絵師と武士
《――広郷の前でずいぶん見栄を切ったものだな。惚れたか?》
部屋に戻ると弘法がからかいの言葉を発した。芳昭は懐から弘法を出して、懐紙を取り外す。
「下世話なことを言うな。惚れたとか、そういうことじゃないんだ。――俺は学問の才能がないのに家を継いで官人になるのが嫌で、絵師になった。武芸が好きなのに、広郷が武芸を諦めなければならないのは、かわいそうだ」
まして、広郷の場合は顕子のように抗いようもない状況ではない。まだ広郷の父の考えを変えさせれば、どうにかなるかもしれないのだ。
《だが、どうするつもりだ? 考えがあって、見栄を切ったのだろうな?》
「もちろんだ。――俺は鬼退治の絵を描く。広郷が恐ろしい鬼と戦っている有様を」
《絵を描いてどうなる? 鬼退治の絵は広郷の要望ではあったが、事実とは違う。それに絵でどうやって、広郷の父の考えを変えさせるのだ?》
「まぁ、見ていろ」
芳昭はさっそく、絵に取りかかった。描くのは、あの隠れ里に似たような場所。風変わりな民家を背景に、若武者が太刀を振りかざしている。その姿は躍動感に溢れて、今にも動き出しそうだ。対峙しているのは、大きなたくましい体躯の鬼。額から生えた二本の角と唇からはみ出した鋭い牙。棍棒を掲げる姿はいかにも恐ろしげだ。
着々とできあがっていく絵に、弘法は困惑した声を発した。
《これは事実ではないな。隠れ里の者たちは、ごく普通の人間だった……》
「いや、これでいいんだ。あの隠れ里には、もう誰もいない。皆、北へ逃れていった。恐ろしい鬼の住処だったと描いたところで、確かめる術もない」
《芳昭、そなた、嘘を描くのか》
「――そうだ」
懸命に筆を動かしながら、芳昭は答えた。
「あの隠れ里にいたのが人間と知れわたれば、彼らは追われることになるかもしれない。あの人たちはこれまで税を徴収されてこなかったから、きちんと税を取るべきと考える者はいるだろう。だが、もし住んでいたのが鬼だったなら?」
いくら何でも鬼から税を徴収しよう、とは誰も考えはないだろう。同様に、隠れ里に住んでいた鬼がいなくなったと知って、わざわざ跡を追跡しようと言い出す人間もいるまい。
隠れ里の人々を鬼と描くのは、彼らを本物の鬼だと思ってのことではない。鬼と描くことで、彼らを守ろうとしているのだった。
懸命に絵を描いて三日後。
芳昭は自分の描いた絵を持って、郷で開かれる市に向かった。その一角で都でしていたように絵を売りはじめる。店先に並べたのは、鬼退治の様々な場面を描いたものだった。若く凛々しい若武者が、鬼を追いつめていく。
その躍動感のある勇猛な武士の絵は、人々の目についたようだった。
「さぁ、見ていってくれ! ここの絵はすべて、鬼退治の絵だ。俺が新田家の若君に同行して、この目で見てきた鬼との戦いの有様だ」
鬼との戦いの絵は、たちまち人々の間で人気になった。武者の、まるで生きているかのような身のこなしが人々の関心を買ったのだろうか。
求められると、芳昭はどんどん鬼退治の絵を人々に売った。ときには、即興で描くことまでした。そうして幾枚か用意していた絵は、どんどん売れていく。やがて鬼退治の絵はすべて売れてしまった。
市からの帰り道、弘法は芳昭に尋ねてくる。
《鬼退治の絵を売って、利益になったのはいいことだが、これでどうやって広郷の父の考えを変えさせるというのだ?》
「多くの人が広郷を鬼退治の武者だと思うようになれば、広郷のお父上もそうそう他の者を後継者に指名はできないだろう? 鬼を退治した立派な若君はどうなったんだと言い出す者も出てくるはずだ」
《そうかもしれぬが……。そう簡単に事が運ぶだろうか?》
「簡単ではないかもしれない。だけど、精一杯のことはやるさ。広郷は俺の絵を気に入ってくれた人間だからな」
もし広郷が新田家を継いだら、邸の襖絵や屏風の絵を描く仕事をくれと頼むつもりだ、と芳昭は笑ってみせる。その言葉に弘法は「さて、どうなるか」と考えこんでいるような調子で応じた。
間もなく、郷司の邸にたどり着いた。芳昭は門番に挨拶して、邸へ入ろうとする。と、そのときだった。門番の武士が芳昭を呼び止める。
「待て。郷司からのご命令で、お前を中に入れるわけにはいかん」
「え? そんな……。今朝は何もおっしゃらなかったのに」
「郷司さまは数刻前に、急にお決めになったんだ」
「なぜですか? 理由を教えてください!」
芳昭は食い下がったが、門番はにべもない調子だった。
「知らぬ! 理由は俺も聞かされていない。決まったことは決まったことだ」
