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才能

1.

 

 馬の背に広郷を乗せ、芳昭がその手綱を引いて山を下りるうちに、夜が明けていった。夜明け、かなり山の麓まで降りてきたところで、辺りに霧が立ち込めてくる。そうすると墨絵の馬は墨が流れ落ちて消えてしまった。そこからは芳昭が刀傷を受けた上に熱が出て、ぼんやりとした広郷を背負って里へ向かった。そうしていると、遠くから広郷と芳昭の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。芳昭は「おおい、ここだ」と声を張り上げた。合流してみれば、声の主は郷司の配下の武士たちだった。聞けば、昨夜、はぐれた仲間たちが事態を郷司に報告して、早朝から捜索のための部隊が派遣されたのだという。

 郷司の対応に芳昭は驚かされた。

 が、考えてみれば当然かもしれない。芳昭はただの絵師にすぎないが、広郷は今のところ武士の一族の跡取りということになっているのだから。

 芳昭と広郷はすぐに郷司の邸に戻された。このとき、時刻はすでに昼過ぎになっている。発熱が続いていた広郷はぐったりして、郷司の邸に戻ると事情を報告する間もなく寝込んでしまった。

 代わりに芳昭が郷司の元に呼ばれ、昨夜の出来事について質問を受ける。

「昨夜、お前と広郷はどこにいたのだ?」

「森の中に……」芳昭は曖昧に答えた。

 隠れ里の人々は、昔、政変に破れて逃れてきた官人の子孫だと言っていた。さらに、生活に困り、律令で割り当てられた田を放棄して逃げてきたちがやのような人間も、隠れ里にはいたことだろう。そう考えると、郷司にあの隠れ里の存在を打ち明けるのはためらわれた。

「要領を得ぬ答えだな。森の中は夜にうごめく獣も多くいる。いくら広郷は武勇が自慢とはいえ、対処しきれなかったはずだ。本当に森に潜んでいただけなのか?」

「鬼と遭遇したとき、広郷様は果敢に戦われました。私は始終、怯えて小さくなっておりました。ただただ恐ろしい出来事でした……」

 曖昧に繰り返す芳昭に、郷司はこれ以上、はっきりとした答えは引き出せまいと諦めたらしい。すぐに興味を失った様子で、芳昭に退室するようにと身振りで示した。

 それでも芳昭が幸運だったのは、こんな状況になっても邸を追い出されはしなかったことだろう。もしかすると、郷司の奥方や娘、武士たちの身内のために絵を描いたことも関係しているのかもしれない。芳昭は自らに与えられた一室に戻って、弘法を取り出した。

 不安になったときの常で、つい話しかけてしまう。

「あの怪我で、広郷は無事に回復するだろうか……」

《刀傷はさほど深くなかったのだろう?》弘法が尋ねた。

「ああ、そう見えた。だが、人は案外、簡単に死ぬものだろう」

 芳昭の脳裏に、子どもの頃に通りで見た遺体の姿が浮かび上がってきた。朽ちかけた無惨なその有様が一瞬、広郷に重なりかける。縁起でもない。芳昭は大きく首を横に振って、脳裏に浮かんできた遺体を追い払った。

「考えていても仕方ないか。俺は自分にできることをしよう」

《そういえば、そなたは広郷に鬼退治の絵を描いてくれと頼まれていたな。描いてやってはどうだ? 目覚めたとき絵ができあがっておれば、広郷も喜ぶだろう》

「鬼退治の絵なぁ……」

 弘法の言葉に芳昭は困惑した。鬼退治の絵を描くとはいっても、自分と広郷が遭遇したのは鬼ではなく、遠い昔に政界を逃れた隠れ里の人々だ。想像で鬼退治の絵を描くことはできるだろうが、それは真実ではない。そんな絵を描いたところで、依頼主である広郷が喜ぶかどうか。

「そう簡単に鬼退治を描いていいものだろうか。事実ではないのに……」

《確かに、鬼退治は事実ではない。だが、それを言うならお前がたびたび絵巻物を描いてきた『源氏物語』にしても、光源氏という男は実在しない。だから絵巻物を頼まれても描かない、と言えるか?》

「それはそうだが……。人間の男なら、市井に参考にできるような者もいるだろう。だが、鬼はお前と同じ人ならざる者だ。どう描いていいか分からない」

 芳昭の言葉に弘法はフンと鼻を鳴らすような音を発した。

《鬼がどのような姿か、物語草紙などで語られているだろう。そなたも読むか聞くかしたことがあるはずだ。鬼の話を聞いても姿を描けないというなら、それはそなたの絵師としての腕の問題ということ》

「何だよ。市が立てば俺の絵は飛ぶように売れるんだぞ」

《強がりを。己の絵師としての才能に自信が持てず、師匠の家を飛び出してきた半端者のくせに》

 痛いところを突かれて、芳昭は苛立ち紛れに弘法に布をグルグルと巻き付けてやった。もちろん、彼の声は頭に直接響くものであるため、そんなことをしても無意味なのだが。

 それででも、芳昭がしばらく無視していると、弘法はやがて静かになった。芳昭はほっとしたが、かといって絵を描く気にはなれなかった。そこで、隠れ里の長から託された日記を取り出し、開いてみる。

