【第一部】プロローグ 1995年8月25日
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俺の名前、和泉直人。今月8日、25歳になったばかり。職業、行政書士の補助者。
行政書士。言い換えれば、街場の法律系書類屋。日常生活やビジネスで必要な書類の作成、官公庁での手続を手伝うのが仕事。車のナンバー登録、会社や個人の契約、営業許可の申請、遺言書の作成など、扱える書類、1万種類以上。「手伝い」の範囲、かなり広い。ただし、仕事とするには資格が必要。国の試験に合格し、各都道府県の行政書士会に開業登録をした人だけ、「手伝い」を仕事にできる。
「行政書士?ああ、『代書屋』だろ?」
弁護士や司法書士に比べ、数段低く見られがちの行政書士。裁判ゴトの代理人は弁護士の仕事、「登記」「供託」「少額訴訟」は司法書士の仕事。しかし、別の角度から見れば、市民各位にいちばん近く、敷居も低い法律家。仕事の範囲を自ら絞る場合は別として、行政書士、おおむね顔が広い。相談に応じ、弁護士、司法書士、社会保険労務士など他士業につないでくれたり、連係プレーを見せてくれる。
俺は大学時代、行政書士試験に合格。大学2年のとき、バイトで山城行政書士の補助者を始め、現在はフルタイムの補助者。プロとして実務を覚え、顧客、士業、官公庁とのネットワークを築くには、山城先生、打ってつけの師匠…だけど。
2
「直人くん、茂武土木さんの許可業種追加。申請書類、出来たかしら?」
「仕上がりました、先生!ご確認お願いします!」
山城先生、小指を立て、なめらかに書類をチェック。
「…オッケーよ、直人くん♪いつもながら手が早いわね、DTのクセに♡」
「DTは余計です。山城先生、次はモブラヒムさんの期間更新ですよね?」
「昨日カガミと添付書類、確認させてもらったけど。現物、用意できてる?」
カガミ。一般には書類の表紙、目録、あるいは添付書類をぶら下げた申請書本票。この場合、在留期間更新許可申請書。一方、行政書士が作成を手伝うか、作成する書類以外の、官公庁発行の書類。山城先生、これらを「現物」と呼ぶ。
「昨日夕方、先生の預り証と引き換えに、モブラヒムさんのパスポートと外登証、預かってきました!委任状も頂いてきましたので、入管に行く前、市税事務所でモブラヒムさんの個人住民税の課税証明書と納税証明書、取ってきますよ」
外登証。正式には、外国人登録証明書。「権限ある官憲」から「外登証見せて」って言われたら、すぐ提示しないとダメ。うっかり忘れ、10万円以下の罰金刑。在留申請を行政書士に委託する外国人各位、お出掛けのとき、「預り証」は忘れずに。
「手堅いわね、直人くん♪カタいのはナマコさんだけでいいのよ?ふふっ」
はいはい。ここまでの会話を活字で見れば、俺の師匠、かなりぶっ飛んだ女性と思われるかも。実際の山城先生、身長190cm、角刈り、無精ヒゲ、ガチムチのマッチョ。度付きのサングラス、喜平ネックレス&ブレスレットを愛用し、事務所内では常にノースリーブまたはタンクトップ。外出時には黒ラガーシャツ。ムスク系コロンの「ル・マル」がお気に入り。外見だけでもやたらと情報量の多い、ステキな30歳男性。
「あ、そうそう。証明書のコピー、コンビニで取っておいてね♡」
山城先生、17歳で行政書士試験に合格、20歳で開業登録して、自分の事務所を立ち上げた異才。開業8年目の一昨年、あかね西商店街の入口に鉄筋コンクリート造5階建て、その名も「タフシャインビル」を新築、その5階に事務所兼自宅を構える。ノージャンルで依頼や相談を受け、繁盛しているとはいえ、業歴10年足らずで持ちビルを新築できた経緯。…良い子は見ざる、聞かざる。
「みんな、もうすぐ3時だからお茶にしましょ♪ONとOFFの切り替えタイムよ♡」
お茶汲み、まだまだ女性か若手の仕事。しかし山城先生、そして俺を含む6人の補助者、みんなナマコさんの所持者。そして山城先生、こだわりのハーブティー好き。タフシャインビル屋上のハーブガーデンで育てたカモミールやローズマリーその他諸々、天日干ししてお茶を淹れ、休憩のたびに振舞ってくれる。俺はもともとコーヒー党、ハーブティーなど口にしたことがなかったが、飲んでみるとオツな味。
「じゃあ、直人くん、気を付けて♪今日、朱音ちゃんと約束があるのよね?入管に書類入れたら、直帰していいわよ」
「ありがとうございます、山城先生。それじゃ、行ってきます!」
俺はエレベーターに乗り、1階へ。このタフシャインビル、1階にある居酒屋「マッスル横丁」から5階の山城事務所まで、経営者のすべて、スタッフのほとんどが薔薇園の民。ノンケの俺は実に少数派だが、みなさん、カテゴリー外の俺に対し人間対人間の付き合い、居心地は良い。
3
あかね市税事務所、そして入管あかね出張所で用件を済ませた俺、最近買った愛車のミニカトッポで自宅に向かった。4年落ちの軽四。身長185cmの俺が身をかがめなくてもゆったり乗れる、お気に入り。
先週、中学来の同級生だった摂津朱音から電話、今日午後5時ウチに来る、との母さんからの伝言。約束の10分前、俺、自宅に到着した。
「朱音さん、さっきお見えになったわよ。客間にお通ししてるから」
玄関に入るなり、土間で母さんからお盆に載せられたアイスコーヒー1杯、そのまま受け取り。俺の分は?それに靴脱いでから渡してくれるコレ?…とも言えず俺、お盆を持ったまま、華麗な足さばきで靴をそろえ、客間に向かった。アイツの来意、百も承知。
「朱音、お待たせ。元気してたか?まあ、冷たいモンでも」
「直人、ありがと。コッチはバタバタね。ソッチもどうだった?」
笑顔でアイスコーヒーの受け渡し。3ヶ月ぶりの対面。俺はさっそく本題を切り出した。
「…で、決まったのか?」
俺が朱音に問うたのは、あかね市議会議員選挙の投票日。朱音、俺に満面の笑みを見せた。
「うん。民自党の事務局から内々にお触れがあった。10月15日だって」
「お前…ツイてるな!当然、立つんだろ?」
朱音の誕生日は10月15日、今年25歳。現職市会議員の任期満了、10月27日。投票日は10月1日、または8日でもありえた。しかしその場合、「投票日に被選挙権資格を有しない25歳未満」である朱音、立候補不可。以前から聞かされてきた彼女の夢のマイルストーン、ピッタリの誕生日とは。朱音、俺の瞳を直視し、静かに問いかけた。
「これから、長い戦いになるわ。直人、助けてくれるわよね?」
答えを返す一瞬の前。俺の心、朱音と出会ったあの日、あかね西中学校の入学式へとさかのぼり。