女武士の家系
1.
芳昭は下山して、広郷に案内されるままに田舎豪族の邸へ向かった。
「ここは私の父方の叔父の家だ。叔父の弓削敦広はこの地域の郷司でな」
――郷司、ということは地方豪族か。
芳昭は頭の中に地方の政治体制を思い描いた。
今の都は京にあるが、この国の政治体制は奈良の時代に成立した律令国家の延長線上にある。帝が京から政治を行い、官僚がそれを支える。地方は田を割り当てられ、決められた租税を都に納めるのだ。
地方には、国や郷、里という行政単位が敷かれている。国の中にはより小さな行政単位である郷かあり、その中でさらに里に分かれるといった具合だった。国を治める国司(受領国司)には、任期付きで中央から貴族が派遣される。その下の郷司には、昔から地域を支配していた地方豪族が就任する傾向が強かった。
だが、それにしては広郷の言葉遣いは都の出身者のそれだ。
「郷司のお身内なら、あなたはこの国の出か? 言葉遣いは都風だが」
「よく分かったな。私の家――新田家はもともと都で皇后様の周囲の警護を行っている。私はそちらで生まれ育った。叔父は父方の郷司の家柄を継ぐ形で、こちらに住んでいるんだ」
帝の周囲の警護といえば、新田家は滝口の武士として働いているのだろう。その家の子がどうして、地方にいるのか。芳昭は不思議に思った。貴族にしろ、武士にしろ、たいていの子は親の後を継ぐものだ。家というのは、そういう風にできている。絵師になるからと家を出奔した芳昭は、かなり例外の部類だ。
親元を離れ、叔父の家に身を寄せる広郷にも、何か事情があるのかもしれない。芳昭はそんなことを考えながら、先を行く広郷の小柄な背中を眺めていた。
「受領のお身内を守ってくれた恩人として、叔父にあなたを紹介しよう。ついて来てくれ」
言われるままに芳昭は広郷の後についていく。邸の一室に通されてしばらく待っていると、間もなく壮年の男が部屋に入ってきた。身に着けている狩衣は、布の質が良さそうに見える。男は郷司の弓削敦広と名乗った。
近江は湖を擁する地の利を生かして、交易が盛んで豊かな土地だ。この土地の郷司として、敦広はかなり力を持っているのだろう。
数十年前に国司の権限が強化されたために、郷司の力は昔ほどではなくなったときく。しかし、豊かな近江の郷司である敦広はいまだに強い力を持っているようだった。
「この度は受領のご家族を保護してくれたことに感謝する。――ところでそなたはなぜ都からこの近江に?」
芳昭が答えようと口を開いたときだ。懐から弘法が声を発した。
《おい、正直に答えるんじゃないぞ。貴族の子弟崩れの絵師なんぞ、警戒するに決まっている。それより絵師として上手く売り込むのじゃ》
貴族の子弟崩れとは何だ。芳昭は不快に思った。が、考えてみれば弘法の言うことももっともではある。にっこりと微笑んで口を開いた。
「私は絵師として駆け出しなので、すでに多くの絵師がいる都ではなかなか仕事がないのです。あちこち巡れば修行にもなり、仕事も見つかるかと思いまして」
「ほう」敦広は興味を持ったようだった。
「絵巻物や襖絵、扇の絵付けなど、絵に関することなら何でもいたします。もし、絵をご入り用の方があればお申し付けください」
「それならば、ひとつ襖絵でも依頼しようか――」
そのときだった。傍らに控えていた広郷が「叔父上」と声を発した。
「私も芳昭に依頼したい絵がございます。この近く――水田の里に鬼が出るそうではないですか。芳昭には私の鬼退治の様を描いてもらい、都の父に贈りたいと思います」
「広郷、鬼退治の件は諦めよと言っただろう」
「なぜです? 民が困っているのですよ。放置しておくわけにはいきません」
「そなたは新田家の唯一の直系ぞ。兄上もそなたの身を大事に思っている。だからこそ、危険な真似をすべきではない」
「叔父上のおっしゃるとおり、私は新田家の嫡子です。都の新田家はもともと皇后様付きの武士の家柄。であれば、嫡子である私は当主として十分に強いと父上に示す必要があります」
敦広は広郷の言葉に苦い顔をした。どうも雰囲気が妙だ、と芳昭は思う。敦広は広郷が武功に逸ろうとするのを、心配しているようだ。しかし、当の広郷は鬼退治をしたがっている。言葉から察するに、広郷は民の不安を取り除いてやりたいと思っている。しかし、それ以上に自らの強さを証明したがっているかのようだった。