「では、せめて荷物を取りに行かせてください。荷物の中に絵の道具がある。あれがないと、俺は食べていけない」
市で絵を描くために道具を持って出たものの、予備の筆や画材などは荷物にまとめたままだ。芳昭がそう必死に訴えても、門番は命令だからと聞き入れない。
頑として動こうとしない芳昭に苛立って、門番はとうとう手にしていた槍を構えた。その穂先にはめ込まれた鋭い刃に、芳昭はぎょっとする。もはや荷物を気にせず逃げ出したかったが、そういうわけにもいかない。
「お願いです、どうか」
「うるさい! 郷司様から決してお前を邸に入れるなと言われている。抗うようなら斬るぞ」
門番は槍の穂先を見せつけるように前に出した。こうなると、芳昭にはどうすることもできない。そもそも、武術ができるのなら絵師にならずに検非違使でも目指していただろう。芳昭は無力感に唇を噛んで、その場を引き下がった。
郷司の邸に背を向けて、とぼとぼと歩き出す。
《芳昭よ。生命あってこそ絵が描けるのだ》弘法が慰めるように声を掛けてきた。《逆に言えば、生きていればお前は絵で食べていける。この国を出てどこか新たな土地に――》
「……絵があれば、何とか食べていける。それはそうだろう。だが、鬼退治の絵は今しばらく描いて売りつづける」
《なぜだ? 邸を追い出されたなら、広郷のために鬼退治の絵を売る必要はないだろうに》
「広郷のためじゃない。これは、俺のためだ。俺の絵がどれほどの力を持つか、試してみたいんだ。もしも、俺が市で絵を売ることで鬼退治が評判になって、広郷のお父上の考えを変えることができたなら……絵にはそれだけの力があるという証だ」
だが、それを実現するためには、どう動くべきか。芳昭は考える。手に持った荷物は旅の最中に比べると、不安になるほど軽い。絵の道具の一部に加えて、旅のためのさまざまな道具も郷司の邸に残したままなのだ。
これでは、たとえば京へ戻るといったことは難しい。いずれにせよ、市でしばらく絵を売って路銀を得る必要がある――。と、そこまで考えたところで芳昭ははっと思いついた。
そういえば、芳昭は旅の道中で受領の身内が山賊に襲われているのを助けた。もしも頼みこめば、襖にでも絵を描く仕事がもらえるかもしれない。そこで、芳昭はさっそく国府のある土地へ向かうことにした。
郷司より立場が上の受領に仕事をもらえれば、この地に止まっていても郷司も文句を言うまい。
芳昭は国府のある大江へと向かった。
近江国府は築地塀に囲まれ申門の正面に正殿が配置されている。内裏の縮小版といった趣だ。国府からに西へ少し丘を下ると建部神社という大きな神社が見えてくる。近くを通る人に話を聞くと、大江では建部神社の参道に、決まった日に市が立つということだった。さらに国府の長として都から赴任している受領の邸も、近くにあるという。
そこで、芳昭は受領の邸へと向かった。邸の門番たちに絵の行商だと言い、取り次ぎを頼む。門番が面倒そうにあしらうので、芳昭は彼らの前で絵を描くことにした。少し離れた道の傍らで絵の道具を広げる。こうして往来で絵を描くのは、市でたびたび行っていることもあって慣れたものだ。
さらさらと手持ちの木簡に筆を走らせて、芳昭はあっという間に梅の花を描いてみせた。門番たちは芳昭の周囲に集まり、感心したように絵を眺める。そうするうちに、次第に通りを行き交う人々が芳昭の周囲に集まってきた。それならば、と市でするように人々に注文を聞いて絵を描いていく。
三人ほど注文を受けたとき、横から「もし」と声を掛ける者があった。受領の邸の下女のようだ。
「国司様のご家族が、あなたの絵に興味をお持ちです。扇の絵など、頼めますか?」
「ええ、もちろんです。時を頂ければ、短い絵巻物や襖絵、屏風絵を描くこともできますよ」
言われるままに芳昭は受領の邸へ入っていった。
近江国は都にもっとも近い国であり、そこに赴任する受領も有力貴族が多い。邸も都の貴族に匹敵するほどの規模だ。
芳昭は邸の一室に通された。しばらく待っていると、受領の妻に仕える侍女が現れる。藤波と名乗った侍女は芳昭を見るなり、「あっ」と声を上げた。
「あなたは、峠で私たちを助けてくださった旅の方ですね」
「ええ、そうです。あなたもあの場においででしたか」
「おりました。山賊が現れたときは、どうなることかと思いましたよ。おかげで助かりました」
「それは都合がいい。実は、近江に来たはいいが、仕事がなくて困っているのです。扇の絵は喜んで描かせていただきます。ですから、願わくば他にも仕事をいただけないかと。こちらが私の描いた絵巻物です」
