表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

わがままな筆

1.


 芳昭が発見した付喪神が宿る筆・弘法は、思いの外、わがままだった。うっかり筆を持ち帰ってしまったのを反省して寺に返却しようとしたところ、嫌だと言い出したのだ。

《わしは、数多の字を書いてきた。もはや字を書くのは飽きたのじゃ。寺に戻れば、どうせ写経に使われることになる。それではつまらん》

 筆を持ち帰ってしまったことが家人にばれないように、芳昭は弘法を懐に入れて持ち歩いている。一日、二日と始終、駄々っ子のような弘法の言い分を聞いていると人外の存在への恐怖は薄らいできた。

「筆が字を書きたくないなんて、おかしいよ。お前はいったいどうしたいんだ」

 呆れて尋ねると、弘法は待っていましたとばかりに答えた。

《字を書く以外のことに使ってほしいのだ》

「筆を、字を書く以外のことに使うって……どうやって?」

《そうだなぁ……。以前、わしを手にした稚児(ちご)が、写経用の紙に悪戯書きで絵を描いたことがある。どうということもない鳥の絵だったが……あれは楽しかったなぁ》

 弘法の声に懐かしそうな響きが宿る。それを聞きながら、芳昭は自分の境遇を振り返ってみた。学問は苦手だが、それでも双六をしたり、鬼ごっこをして走り回ったりすることが許されている。ところが、弘法はそうではない。生まれてから長い間、ずっと字を書かされてきたのだ。違うことがしたいという気持ちも、理解できなくもない。

 それでも。

「とにかく、俺はお前をお寺に返しに行くからな」

《ひどいぞ、童! お前は血も涙もない鬼だ!》

「そういうお前は妖じゃないか」

 芳昭が言い返すと、手の中の筆の毛が逆立った。まるで猫が起こったときのような有様だ。

《もう怒ったぞ。わしはこれでも付喪神なのだ。どうしてもわしを寺へ返すというなら、お前に呪いを掛けてやる!》

 ――呪い?

 一瞬、芳昭は不安になった。けれど、手の中にある弘法はどう見てもただの筆だ。どう頑張ったところで芳昭に危害を加えることはできそうにない。そうたかを括って芳昭は鼻で笑ってみせた。

「呪いでも何でも、好きにするがいいさ。俺は盗人になるなんて嫌なんだ。さっさと寺へ返してしまおう」

《いや、何としてもそうはさせん。――いいか、お前はわしを使って絵を描くのだ。万が一、寺に返したりしたら、お前はひと月以内に死ぬ。絵を描かなくても死ぬ。これがわしの呪いだ》

 頭の中に弘法の言葉が響きわたる。ぐらぐらと頭が揺れるような感覚。同時に胸の辺りがぽっと熱くなる。まるで弘法の言葉の一つ一つが魂に刻まれていくよう。

 ――これが、呪いを受けるということなのか……?

 まさか。ただの思いこみだろう。芳昭はそう考えたものの、弘法の呪いを笑いとばすことはできなかった。もしも呪いが本当だったとしたら、弘法を寺に返却したり、絵を描いたりしなければ死んでしまう。生命がけで呪いが真実かどうか試そうとは、芳昭は思わなかった。

「卑怯だぞ、呪いを掛けるなんて」

 芳昭は抗議した。が、弘法はどこ吹く風だ。

《わしは(あやかし)だ。卑怯と言われようが痛くもかゆくもないぞ、ははは》

 どうにも自分は不利な立場らしい。そう気づいた芳昭は、不承不承、呪いを受け入れることにした。

「――で、俺は呪いを成就させないためには、どうしたらいいんだよ? お前は俺に何を望んでる?」

《話が早くてよろしい。わしの願いはひとつだけだ。わしで絵を描いてほしい。たくさん、たくさん、描いてほしい。わしが満足すれば、そなたの呪いを解いてやろう》

「そんなことは無理だ! 俺は今まで落書きくらいしかしたことがない。どうせならもっと絵が上手い奴を呪えよ!」

《それこそ無理じゃ。わしは付喪神だが、最近は使われることが少なく、力が弱っているのだ。そなたを逃したら、わしは力が減って消滅するやもしれぬ》

「ん? 力が弱いなら、もしかしてお前の呪いっていうのも実はたいしたことがないんじゃないか?」

《そう思いたいなら思ってもよいぞ。しかし、わしの声を聞けるということは、そなたは他の人間よりも妖の力に対して敏感だということだ。他の人間には効かない呪いであったとしても、そなたには死んでしまうかもしれんの。試してみるか?》