一族の血を引く唯一の子で、嫡子だというからには、広郷は自らの強さを証明しなくとも、いずれ父親から家督を譲られるはず。それなのに、強さを証明するために危険を冒そうとしているのは、いったいどうしてなのか。どうにも腑に落ちない思いで芳昭は二人を見つめていた。
と、見られていることに気付いたらしく、敦広が咳払いをする。
それでも広郷はどこ吹く風といった様子だ。最初から敦広との会話に第三者を立ち合わせたかったのではないか、というような落ち着き払った態度で口を開いた。
「叔父上、そういう事情ですので、立花芳昭をしばし邸に留め置いてもいいでしょうか? 芳昭は受領のお身内の恩人でもあるわけですし」
「うむ……」敦広は迷っているかのように、芳昭の方へ目を向けた。それから意を決したらしく、頷いてみせる。「いいだろう。誰かに部屋に案内させよう」
「いえ、私が案内しますゆえ」
広郷は立ちあがって芳昭について来るように言った。芳昭は大人しくそれに従う。敦広はなぜか苦い顔をしていた。広郷があくまで自分の意見を主張したことが忌々しいのか、あるいは、素性の分らない絵師を邸に置くのが嫌なのか……。そう思ったものの、当面の寝泊りする場所を探さなくていいのはありがたいことだ。芳昭は敦広の視線には気づかないふりをして広郷の後に付いていった。
そうして郷司の邸に身を寄せること、二日間。その間、芳昭は敦広の奥方を初めとした邸の人々に頼まれ、幾本かの扇に絵を描いた。扇に好きな絵を付けるというのはかなり好評で、依頼をする者は後が絶えない。その合間に芳昭は、絵の練習にと庭の風景やそこに飛んでくる鳥などを描いた。
昼下がりのこと。簀子縁に出て庭を描いていると、叔父の下について里を見回っていた広郷が帰ってきた。そうして庭へやってきた広郷は、やわに腰の太刀を抜いて振るいはじめる。芳昭はびっくりして、広郷に声を掛けた。
「こんなところで太刀を振るって、いったいどうしたんだ?」
郷司の甥にこのような口調はどうかと思うが、今更、変えるのも何だか妙だ。それで、芳昭は最初の口調を続けている。広郷の方も芳昭の口調を咎める気配はない。
「なに、里を見回ってはいるが、山と違ってこの辺りは平和だ。鍛錬していないと、戦い方を忘れそうでな」
「戦い方か。そういえば、これまで貴公子や姫は描いたことがあるが、戦う武士はないな。見せてくれないか? その動きをどうすれば絵にできるのか、観察してみたい」
「いいぞ! 何せ、芳昭には私の鬼退治を描いてもらうんだから、それまで十分に練習してもらわないとな」
そこで、芳昭は簀子縁に腰を下ろして、懐紙と弘法を取り出した。鍛錬する広郷の姿を眺めながら、その姿を写し取っていく。
――これはなかなか難しいな。
鍛錬の様子を描きながら、芳昭は内心、そう思った。これまで、芳昭が描いてきたのは室内で立ったり座ったりしている人物がほとんどだった。屋外の人物と言えば、市で働く人々を描いたくらいだろう。そういう人々はさほど大きな身振りを取らない。たとえば、全身の体重を掛けて太刀を振り下ろしたり、振り向き様に勢いよく太刀を抜いたりはしないのだ。
当然、武士の鍛錬なんて初めて描くために、気に入った出来映えのものが出来上がらない。途中でああでもない、こうでもないと中断した描き損じばかり増えていく。芳昭は焦りを覚えたが、弘法はむしろこの状況を楽しんでいるようだった。
《なかなか難しいな。――ああ、この絵はなかなかの出来ではないか? いや、まだまだだな。新たな絵を描いて……》
あれこれ言いつつも弘法は鍛錬を描くことの困難さを楽しんでいるようだ。その声を聞きながら、芳昭もいつの間にか絵を描く作業に没頭していった。
そうして、どれくらい経っただろう。ふと気が付くと、目の前に広郷が立っていた。広郷はじっと芳昭の手元の絵を眺めている。
「描き損じが多いな。私には十分描けているように思えるが……」
「まだまださ。あなたの鍛錬は躍動感に満ちている。その躍動感を伝えられてこその絵描きだ」
「そういうものか」
「たとえば、さっきのあなたの太刀筋は、俺には十二分に鋭いように見えた。もはや鍛錬など必要ないのではないかと思ったほどだ。しかし、その後もあなたはしばらく鍛錬を続けた」
「それは……一度の太刀筋が鋭くとも、それを保てないなら意味がないからだ。私はまだまだ未熟だ。鬼と渡り合うには、どれだけ強くとも十分ということはないだろう」
そこまで言ったところで、広郷は「あっ」と声を上げた。芳昭が言わんとしているのも同じことだと気づいたらしい。
「なるほど、そういうことか」
広郷が呟く。その目は感心に満ちていた。
2.