芳昭は広郷の鬼退治を描いた絵巻物を、藤波の前に広げてみせた。それを見て、藤波が目を丸くする。
「まぁ、この絵巻物、あなたが描かれたのですか! 先日、私の夫が出先で買ってきてくれて、たいそうよく描けていると国司や奥方様、お子様方にも評判だったんですよ」
「これは私が実際の若武者に同行して鬼退治の様子を見せてもらい、そのときの記憶で描いたものなのです。若武者というのは、新田広郷といって――」
そのときだった。
「鬼退治の武者は、実在の人だったの?」
戸口から少年が顔を出す。元服前でまだ髷も結っていない少年は、興味津々という様子で芳昭の方へ近づいてきた。身なりや藤波の恭しい態度から察するに、どうやら少年は受領の息子のようだ。
「鬼退治の話、大好きなんだ。後でお話してくれる?」
「もちろんです」
芳昭が答えると、受領の息子は嬉しげな笑みを浮かべた。
峠で受領の身内を助けた一件に加え、受領の息子が鬼退治の絵を気に入ったこともあって、芳昭は邸に滞在して屏風に絵を描く仕事をもらうことができた。屏風絵の仕事と受領の息子のための絵巻物描きをこなし、その合間に市の立つ日には絵の出店を出す。そうしてあっという間にひと月が経った。
そんなある日のことだ。
市から邸に戻ると、庭先から歓声が聞こえてきた。受領の息子が誰かと遊んでいるらしい。芳昭が庭へ入っていくと、そこで受領の息子が木刀を構えていた。対峙している相手に見覚えがある。広郷だった。受領の息子が頼りない太刀筋で打ちこんでくるのを、広郷は軽くかわしたようだった。が、その直後に自分から地面に転がってみせる。
「うわぁ、いたた! 若はお強いですねぇ」
広郷の言葉に、少年はキャッキャと声を上げて喜んでいる。
「――広郷、お前、どうしてここに?」
芳昭が声を掛けると、広郷は起きあがって受領の息子に遊びはお終いにしようと告げた。少年は広郷に礼を言って邸へ入っていく。その背中を見送って、広郷は芳昭に向き直った。
夕暮れどきの庭に、他に人はいない。短い沈黙の後に広郷は声を発した。
「久しぶりだな。ひと月ぶりか」
「今日はどうしたんだ?」
「家を出てきた」
「は? 何を言っているんだ?」
「叔父上のところから飛び出してきた。父上の決めた相手を婿に取らされるくらいなら、いっそ家を捨ててもいいかと思ってな」
「家を捨てるって……お前は新田家の惣領になりたかったんだろう? 家を捨てていいわけがない」
「だが、父は私の婿を惣領にするつもりだ。このままでは、私は手をこまねいて私以外の奴が惣領になるのを見ていなければならない。しかも、そいつが私の婿だって? 真っ平ごめんだ。だから、私も考えたんだ」
広郷が言うには、父親に文を送ったのだという。文の内容は、自分を惣領に指名しなければ、家に戻らないというもの。新田家では広郷が唯一の娘であるから、彼女がいなくなれば直系の血筋が絶えることになる。
「それで、どうして俺のところへ来た?」
「芳昭に尋ねたいことがあったんだ。お前、私の夫になる気はないか?」
「夫だと? 俺は武家の出じゃないぞ。親は都の下級貴族だが、もう家は捨ててきた。俺自身は何の後ろ盾もない、ただの絵師だ」
「承知の上だ。それでも、芳昭がいいんだ。お前は自分の絵で私の叔父上や父上を……人の心を動かそうとしただろう。叔父上の邸を追い出されても、鬼退治の絵を売り続けたそうじゃないか。お前はたいした奴だ。そういう不屈の心を持つ人間は、武士にだってそうそういない」
広郷の言葉に、芳昭は妙な気まずさを覚えた。
「俺は自分の絵の力を証明したかっただけだ。自分のためにしたことなんだ」
「分かってる。自分の絵の力を証明しようとしたというのは、それだけ自分の力に自信があったということじゃないか」
広郷は芳昭の手を取って、顔をのぞきこんできた。その勢いに芳昭は思わず身を引きかける。が、広郷の勢いはなおも止まらない。
「私は、お前以外なら夫にするつもりはない。つまり、女の姿に戻って婿を取る気はない」
「そうは言うが、俺と夫婦になったら、父上に勘当されてしまうのではないか?」
「そうなったら、貴族の邸の門番でもするさ。あるいは、武家の一門に仕えてもいい。お前はお前で、絵師を続ければいいのだし」
そう言う広郷の目は強い意思に輝いている。芳昭は彼女を見つめて静かに息を吐いた。彼女の戦う姿は、とても美しい。純粋に絵師として、近くにいてもっと彼女を描いてみたいと思う。広郷といると予想外の出来事が起こるがそれも楽しそうだ、と芳昭は思った。
了