 弘法がせせら笑う。芳昭はむっとして唇を引き結んだ。

 芳昭は陰陽師ではないから、妖や不思議のことはよく分らない。弘法の言うことが本当なのかどうか、判断することはできそうになかった。確認してみようにも、答えが分かったときには死んでいる……ということになりかねない。

「分かった。分かったよ」不本意ながら芳昭は折れることにした。「たくさん絵を描けばいいんだろう? 描いてやるよ。ただし、下手くそな落書きでも許せよ」

 その日から芳昭は毎日、絵を描いた。学問の傍らに落書きしたような下手くそな絵だったが、絵を描けるということ自体が弘法には嬉しいようだった。最初の一日、二日は頭の中に思い浮かべた武者や馬などを描いていたのだが、ただ絵を描くというのはなかなか難しいものだ。すぐに描きたいものがなくなって、何を描こうかと考えこむことが多くなった。

 そこで、芳昭は物語の登場人物や場面を描くことにした。ちょうど母が『源氏物語』の絵巻物を持っていたため、それを借りることにする。芳昭が絵巻物を貸してほしいと頼むと、珍しいことと母は目を丸くした。

「そなたもようやく、教養を養うことに目覚めたのですね。存分にお勉強なさいな」

 絵巻物を前にして、弘法はひどく嬉しそうだった。

《おお、素晴らしいな! 見よ、この生き生きとした人々の姿を。まるで生きているようではないか! 芳昭もこのような絵を描くのだ! さぁ!》

「俺は絵が下手だって言っただろう。無理を言うなよ。ちゃんと約束どおり、毎日、絵を描いているんだ。絵が下手だからって呪い殺すのはやめてくれよな。人間には、できることとできないことがあるんだから」

《もちろんじゃ。呪い殺しはせんが、もうちっと多く絵を描いてくれんか? そなたも下手は下手なりに、最初の頃よりは上達してきておる気がするのだ》

「そうかなぁ……?」

 芳昭は首を傾げた。毎日、一枚は落書きのような絵を描いているが、その自覚はない。確認するために芳昭は部屋の文箱に溜めてある日々の絵を見返してみた。最初に描いたのは貴族の男だった。初めて弘法で描いた線は不格好に震えており、身体の輪郭や背格好がどことなくおかしい。翌日に描いた貴族の姫は顕子のつもりだったが、やはり似ても似つかない不細工な姿形になってしまった。

 男女、鳥、馬、花……呪いを受けて仕方なく描いた絵は、しかし、弘法の言うとおり少しずつそれらしく見えるようになってきている気がする。それとも、弘法も芳昭自身も、下手な絵に目が慣れすぎただけだろうか。よく分らない。しかし、もしもさらに絵が上達するのならば、いずれ顕子に見せられるような絵が描けるようになるのではないだろうか。

 物語は顕子も好きだと言っていた。このところ、弘法との約束や学問で忙しく、あまりに遊びに行っていない。大人たちの方も何やらいろいろあるようで、父は芳昭を藤原邸へ誘うことが減った。顕子は時折、文を送ってくる。今は姫として礼儀作法の教育を受けているところだそうで、文の書き方もかなり淑やかになっていた。あの元気な顕子らしくないと思えるほどだ。

 そのことを、芳昭は少しだけ気がかりに思っていた。もしかして、自分と同じように顕子も礼儀作法が苦手と思っていないだろうか。だとしたら、日々、さぞ苦しい思いをしていることだろう。

 ――物語の絵を練習しよう。上手く描けるようになったら、顕子様に贈ろう。

 そうすれば、きっと顕子は喜ぶだろう。そう思って、芳昭は絵巻物の一場面の絵を写しはじめた。ちょうど母から借りたのは『源氏物語』の若紫の巻。重要な登場人物の一人である紫の上の幼少期を描いた部分だ。絵巻物の中では、まだ幼い姫が庭で遊ぶ様が生き生きと描かれている。