三日後。近くの村に鬼が出たという報せがもたらされた。広郷は群司である叔父の敦広に願い出て、三人の武士とともに問題の村の警備に当たることとなった。芳昭もそれに同行させてもらうことにする。
広郷は二つ返事で芳昭の申し出を承諾した。むしろ、難色を示したのは敦広の方だった。
「村の警備は遊びではないのだぞ。絵師を連れていくようなところではない」
「叔父上、もちろん遊びのつもりはありません」広郷は殊勝な態度で頷いた。「ただ、今回は鬼が出たと村人が言っています。それが鬼でないとしても、敵方の正体は不明ということです。ならば、絵師が同行して敵方の姿を描いておけば、相手を探るのに役立つことでしょう」
最初から、広郷は自らの鬼退治の絵を描いてほしいと言っていた。それを、こんなにももっともらしく理屈を付けるとは。芳昭は内心、ひどく感心した。
広郷の叔父も説得されかかっているようだ。
「それはそうだが……」
口ごもる郡司に最後の一押しとばかりに、広郷は重ねて言った。
「人々の不安を打ち払えば、郡の情勢は安定して人々はますますよく働くようになるでしょう。そうすれば、受領は叔父上をいっそう高く評価なさるはずです」
それが決定打となって、郡司は広郷の一行に芳昭が同行することを許可したのだった。
しかし、鬼退治の一行とはいっても、名目上はただの支配地域の見回りでしかない。大人数で行って民が動揺してはいけないからと、結局は広郷と郡司の部下の武士三人、それに芳昭という少人数での道行きとなった。
近江の一帯は、湖の水路を使った交易も行われており、比較的豊かな土地柄だ。この国の民は、はるか昔の律令によって課された重い税を納めている。とはいえ、まだ豊かな分、近江の村々の人々の表情はいくらか明るいようだった。
広郷は郡司の代理としてよく見回りをしているようで、村人たちは「若様、若様」と親しく声を掛けている。芳昭が驚いたのは、広郷が村の若い女性に人気があることだった。村長の家で休憩させてもらっているとき、村の乙女たちが入れ替わり立ち替わり、広郷に話しかけにくるということも珍しくない。彼女たちはついでのように芳昭にも声を掛けることがあるのだが、休憩の合間に村の風景を描いている絵師の作業への興味のようだった。
「お前は女子に好かれるのだな。細身で都の貴公子のようだからだろうか」
ある村長の家で休憩を取っているときに、芳昭は思わず広郷に言った。芳昭は休憩の合間にと、村長の家の中を描くついでに、簀子縁で寛ぐ広郷の姿を描いている最中だった。
広郷は描かれているのを承知で、簀子縁に横になってだらけた姿をさらしている。伴の三人はといえば、馬の世話をしにいったようだった。
広郷は芳昭の言葉を聞いて、おかしそうに笑った。
「私が貴公子だって? 私は武士だ。貴公子とはまったく違う」
「お前に声を掛けてくる娘たちには、貴公子のように見えているのだろうよ」
「そうではないさ。私は、実は女なんだ」
「は? 何を言っている?」
「本当のことだ。新田家はもともと、皇后様付きの女武士の家系でな。後宮での護衛には女の方が適しているからと、代々、娘が武家の長になる習わしなんだ。祖母も曾祖母も男の姿で当時の皇后様をお守りしたものだ。なにせ、女房装束では動けぬのでな」
「では、広郷の母上も?」
「母は身体が弱く、その役目が果たせなかった。近江の豪族の弓削氏から父を婿にもらったが、父は弓削家のように男が跡を継ぐべきと考えている。新田家の習わしに従って私を武者として鍛えはしたが、婿を取らせてその婿を家長にしたいようだ」
「まさか……俺を担ごうとしているんだろう?」
「そんなことをして、私に何の得がある。お前は弱いのに山賊に襲われた人々を守ろうとした。信用に値すると判断したからこそ、こうして打ち明けているんだ」
「俺は別に守ろうとしたわけじゃない。ただ身体が動いただけだ。お前の言うことが真実なら、俺のようなぽっと出の絵師に打ち明けていいこととは思えない」
「弱い者を庇ったからってだけじゃない。お前はずっと絵を描いている。真面目で勤勉な男だ。それを見越した上でこうして真実を話しているんだ。頼みもあるしな」
「頼み?」芳昭は首を傾げた。
「そう、頼みだ」
広郷は真剣な顔になり、起きあがって芳昭の傍へやってきた。女性だと知らされると、距離が近いことが妙に気になってくる。芳昭はわずかに身を引きながら、「頼みとは?」と尋ねた。