 日記は長の一族が代々、大事に書きつづけてきたようだった。毎日、何らかの記録があるわけではなく、重要な出来事のあったときだけつづられているようだ。最初の頁に戻ってみると、政変に敗れて都を逃げ出すところから始まっているようだ。

 最初は都のあった奈良を離れ、あちこちを転々とした末に近江の一角に身を隠す過程が記録されている。その後は紙の使用を節約しようとしたのか、重要な出来事のみの記録に移り変わっていった。ときには、長の代変わりの記録しか残されていない時期もあるくらいだ。しかし、芳昭に日記を託した長はさまざまな出来事を丁寧に記述していた。

 このところ、隠れ里は山賊に狙われるようになっていたようだ。さらに数年前には一度、郷司の部下に隠れ里が見つかってしまい、家を捨てて移動したともある。

 いっそ、郷司に申し出て公民としての戸籍を得るかどうか。けれど、公民となれば重い税に苦しむことになる。それくらいなら、過酷な旅をしてでも都から遠く支配の届きにくい北へ逃れる方がいいだろうか――。

 日記はそこで終わっている。芳昭は日記を閉じ、頭を抱えた。

 ――鬼が出没している。

「……なぜ隠れ里の人は、鬼と呼ばれたんだろう?」芳昭は呟いた。

《おそらく、今の人々とは持ち物や服装が違っていたからだろうよ》

 弘法が応じる。隠れ里の人々が世間と交流せずに隠れ住んでいる間に、この国は大陸への使節派遣を中止した。今でも太宰府などでは交易が行われているものの、都ではこの国独自の発展が進んでいる。おそらく、都が奈良にあった頃と現在とでは、人々の衣類や持ち物も変化してしまっていたのだと弘法は答えた。

「弘法から見ても、それほどに差は大きいのか?」

《もちろんだ。人々の服装は様変わりした。わしは宮中にいたこともあったが、たとえば女房の服装は今とはまったく違っていたぞ。奈良に都があった頃は、唐風の衣装だった。髪も結っていたものだ》

「そうだったのか……」

 それならば、郷の人々は隠れ里の人々の有様を見て『尋常ならざる者』――つまり鬼と考えたのだろう。もしかすると、山賊の襲撃も鬼の仕業――言い換えれば、隠れ里の人々による犯行と見なしているかもしれない。

 ともあれ、鬼退治の絵を描くにあたって、鬼の正体が誰であったかという推測は必要ない。たくましい身体つきの、金棒を持った鬼でも描くのなら、何も苦労はないはずだ。

 だが。

「――隠れ里の人々は、鬼ではなかった。広郷は果敢に戦ったが、その相手も鬼ではない……」

《そう言うのならば、すべては広郷に任せればよいのではないか? 鬼退治の絵を依頼したのは、他ならぬ広郷だ。ならば、広郷に依頼通りの絵を描いていいのか尋ねればいい。依頼主の頼みに従って描くというのは、絵師として正しい姿だろう》

 そうなのだろうか。芳昭は考えこんでしまった。頼まれたものを、依頼のとおりに描く――それは確かに依頼人に喜ばれるだろう。だが、それでいいのだろうか。

 鍛錬する広郷を描いたとき、広郷はたいそう喜んだ。それは、自分が広郷の望みのとおり描いたからなのか? 描く最中に、絵師である自分もまた広郷の身のこなしの素晴らしさに感動していた――その感動は無意味だったのだろうか。

 ――絵師とは、何なのだ。どうあるべきなのだ。

 しかし、芳昭の抱える問いに答えは見つかりそうになかった。


2.


 広郷の意識が戻ったのは、翌日のことだった。芳昭は郷司に頼み込みこむこと二日目に、広郷への面会を許された。しかし、どうにも気乗りしない様子だ。

 もしかして広郷の容態が思わしくないのだろうか。

 不安に思いながら寝所に行くと、広郷は退屈しきった様子で寝転がって物語草紙を眺めていた。

「無事に目覚めてよかった」

 芳昭が言うと、広郷は身を起こして言った。髷を結っていないため、髪が背に流れている。それでも成人女性としての長さには満たないため、今の広郷の姿は出家した尼君のようだった。

「無事でよかったと言いたいのは、私の方だ。ここで寝ている間、お前のことが心配だった。私はちゃんとお前を守れただろうかと」広郷は言った。

「俺はこの通り五体満足だが……。誰もお前に状況を教えてくれなかったのか?」

 不思議に思って芳昭が尋ねると、広郷は緩く首を横に振った。

「お前が生きていることは、叔父上に教えてもらった。あまり関心がないようで、無事だとだけ。だが、お前は生きているだけでは不十分だろう? お前の腕の一本、目の一つ……あるいは指の一本であっても失われて、絵を描けなくなっていたら――それは私にあがなえるような軽い損失じゃない」