 芳昭はその場面を紙に写すことにする。最初に見たそのままの全体を描いてみようとしたが、これがなかなか困難だった。翌日からは、部分ごとに絵を練習してから描く方がいいかもしれないと気づいて、一部分ずつ描きはじめる。若紫の顔、衣装、身体つき、庭の様子など――。弘法は芳昭の絵を下手だ下手だと言いながらも、以前よりも熱心に描きはじめた芳昭を歓迎しているようだった。

《相変わらず、そなたは下手じゃの。若紫の面差し、これでは美人とは言えぬぞ》

「うるさい。放っておいてくれよ」

《まぁ、そう怒るな。そうは言っても他の部分はずいぶん上達した。それ、庭の木々はなかなか上手く描けているではないか。それ、その葉っぱなど》

「葉っぱ……? そうかな……?」

 芳昭は首を傾げた。言われてみれば、最初に絵巻物を写そうとしたときよりは上達しているような気もする。あくまでほんの一部分だが。それでも、芳昭は弘法の賛辞を信じようとは思えなかった。これまで、学問や和歌など何事も不出来で苦しんできた自分だ。同年代の少年たちにも、親にもさんざん不出来だ不器用だと言われてきた。絵画だけが順調に上達するとは考えにくい。

《芳昭よ、こういうときは素直に喜ぶものだぞ。その方がきっと上達も早くなる》

「だって、弘法が上手いと言ってくれても、他の人間はそうじゃないかもしれないだろ。この世でたったひとりだけに上手いと認められたって、絵が上手いことにはならない。だって、多くの人はそう思わないんだから」

《絵の巧拙の評価が多数決だと言いたいのか? わしの目だけでは信用ならないと?》

「いや、そういうわけじゃないけど……」

 だったら何なのか。言葉にすることができず、芳昭は口をつぐんだ。言われてみれば、誉め言葉が素直に受け取れないというのは妙な話かもしれない。今まで、芳昭は学問も何もかもだめだったので、そもそも褒められる機会というものがなかった。絵を描きつづければ、もっと褒められることが増えれば、称賛を受け入れられるようになるのだろうか。

 ――もっと絵を描いていきたい。

 ――上達したいし、顕子に絵を贈りたい。誉められたい。

 そう思ったのは、芳昭にとってほとんど生まれて初めてのことだった。芳昭は決意も新たに文机に向い、その日はいつもより多く絵を描いた。


2.


 毎日、絵を描くうちに芳昭は自分でも上達したのではないかと思える絵が描けるようになってきた。とはいえ、やはり物語の一場面を描くというのはなかなかの困難だ。描いてみては気に入らず、没にするということの繰り返し。そうする間にも、折りに触れて顕子からは文が送られてきていた。

 ところが、秋のある日に送られてきた文からは、顕子が消沈している様子が伝わってきた。礼儀作法を守らねばならない生活に嫌気が差しているらしい。満足に外で遊ぶこともできない、と嘆く文に芳昭は顕子のことを気の毒に思った。

 どうにか顕子を励ましてやりたい。そう思って、父に一緒に藤原邸へ行きたいと頼んでみる。しかし、意外にも父は首を横に振った。

「このところ、右大臣様と私は大事な話をしているのだ。お前を連れていくわけにはいかないんだよ」

「邪魔をしたりはしないよ。顕子様と遊ぶだけだ」

「芳昭、お前はもうじき元服だ。顕子様も間もなく裳着を行われることになるだろう。二人とも、もうほとんど大人なのだ。そうなれば、今までのように気軽に会うわけにはいかない」

 確かに父の言うとおりだ。身分の高い女性は他人に顔を見せないのがよいとされている。そのため、貴族の恋愛は相手の噂を聞いて文を送るとか、垣根の間から姿をかいま見るとかいったきっかけから始まることが多いくらいだ。なるほど、右大臣の姫がはしたないと侮られては困るのだろう。