「もし鬼が見つからなくても、私の戦う姿を絵に描いてほしい。家督を譲るという段になって、父上は私を後継者にしてよいか迷っているんだ。娘が男のなりをして生き続けるのは、本当に幸せなのことなのか、とな」
「ああ……。それは、そうだろうな」
思わず頷くと、広郷は目をつり上げた。
「私は幸せだ。武士として、私は戦いの才能があるからな。弓でも刀でもそこらの武士には負ける気がしない。己の持つ才能を生かせることこそ、いちばんの幸せだろう。――考えてもみろ。女に戻って家の中を取り仕切り、刀を振るうこともできぬ人生を」
興奮した広郷が、ずいと芳昭に顔を近づけてくる。芳昭はいっそう身を引きながら、小声で答えた。
「それは、平和でいいことではないか……?」
「お前にはそうかもしれないが、私には苦痛なんだ。だいたい、女らしく生活するということは、父上の選んだ婿を取らされるということだ」
「気に入った相手を婿にしたいと言えばいいのではないか……?」
「違う、そうじゃない!」
広郷はとうとう立ち上がり、床を踏み鳴らした。こうなると、芳昭は呆然と広郷を見上げることしかできない。
「相手が好きか嫌いか、そんなことは問題じゃないんだ。この私を差し置いて、相手が新田家の総領を継ぐなんて許せない。私は正当な嫡子として新田家の当主になりたいんだ」
そのときだ。表が急ににぎやかになった。馬を見に行っていた三人の武士が戻ってきたようだった。結局、広郷と芳昭はそれ以上、その話題に触れることができないまま、次の村へ向けて出発するしかなかった。
次の村へはちょうど峠を通ることになる。広郷が言うにはその峠こそ、以前、鬼が目撃された場所なのだという。とはいえ、まさか本当に鬼が出るとは思えない。芳昭は内心、そうたかを括って峠道に挑んだ。
けれど。上りから次第に雨が降りはじめ、峠を上っていくにつれて酷くなっていく。雷も遠くで鳴りだしたようだ。いったん戻るか、どこかで雨宿りをした方がいいのではないか。広郷たちがそう相談していたときだった。
ガラガラッと激しい音が鳴り響く。雷が落ちたらしい。同時に、傍らの背の高い杉の木が炎上した。皆の乗る馬が粟を食って、浮き足立つ。武士たちは何とか馬を宥めようとしたが、芳昭はどうしていいか分からなかった。これまでに馬に乗ったことがあるとはいえ、それは貴族として生活していた頃のことだ。乗馬も苦手だったため、家人が轡を取った馬に乗ることがほとんどだった。
暴れ出した馬を止めることができない。立ち上がる馬の背にしがみつき、振り落とされないようにすることで精一杯だ。とうとう馬が勝手に走り出してしまった。
「うわああああ!」
みっともなく悲鳴を上げるが、為すすべがない。そのままどれくらい馬が進んだだろうか。背後から広郷の声が聞こえてきた。
「芳昭! ちゃんと手綱を取れ!」
「む、無理だ……!」
「仕方ないな。では、そのまま馬に掴まっていろ!」
馬に掴まったまま、どうすればいいのだ。芳昭は悲壮な気分で肩越しに振り返る。と、背後から馬に拍車を掛けながら、広郷がぐんぐん近づいてきた。そうして馬を並走させながら、広郷が身を起こす。
――まさか、飛び移る気か!?
そう気づいた芳昭は慌てて声を発した。
「やめろ! 落馬したら怪我をするぞ!」
「ふふん。馬を制することもできないのに、他人の心配をしている場合か」
広郷は鼻で笑いながら、手綱を使って慎重に馬を近づけて位置を調整した。そのまま馬の背で身を起こす。そうして、広郷は怯むことなく芳昭の馬へと飛び移った。
無事に広郷が成功したことに、芳昭は思わず脱力してしまう。
「よ、よせと言ったのに……」
「それでも私は成功しただろう?」
自信満々に笑って、広郷は芳昭の背後から手を伸ばして暴走する馬の手綱を取った。見事な手綱さばきで、馬を落ち着かせて立ち止まらせることに成功する。広郷の乗っていた馬も、きちんと並走を続けてすぐ傍で止った。
芳昭はほとんどくず折れるように、やっとの思いで馬から降りた。
「死ぬかと思った……」
「今、生きているのは私のおかげだな」
「それには感謝している……。――が、ここはどこだ?」
立ち上がって辺りを見回す。どうやら馬が暴走するうちに、かなり道を外れてしまったようだ。周囲は森で、木々が立ち並ぶばかり。
「仲間とはぐれてしまったようだ。ひとまず、峠道を探そう」広郷が促す。
芳昭は広郷とともに馬を引いて歩きだした。しかし、雨が降っている上に夜が近づいてきて次第に辺りが暗くなってくる。とてもではないが、帰り道を発見できるような状態ではない。
