が光を吸い込んで、街がぼやけていく。
その霞の向こうに、僕はまだ——
燃え尽きたはずの“赤”を、探していた。