 そう納得しつつも、芳昭は父の言葉に不服を覚えた。

 確かに成人間近の自分と顕子が会うのは、誉められたことはないのかもしれない。けれど、昔、顕子に元気がないので心配して芳昭と遊ぶことを歓迎したのは、大人たちの方ではないか。なぜ、今は会うなと言うのだろう。

 そうは言っても、父にだめだと言われたのに、勝手に会いにいくわけにもいかない。もどかしい気持ちで、芳昭は父の前から去った。顕子を励ますために、できることはないだろうか。紙に絵を描けば文として送ることができるだろう。けれど、とてもではないが、まだ絵巻物を満足に写すことはできない。

 どうするか。考えた末に、芳昭は取り急ぎ身近なものを描いて送ることにした。

 ちょうど昨日、絵を描いていたところ、学問をしていると勘違いした母から唐果物(菓子)をもらっている。顕子も好きなその菓子を描いて贈ることにした。絵の中の菓子は食べられないが、顕子なら「食べられない菓子を描いたのね」ときっと笑ってくれるだろう。

 芳昭は文机に向い、目の前に菓子を置いてから弘法を取りだした。

《なんだ? 今日の分の絵は終わったと思っていたが、まだ描いてくれるのか?》

「そうだ。この唐果物(からくだもの)を描いて、顕子様に贈るんだ。嫌でも付き合ってもらうからな」

《ははは。嫌なことがあるものか。たくさん絵を描いてもらえるなら、わしは万々歳じゃ。力強い線、繊細な線、さまざまな線を楽しませてくれ》弘法はひどく上機嫌に答える。

 そこで、芳昭は何枚も絵を描いた。唐果物は単純な形をしており、簡単そうに思える。けれど、思ったように線を引くことがなかなか難しい。絵巻物を写していたときは似せることに必死で意識しなかったが、線を描くということ自体がなかなか大変な仕事なのだと思った。

 意地のように芳昭は描いては没にする行為を繰り返す。弘法は嫌な態度を見せることなく、いっそ楽しそうに芳昭に付き合ってくれた。そうして、ようやく少しいびつながらも菓子の絵が完成した。芳昭はそれに元気を出すようにと文を添える。すべてが完成する頃には、夕暮れ時になっていた。長い間、集中して絵を描いていたため、疲れがどっと襲ってくる。

《そなたがあそこまで飽きずに物事に取り組むのを、初めて見た気がするの。よく頑張った》弘法が言った。

 その言葉に、芳昭は無性に嬉しくなる。前に弘法に誉められたときは素直に信じることができなかったというのに。不思議なものだ。

 自分でも絵の出来栄えに満足しながら、芳昭は翌朝、従者に手紙を藤原邸に届けてくれるようにと託した。

 それから三日後のことだ。大学寮から戻ってみると、邸の雰囲気がいつもと違う。不思議に思っていると、母が芳昭の元へ来て言った。

「藤原の姫様がおいでです。お前に会いたいとおっしゃって……」

「顕子様が、うちに? どうして……。呼んでくれたら、俺が行くのに」

 芳昭が呟くのを聞いて、母はなぜか複雑そうな表情をした。

「顕子様にも事情がおありなのでしょう。……さぁ、お通ししてありますからご挨拶なさい」

 言われるままに、芳昭は顕子の待つ部屋に向った。薄紅の衣をまとった顕子は、季節を二つほどまたいだだけだというのに、以前よりずっと大人びて淑やかな雰囲気をまとっていた。芳昭のような下級貴族が学問のために大学寮に通うのと違って、位の高い貴族の家柄の子どもは学習のために家庭教師がつく。顕子はよほど厳しい家庭教師に教わっているのだろうか、と芳昭は心配になった。

「お久しぶりです」芳昭はためらいがちに挨拶する。

 顕子は手元に広げていた絵巻物を脇へやった。ちらりと見えた絵巻物は『源氏物語』の玉蔓の巻のようだ。おそらく、母がここで芳昭を待つ顕子の無聊を慰めるために用意したのだろう。

「今日はどうしてうちにいらしたんですか?」

「絵のお礼を言おうと思って」顕子は懐から折りたたまれた文を取りだす。広げられたそれは芳昭が送った絵だった。「唐果物の絵、上手ね。これを見てお腹が空いてしまったわ。食べられないのにお菓子を絵に描くというのは、あなたらしいわね」