「このまま無闇に進んでも、いっそう迷うだけではないか?」芳昭は思わず言った。
「そうだな」広郷は素直に芳昭の言葉を認める。「だが、せめて洞窟でも見つけて雨を避けなければ。雨に体温を奪われて凍えてしまう。それに森の中では野犬に襲われる危険もあるからな……」
そこで広郷は言葉を切った。はっとしたように辺りを見回す。
「どうしたんだ?」芳昭は尋ねた。
「シッ。誰かがいる。こっちを見ているようだ」そう答えながら、広郷は腰に佩いた太刀に手を掛けた。顔を高く上げて、堂々たる態度で声を発する。「――私は新田広郷。郡司の弓削敦広の身内だ。この辺りの平和を保つため、定期的な見回りを行っている。だが、山中で馬が走り出して森に迷い込んでしまった。助けてはもらえないだろうか」
助けてほしいと請うて相手が山賊や妖――それこそ、鬼だったらどうするのだろう。芳昭は不安に思った。そのときだ。ガサガサと傍らの茂みが揺れて、傘と蓑をかぶった人が現れる。芳昭は縮みあがって、思わず悲鳴を上げそうになった。現れた人物は体格からして相手は男のようだが、傘に隠されてしまって顔はまったく分からない。
傘の男は芳昭と広郷に声を掛けてきた。
しかし、その言葉は聞いたことのない響きで、芳昭にはまったく意味が分からない。この地方の方言だとしても、これまで立ち寄ってきた村人たちの言葉遣いとはまったく異なっていた。
もしや、この人物が噂に聞く鬼なのだろうか。
そう不安に思ったときだ。懐で弘法が声を発した。
《これは懐かしい。都が今の場所に遷都される前の、ずっと昔の言葉ではないか》
「都が今の場所に移る前……?」
芳昭が思わず声に出すと、広郷がギョッとしたように振り返った。それもそうだろう。弘法の声が聞こえない広郷には、いきなり芳昭が独り言を言い出したようにしか見えないのだから。この場の唯一の仲間が突然、狂気に陥ったようにしか見えないに違いない。
そこで、素早く芳昭は広郷に説明した。
「委細は後で説明するが、あの傘の男が話している言葉はかなり昔のものらしい。都が今の場所に移される前の時代の言葉なのだとか」
「それは誰から教わった情報だ? それに、もし仮に昔の言葉であろうと私たちと同じくこの国の民ならば、彼が話しているのは我々と同じ言葉だろう。理解できないはずがない――」
そのときだった。傘の男がふたたび話しかけてくる。どう答えればいいのか迷っていると、弘法が懐から《相手は自分たちの村に泊めてやろうと言っている。はいと言って頷いておけ》と告げる。芳昭はとっさに弘法に言われた通りにした。
傘の男は身振りでついて来いと示して、歩き出す。芳昭は広郷を促して、馬を引いて歩きはじめた。
「これはいったいどういうことなんだ?」広郷が尋ねる。
そのとき、弘法が芳昭に自分を懐から取り出して、広郷に持たせろと言った。そこで、芳昭は言われたとおりにする。こんな山中で筆を差し出された広郷は困惑して、ためらっていたが、芳昭が「ぜひ」と勧めると渋々といった様子で手を伸ばした。
《――お初にお目にかかる、新田広郷。わしは弘法、筆の付喪神だ》
頭の中に突然、声が響いたのだろう。広郷はぎょっとしたようだった。それでも、さすがに胆力のある武士らしく、ぐっと堪えている。
《今はあれこれ説明している暇はない。こういう場合なのでな。――一度わしを手にして声を聞いたことで、そなたも芳昭と同じようにわしの声が聞こえるようになるだろう。もう、わしを芳昭に返してくれ》
広郷はもの言いたげな顔をしつつも、筆を芳昭に返した。それを受け取って、落とさぬように懐にしまう。その間も弘法はひとり悠々と話しつづけた。
その説明によると、言葉というものは常に同じではないのだという。
この国でもある時期まで大陸に使節を派遣して、文化や書物を持ち帰ったり、学者や技術者を招いたりしていた過去があった。今では国として使節を派遣してはいないが、交易は行われている。また、東にも文化や言葉の異なる蝦夷が住んでいる。これらの異なる文化の影響などを受けて、あるいは時間の経過によって、言葉は常に変化しているのだと。ゆえに、はるか昔に話されていた言葉は今のものとはかなり響きや語彙が異なり、異国の言葉のように聞こえるのだ、という。
「もし、傘の男が話しているのが昔の言葉だとしたら……彼はいったい、何者なんだ……?」広郷が呟いた。
そのうち、目の前の森が開けた。小さな広場に、藁で作った質素な小屋のようなものが五軒ほど集まっている。男は二人に待つように言って、小屋のうちの一軒に入っていった。