「大袈裟な。たかだか、旅の絵師一人のことだ。俺が絵を描けなくなっても、お前は困らないだろう。まぁ、死んでいたら多少、気に病んだだろうが……」

「困る!」

 唐突に、大きな声を発して広郷は芳昭の腕を掴んだ。その力の強さに、芳昭はギョッとする。しかし、広郷は意に介することなく、言葉を続けた。

「お前の絵は素晴らしい。私を描いてくれたから誉めてるんじゃない。お前の絵には、本当に戦っている姿が目に浮かぶかのような動きがあった。私はそれに感動したんだ。――だからこそ、お前に私の鬼退治の絵を描いてほしかった……」

 そこで、広郷は力なくうなだれた。今まで見たこともないような気落ちした態度。芳昭はおろおろしながら、広郷に言う。

「お前の活躍の絵ならば、また描いてやるさ。何も鬼退治でなくたって、鍛錬している有様でもいいだろう。お前の身のこなしは素晴らしいのだから」

「いいんだ。私は今後、戦うことはなくなるから」

「どういうことだ? お前は武士だろう? いくら惣領の跡取りとはいっても、戦いを避けることはできないはず」

 芳昭は広郷の肩を掴んで問いただした。その途中でふと思い至る。もしかして、広郷は惣領の跡取りではなくなってしまうのではないか――。

「広郷、もしかしてお前……」

「――都の父上に私が怪我をしたことが知られたんだ。昨日の夜、その父から早馬で文が届いた」

「父上は何と?」

「私に女として生きろと。確かに新田家は皇后様付の女武士を輩出してきたけれど、平家の平忠盛や源義朝など、貴族の下にあった武士が力を付けつつある」

「それが、広郷が女として生活しなければならないのと何の関係があるんだ?」

「貴族の力が弱まり、武士が力を付けつつある……。つまり、貴族や帝の庇護に入る形では生き残れなくなるやもしれぬ。今後の新田家の生き残りのために、しかるべき武士の家から婿を取り、子を成すべきだと父上は言うのだ」

 広郷はひどく気落ちしている様子だった。父親の命令は彼女の望まないものだったのだろう。

 もしも自分が広郷の立場だったら――芳昭は想像してみようとした。自分は戦いが嫌いだから、武士として働かなくてもいいと言われたら喜ぶだろう。ただ、婿を取って跡継ぎを残せと言われたら、どんな気分だろうか。

 顕子が東宮妃になるときには、彼女がいなくなるという喪失感しか覚えなかった。だが、考えてみれば顕子も広郷も同じ立場だ。跡継ぎを産むことを望まれている。学問をしてみたいと言っていた顕子の望みも、広郷の武術への自信も、そこでは意に介されることはない。

 ――もしも誰かが俺に絵を描くなと、それよりもどこぞの娘と子を作れと言ったら? 子とともに家を守るのか仕事だと言われたら耐えられるだろうか……。

 とてもではないが、芳昭はそれに従う自信がなかった。そもそも、親の跡を継いで官人になるのが嫌で、家を出たようなものだ。

 それにしても、広郷は父親の命令をどう思っているのだろう。芳昭はうつむく彼女の顔をのぞき込んだ。

「広郷はお父上の命令に従うのか?」

「……今の新田家の当主は父上だ。父上が私に婿を取るとお決めになったのならどうしようもない。父に反すれば所領を相続できぬからな。私が抗ったところで、父上が私に跡目を譲ってくれなければ意味がないんだ」

 絶望した広郷の様子を、芳昭は痛ましく思った。広郷は芳昭の絵を気に入ってくれた。そんな彼女のために、何か力になれないだろうか……。

《――広郷の父が、広郷を後継者だと正式に認めればよいのではないか?》不意に懐から弘法が声を発する。

「確かに、そうしてくれればありがたいが――弘法よ、それはきっと無理だ」広郷は弱々しく微笑んだ。「私に文を寄越されたのだ。父上はもう、私の婿を跡目にすると決めておられるのだろう」

 その言葉に芳昭ははっと気が付いた。弘法は広郷の父に彼女を後継者と認めさせればよいと言った。広郷の言うように、他人の考えを変えさせることは困難だろう。だが、もし、そうしなくてはならない状況になったとしたら?

 ――俺には、その『状況』が作り上げられるかもしれない……!

 そう思い至って、芳昭は立ち上がった。

「広郷は強い武士だ。だから、お前が新田家を継ぎたいと望むなら、それは実現されるべきだ。実力の分からないまだ見ぬお前の婿殿ではなく、お前自身が継ぐべきだ」

「芳昭、しかし、それは無理なんだ……」

「無理じゃない。俺が実現させてみせる。俺は学問も、武術も不得手だが……皆にお前の実力を認めさせることはできる」

 正直、芳昭にも自分の考えついた手法が上手くいくのか自信はなかった。だが、不安そうな広郷の手前、思い切って断言した。 



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