「お菓子を用意いたしましょう」

「いえ、いいの。長居はできないから。家の者には内緒で、こっそり牛車を出してもらったの。早く帰らないと」

「こっそり!? お父上に叱られますよ」

「ええ、そうね。それでも、あたしはあなたに会いたかったの」顕子は目を伏せてしばらく黙っていた。が、やがて意を決したように顔を上げる。「あたしね、裳着が済んだら東宮様の妃になることになったの」

「東宮様のお妃……」

 芳昭は呆然と呟いた。なぜだか怒りたいような、泣きたいような衝動を必死に抑え込む。

 顕子に恋をしていたわけではない。右大臣家の姫と自分のような下級貴族が結ばれることはないというのは、子どもながらに承知している。どちらかといえば、親しい友人が急にいなくなるということへの喪失感だろうか。それでも、悲しさとも悔しさともつかない、よく分らない感情が大水の後の川のようにごうごうと渦を巻いていた。

 入内すれば、顕子は制約のある生活を送らねばならない。皇后というのは女性の望みうる幸せの中でも最上だと言われているが、顕子に限って言えば窮屈な暮らしは苦しいだろう。顕子もそのことを予感しているため、このように沈んだ態度なのかもしれなかった。

「……信じられないでしょう? あたしみたいなお転婆が東宮妃だなんて。お父様に初めて言われたとき、あたし、驚いてしまったわ」

 二人の間の暗い空気を振り払うように、顕子が明るく言う。芳昭も調子を合わせるべきなのだろう。けれど、実際にはそんなことはできそうになかった。


3.


 顕子の入内話を聞いてからというもの、芳昭はもともと苦手だった学問だけでなく、絵を描く意欲をも失ってしまった。これまで芳昭が絵を描いてきたのは自分のためだった。弘法に呪われているから死にたくない一心で日々、絵の稽古をしてきたのだ。顕子に絵を見せるというのは、絵を描く意欲を保つための方法でしかない。

 そもそも顕子に恋をしていたわけではないのだ。彼女の入内話には祝福こそすれ、落胆するのは奇妙なことだ。頭ではそうと分かっているのに、どうしても心の方が沈んでしまっている。芳昭は大学寮と家を往復して、最低限の学問を行うだけの生活を送った。両親はそんな芳昭を心配しているようではあったが、何も口出しはしない。弘法だけが毎日、絵を描け、約束だと騒ぎ立てた。

《最初からの約束ではないか。絵を描け、芳昭》

 そう迫る付喪神の言うことを、芳昭はろくに聞かなかった。そもそも、弘法は絵を描かなければ芳昭を呪い殺すと宣言したが、いまだに実行していない。もしかすると、力が弱くて芳昭が死ぬほどの呪いを掛けることは不可能なのかもしれなかった。だとしたら、いっそ弘法を返してしまってもいいのかもしれない。そうすれば絵を描かなくても済む。毎日、あれこれうるさく口出しする存在もいなくなる。一石二鳥ではないか。

 しかし、弘法を返すといっても、牛車を出せば家族に知られてしまう。お寺から筆を持ちだしたことが知られれば、信心の篤い父母は激怒するだろう。こっそりと実行するしかない。

 そう思っていた矢先、いつもは芳昭を送り迎えしている従者が、父の狩りの伴をすることになった。大学寮の行き帰りは、芳昭ひとりになる。これは好機だと思いいたった芳昭は、真っ直ぐ邸には帰らずに都の郊外のお寺へ向かおうとした。