「この村はいったい何なのだろう……?」
芳昭が呟くと、広郷は「分からない」と首を横に振った。
「この辺りも叔父上の治める郷の一部のはずだ。私は郷の村々を見回ったことがあるが、ここは知らない」
「見たところ、この村の周囲には田もないようだ」芳昭は官吏になるための知識を思い出しながら言った。「律令の定めるところにより、民は五歳になるとお上より田を賜り、その収穫の一部を租税として納めることになる。田がない村はないはずだが……」
はるか昔に定められた律令は、現在の時代には適合しなくなりつつある。たとえば、官吏の役職についても律令に定められているのだが、その定めの役職は形骸化しつつあるものも少なくなかった。他方では、時代の求めに応じて治安維持を担当する検非違使などが新設されて、活躍している。
とはいえ、この国は今の時代にはもはや適さない律令に依然として支配されているのだった。
「田のない村、古い言葉……。ここは私たちの普段、暮らしている世界とは、隔絶されているようだな」
広郷がそう言ったときだった。笠の男が小屋から現れて、手招きをした。
招きに応じても安全だろうか。芳昭は一瞬、広郷の方を見る。その視線に気づいた広郷は、肩をすくめて「行くしかないだろう」と小声で言った。芳昭はその言葉に頷き、広郷と歩調を合わせて小屋へと向かう。
中に入ると、意外にもそこには暖かで居心地のよさそうな空間が広がっていた。家の中央に炉が作られていて、その傍に老人と笠の男、それに赤ん坊を抱いた女が座っている。
芳昭たちに向かって、老人が何かを言った。が、その言葉が分からない。さて、どう答えるべきか。芳昭は広郷と顔を見合わせた。そのときだ。炉端の女が口を開いた。
「――長は、『雨に降られてお困りでしょう、ゆっくりしていってください』と言っています」
「あなたは、私たちと同じ話し方をするのですね」広郷が女に言う。
「私はちがやと申します。以前、麓の村に住んでいましたが、税の重さに耐えかねて村から逃げ、許しを得てここに住むようになりました。ここで夫と子を持ち、すっかり隠れ里の人間のようになっていますけれど」
ちがやの言ったことは、おそらく真実なのだろうと芳昭は思った。律令に定められた税は重く、不作の年が続くと人々は納税に苦労することになる。彼女の言うように税が払いきれず、土地を捨てて逃げる民が出ることもあった。この隠れ里が少人数ながらも長い間、存続しているのは、ちがやのような人間をときどき受け入れているためだろう。
「あなた方はなぜ、我々に親切にしてくださるんです? この隠れ里の存在が外部に漏れては困るでしょうに」広郷は尋ねた。
ちがやはその言葉を聞いて、長の方へ顔を向ける。老人に早口で何かを告げると、長は重々しく頷いた。その返事を受けて、ちがやはもう一度、芳昭たちの方を見る。
「先日、夫はあなた方が山賊から女子どもを守るのを目撃しました。誠実な方々だと思っています。それで、あなた方に折り入ってお願いがあるのです」
「何でしょうか?」広郷が続きを促す。
「ここは昔、安全だったそうですが、今は山賊が出るようになり、生活を脅かされています。そのため、この地を離れて北へ向かいたいと思っているのです。そこで、あなた方の馬を譲ってはいただけないでしょうか?」
「それより、どこかの里で暮らされてはどうですか? 私なら、あなた方を近くの里に紹介することができる」広郷が提案した。
ちがやは長と夫に向き直り、広郷の言葉を伝えたようだった。短い話し合いの後に、彼女は広郷に向かって首を横に振ってみせた。
「長が言うには、この村の人々は、都が奈良にあった時代に政変に破れて、都を追われた大臣の一族なのだそうです。その政変の真相は、今でも公表されれば世間を動揺させる力があると……だから、表に出るわけにはいかないそうです」
これは難しいことになった。芳昭は内心うなった。
馬を譲ってほしいと言われても、簡単にできることではない。よい馬は高価だ。また金銭的な問題以上に、よく訓練された馬ほど戦には有利になるという強みが馬にはある。ここでよく馴らされた馬が二頭いなくなるのは、後々、困ったことになるだろう。
芳昭は広郷の様子をうかがった。広郷はどうすればいいか判断に迷っている様子だ。
「無理を言っているのは承知です」ちがやはきっぱりと言った。その腕の中で赤ん坊がぐずり始める。彼女は赤ん坊をあやしながら、言葉を続けた。「長がどうぞ今夜はここでお休みください、と言っています。交渉がどうなるにせよ、こんな夜に山を歩かせるわけにはいきません」
二人はちがやたちの勧めに応じることにした。炉を囲んで眠ろうというとき、ふと見ると長が炉端で書き物をしていた。
こんな山奥の隠れ里の人間が読み書きをできるとは。芳昭は意外に思って、長に近づいた。長は芳昭を一瞥したが、特に咎めるつもりはないようだ。長の手元を見ていると、彼が書いているのは日記のようだった。流暢な漢文が並んでいる。彼らが都を追われた官人の末裔だというのは、事実なのかもしれない――そう思った。
長が芳昭に向かって、口を開く。その言葉は相変わらず分からない。
《お前はこの文章が読めるのか、と言っているぞ》弘法が懐からそう告げた。
そこで、芳昭は懐から弘法を取り出した。長の傍らに置かれていた木簡を手にして、弘法で文字を書き付ける。読める、と書くと長は満足げに頷いて、傍らの葛籠から古びた書物を取り出した。紙が古びてぼろぼろになったその書物は、どうやら日記のようだ。しかも、頁をめくってみると、かなり古い日付が出てくる。それこそ、都を移ったと思われる以前の日付のようだ。
これは、かなり歴史的記録として価値のあるものではないか。
《お前にやると言っている。馬をもらえようと、もらえまいと、自分たちにはもはやここに生きる場所はない。北へ行かなくてはならない、と。だから、お前に持っていてほしいそうだ》
長の言葉に芳昭は困惑した。このような記録を託されたところで、ただの絵師にすぎない芳昭には活用することもできない。固辞しようにも、言葉が通じない。
結局、長の申し出を辞退することのできないまま、芳昭は日記を受け取った。それを大事に荷物の奥にしまう。長は満足そうにその様子を見ていた。
就寝時間になり、芳昭は長の一家や広郷とともに炉端に横になった。広郷の見回りに付き合うために郷司の家を後にしたときには、予想もしなかった事態だ。この後のことに不安はあるものの、身体が疲れているためにすぐに眠りに落ちていく。
それからどれほど経っただろう。肩を揺さぶられて、芳昭ははっと目を覚ました。瞼を上げれば、室内はまだ闇に沈んでいる。長の一家も寝息を立てて眠っているようだった。
「いったいどうしたんだ……?」
「目が覚めて、空気を吸いに外へ出たら見張りの里人から警告を受けた」芳昭のすぐ傍で広郷が言った。広郷はすでに上体を起こして、腰の辺りの太刀の柄に手を掛けている。
「警告……?」
「山賊がこの里の周囲にいるそうだ。襲撃を企てているかもしれない。――長たちを起こせ。逃げるぞ!」
広郷に言われるままに、芳昭は長とその息子、それにちがやを起こした。三人を急かして、森へ逃げ込む支度をする。準備が整ったところで、広郷は夜の闇に紛れるようにして見張りの里人たちの元へ出て行った。しばらく待っていると、ほどなくして忍び足で広郷が戻ってくる。
「よし、長の一家は森へ。他の家族もそれぞれ、夜陰に乗じて森へ逃げ込む様子だ」
「こんなに急に家を失って……私たちはどうなるんでしょう」
赤子を抱いたちがやは不安そうに言った。彼女の夫がその肩を抱く。長がちがやに何かを告げる。
《――さすがに、政変を逃れてきた者の末裔だな。生きていれば何とかなると、言っている》
闇の中で弘法の言葉を聞きながら、芳昭は果たしてそうだろうかと疑問に思った。下級貴族の家に生まれた芳昭は、これまで帰るべき家がないという経験をしたことがない。かつては父親の家、絵師となってからは師匠の家――たとえ旅に出たとしても、いざというときに帰ることのできる場所は常に存在していた。その家を完全に失うこの里の人々の不安と恐怖は、いったいどれほどのものだろう。想像するだけで、あまりの不安に息苦しくなってくる。
そのとき、広郷が芳昭に言った。
「私は他の男衆と一緒に山賊を迎え撃つ。芳昭は長とちがやたちを逃がしてくれ。馬も二頭とも里人たちに渡す」
「いいのか? 叔父上の馬だろうに」
「構わない。人の生命の方が大事だ。馬は野盗に盗られたと言えば誤魔化せるしな」
広郷はそう言って、鼓舞するように芳昭の背を軽く叩いた。真っ暗な中で見えないが、微笑んでいるような声音だった。芳昭もそれに応じるように広郷の肩を叩く。「じゃあな」と短く言って、広郷は家の外へ走り出ていった。
その直後、男たちの鬨の声のようなものが上がる。攻め込まれる側の里人ではなく、野盗側が威嚇のために叫んだのだろう。震えあがるちがやに、芳昭は素早く言った。