 懐に入れてあった弘法は、途中でいつもと方角が違うと気づいたようだった。鴨川の傍まで来たときに、とうとう騒ぎはじめる。

《芳昭、どこへ行くつもりじゃ? そんな方角に邸はないだろう》

 芳昭は弘法の声を無視して、さらに先へ進もうとした。そのときだ。橋の袂に立っている粗末な身形の壮年の男が声を掛けてきた。

「お前さん、どこへ行くつもりだい?」

「お寺だよ」振り返った芳昭はそう答えた。「ちょっと返しに行くものがあって。……おじさんは誰なんだ?」

「私は加々美晴延かがみはるのぶ。星見や人相見をして生計を立てている」

「星見……陰陽博士ということか?」

「昔は陰陽寮にいたこともあるが、今は違う。まぁ、占い師のようなものと思ってくれればいい」

「どうして陰陽寮を辞めたんだ?」

 ――こうやって市井で占い師をするよりは、地位と名誉のある立場だったろうに。

 後半は口に出さなかったものの、加々美は芳昭の言葉に含まれる意味をくみ取ったようだった。市井で過ごしているためか日に焼けた顔に、にっこりと笑みを浮かべる。

「興味が持てなかったのだ。地位や豊かさよりも、こうして市中で行き交う人々を見ている方がよほど面白い」

「じゃあ、外法師(げほうし)というわけだな」

「そんなものよ。それにしても、お前さんの顔を見るに、数奇な運命を背負っておる」

 加々美の言葉に芳昭はぎょっとした。まさか、自分が占いの対象になるとは思っていなかったのだ。

「止めてくれよ。占ってもらっても対価がない」

「金は要らぬ。こう見えて私は薬草を売ったり、医師の真似事をしたり、さまざまなことで稼いでいるのでな。人相見はただの楽しみに過ぎぬ」

「そうだとしても、見てもらいたくない。自分の未来を知りたいとは、俺は思わないんだ」

 芳昭は加々美に背を向けて、その場から歩き去ろうと足を踏み出した。そのときだ。「待て」と加々美が鋭い声を投げかけてきた。

「寺に行かぬ方がよい。寺に行けば、お前さんの命数は尽きることになる。このまま邸に帰れ。そうすれば半年ほど命数は延びるだろう」

「半年……? 真直ぐ邸に帰っても、俺は半年で死ぬってこと?」

「待て、待て。そう早まるな。お前さんは見たところ貴族の生まれのようだが……官人としては生きてゆけぬだろう。お前さんは家にいてはならぬ。家を捨ててこそ、本当に生きる道が見つかるだろう。そういう相が出ておる」

「本当に生きる道? どういうことだよ?」

 そう尋ねたときだ。急に強い風が吹いてきて、砂埃が舞い上がる。砂粒が目に入った痛みで、芳昭は思わず目を閉じた。どれくらいそうしていただろう。目が痛まないように、おそるおそる瞼を上げると目の前にいたはずの男はいなくなっていた。

 ――さっきの占い師、まさか人外の者だったんじゃ……?

 にわかに恐怖を覚えて、もはや寺へ向かうどころではない。芳昭は一目散に邸へ向かって駆けだした。通りを抜けて五条にある自宅へ駆けもどる。

 その夜は、なかなか寝付くことができなかった。あの外法師の言葉を信じるわけではないが、このままの気持ちで官人になれるとは思えなかった。というのも、官人になれば顕子の夫となる東宮が即位したとき、彼に頭を垂れなくてはならないからだ。食べていくために、それを我慢しなくてはならないとしたら――そんな人生は嫌だと思った。

 ――だとしたら、俺は何を選んで生きればいい? 何一つ器用にこなせないとして、それでも選ぶのなら何を選ぶ?

 そう思ったとき、思い浮かんだのは芳昭の絵を喜んでくれた顕子の笑顔だった。勉強でも、武術でも、誰に喜ばれたこともない。それでも絵だけはたった一人でも喜ばせることができたのだ。

 芳昭は寝床から起き上がって、文机から弘法と硯、それに紙を取りだした。

《うん……? こんな真夜中にどうしたのじゃ?》

 弘法が寝ぼけたような声を発する。芳昭はそれを無視して、簀子縁へと出る。夜空にはちょうど明るい月が上っていた。芳昭は簀子縁に腰を下ろして、月明かりの下で絵を描く。

 何かを模写するのではなく、今回は風景を描いた。いつか顕子と遊んだ寺の風景を。とはいえ、これまで手本を見ながら描いていたものだから、頭の中にある光景を取りだして描くのは難しい。すぐに筆に迷いが生じて、線がよれる。寺も木々も遊ぶ子どもも、ひどく粗くみっともない仕上がりだ。それでも構わなかった。

 ――俺はもっと上手くなるんだ。

 ひそかにそう心に誓った。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