「広郷が時間稼ぎをします。今のうちに、皆で森へ逃げましょう。馬もあなた方に差し上げます。荷物なり、足の遅い人なりを運ぶのに使ってください」
とはいえ、荷物をまとめる時間はほとんどない。ちがやが長たちに芳昭の言葉を伝える。一家はすぐに外へ出た。ちがやの夫が里の他の家に逃げろと知らせる間に、芳昭は長と赤子を抱いたちがやを一頭の馬に乗せた。さらに他の家から出てきた妊婦をもう一頭に乗せたところで、辺りが騒がしくなった。野盗たちが攻め込んできたのだ。
芳昭は馬の手綱を取り、徒歩の里人たちを連れて森の中へ逃げ込んだ。里に残った広郷や警備の里人たちの奮闘の甲斐あって、野盗たちは先に逃げ出した芳昭たちを追いかける余裕はないようだ。芳昭は里人たちをいったん安全と思われるほど離れた場所に連れて行った。彼らにそこで夜明けを待つように言って、引き返そうとする。
と、長が芳昭を引き留めて、何かを差しだした。油紙に包まれたそれは、団らんのときに長が書いていた日記のようだった。逃げるときに持ちだしてきたらしい。この時代の日記は、後世の日記のような個人的な覚書きとは意味合いが異なる。家の年中行事などを記録した重要な文書として、代々引き継がれていくものだ。それを他人に渡してしまうのは、ありえないことだった。
「長が、あなたに持っていてほしいと言っています。我々は新しい土地で新たに出直すことになる。だから、あなたに過去を託しておきたい、と」
芳昭は長の方を見る。老人は何かを覚悟したような目をしていた。
「分りました。持ち帰り、誰にも見られないように保管します」
そう言って、芳昭は日記を受け取った。それから、長たちに別れを告げて里へと引き返す。森を進むにつれて、戦いの音が聞こえはじめた。さらに木々の合間からちろちろと炎が立ちあがっているのが見える。今夜は雨模様だから延焼することはないだろうが――。
芳昭は眉をひそめて歩調を速めた。
里へ戻ると、そこでは広郷が野盗を相手に戦っていた。地面には野盗や逃げる前に殺された里人が倒れている。芳昭は戻ったときには、広郷が野盗の最後のひとりを斬ったところだった。返り血を浴びた広郷は、殺気に満ちたひどい顔をしていた。生命の危機に直面して、まるで広郷自身が鬼になったかのよう。
「広郷! 大丈夫か!?」
芳昭が声を掛けると、広郷はその声に反応して振り返った。途端、息が詰まるような殺気がこちらにまで叩きつけられる。芳昭は広郷に近づいていった。
「俺だ。芳昭だ。もう野盗はいない。お前が退治した。里人たちも逃げおおせたぞ。だから……もう太刀をしまえ」
それでも広郷は太刀を握りしめたまま、動かない。芳昭は広郷の前に立ち、ゆっくりと太刀を握る手に触れた。ひざまずいて、柄を握ったまま強張ったその指を一本、一本外してやる。どさりと太刀が地面に落ちると、広郷も緊張の糸が切れたようにくずおれて芳昭の方へ倒れこんできた。芳昭は慌ててその身体を抱き止める。
と、広郷のわき腹に触れた手がぬるりとしたぬめりを感じた。返り血を浴びるような場所ではないし、返り血だとしても量が多すぎる。
「まさか、怪我をしたのか!?」
芳昭は叫んだが、広郷は答えなかった。ぐったりと腕の中で弛緩したその身体は、異様に熱い。発熱しているようだ。芳昭はぎょっとした。まだ無事な里人の家から使えそうなものを持ちだしてくる。広郷の衣を脱がせると、先日、本人が打ち明けたとおりその身体には女の特徴があった。だが、そんなことに構っている暇はない。手早く傷口を洗い、清潔な布をきつく巻いて血留めを施した。
「早くこの地を去らなくてはならないが、馬がいない……。馬さえいれば、早く広郷を麓に連れていけるのに」
芳昭が呟いたそのときだ。弘法が懐から声を上げた。
《芳昭よ、わしを使って紙に馬を描くがよい》
「馬? こんなときに絵なんか描いていられるか。大人しくしてろよ」
《そうではない。お前が絵を描けば、わしの妖力でそれを具現化してやろう。ほれ、ちょうど陰陽師の使う式のようなものだ》
「そんなことできるのか? 今までお前がそんな力を使ったところ、見たことがない」
《お前が絵師として力を付けたが故に、わしの持つ妖力を最大限に引きだせるようになったのじゃ。ほれ、早くしろ》
芳昭は迷いながらも懐から弘法を取りだした。そうして手早く墨を用意して、懐紙に一頭の馬を描く。
次の瞬間、いななきとともに明らかに墨絵と分かる馬が紙から抜けだしてそこに佇んでいた。