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落ちこぼれ

1.


 立花芳昭が絵の道に進むことになったのは、右大臣・藤原家の娘の顕子がきっかけだった。芳昭が彼女に出会ったのは、まだ物心もつかない頃のことだ。自分がいくつだったか思い出せないほど昔。中務省の中級役人である芳昭の父である立花芳則は、中将の位にあった顕子の父と身分違いながらも親しくしており、息子である芳昭も自然と父に連れられて三条の藤原邸に出入りしていた。

 なぜ父が幼い自分を連れ歩いていたのか。幼子であるならば、屋敷で乳母と乳兄弟に任せておけばよい。それを敢えて連れ出していたのは、今にして思えば嫡子を右大臣に売り込むような意味合いもあったのかもしれなかった。もっとも父のそうした努力は息子が絵師になったことで水の泡と消えるのだが。

 絵師になったのは、芳昭自身が望んだというより、偶然のようなものだ。

 もともと芳昭は出来が悪く、学問を苦手としていた。それだけではない。和歌も舞も楽器も武術も――貴族として必要な教養を芳昭はすべて苦手としていた。それでも父としては芳昭に後を継がせるしかない。父には他に側室との子がいたが、正妻の子である芳昭を差し置いて嫡子にするわけにはいかなかったのだろう。

 半ば現実逃避気味に、父はよく言ったものだった。

「芳昭はまだ幼い。これからだ。成長すれば学問なり、和歌なり、武術なり、何かひとつくらいは取柄が見つかるだろう。もしも取柄が見つからないとしても、右大臣様によくよくお願いして取り立てていただければ、立花家は安泰だ」

 そうした事情もあって、父は藤原家に売り込むように芳昭を伴って遊びに行っていた。

 とはいえ、父と右大臣が談笑しはじめると、幼い芳昭は何もすることがない。子ども同士、遊んできなさいと右大臣の長子である藤原雅明やその弟の雅尋の元に行かされたものの、そちらは芳昭が学問も和歌も何もかも不出来なのを承知している。そのことをからかわれて、かけっこや相撲で打ち負かされて。芳昭はすっかり藤原家の兄弟が嫌になり、父に出掛けたくないと訴えた。けれど。

「我がままはいけないぞ、芳昭。何の取柄もないお前は、せめて高貴な方々に気に入られなければ取り立ててもらえない。最低でも父と同じ地位を保つことができなければ、われわれ一族は没落して飢えるのみ。我慢するのだ」

 それでも、同年代の子どもに駆けっこの足が遅いと笑われ、学問でまだそんなことも知らないないのかと呆れられるのをいつまでもじっと我慢してはいられない。雅明たちとの鬼ごっこの最中に、芳昭はこっそり逃げ出して離れの裏に隠れた。そんなことをしても見つかってしまう可能性は高い。また、いじめっ子たちに発見されなかったとしても、父が探しに来れば出て行かなくてはならないのだ。ひとり隠れることは、嫌なことを先延ばしにするだけ。

 この後、自分はいったいどうすればいいのだろう。

 芳昭は不安で今にも泣きだしそうになった。そのときだ。

「そこにいるのはだあれ?」

 女の子の声が聞こえた。ふと顔を上げると、縁側から女の子がひとり、こちらを見下ろしている。少女は芳昭より二つ、三つは年下だろうか。赤い袴と白い単衣の上から、萌黄色の上着――細長{ほそなが}を羽織っている。

「僕は立花芳則よしのりの子、芳昭」

「芳則おじさまのところの子なのね。あたしは顕子。三日前にお母さまとこのお屋敷に引っ越してきたの」

「お母様? 最近、このお屋敷にいらしたといえば……須磨の君のことですか?」

「お母様のことを知っているのね! そう。今まではお父様と別々に暮らしていたけれど、お父様が母子二人の暮らしでは心配だから一緒に暮らそうとおっしゃってくださったの!」

 須磨の君といえば、もとは宮中で女房をしていた女性だったという。宮仕えをしているうちに右大臣・藤原雅盛まさもりに見初められ、側室になったのだそうだ。顕子はその娘らしい。それにしても、雅明たちは突然、現れたこの少女にどう接しているのだろう。

 もし自分にするように、この子がいじめられていたら。

 心配になった芳昭は、顕子に尋ねた。

「兄上さまたちは、よくしてくださいますか?」

 その質問に顕子は顔をくもらせる。

「このお屋敷にはお兄様たちがいらっしゃるというので、あたし、一緒に遊べるのを楽しみにしていたの。でも、お兄様たちは貝合わせやお人形遊びや双六はお嫌いかもしれない。そう思ったら何だかお誘いできなくて……」

「私はお兄様たちと何度か双六をしたことがありますよ。顕子様がお誘いすれば、お二人も一緒に遊んでくださるのではないでしょうか」

「うーん……でも、あたし、双六がとても弱いの。お兄様たちを退屈させてしまうかも」

「では、私が練習相手になりましょうか?」

「いいの? あなたはお兄様たちと遊んでいるんじゃないの?」

「それは、えっと……」

 まさかあなたの兄上たちから逃げているのだと、顕子に言うわけにもいかない。何しろ顕子は出会ったばかりの兄弟に夢膨らませているところだろうから。そこで、芳昭は「顕子様が兄上たちと遊べるようになるのがいちばん大事です」と答えた。

「それじゃあ、一緒に双六をしてくれる? 強くなって、お兄様たちに認めてもらうの!」

 顕子はにっこり笑って答える。それが芳昭と顕子の出会いだった。


2.


 それから、芳昭は父に連れられて藤原邸に来ると、顕子と遊ぶようになった。

 右大臣は本宅に引き取った側室と娘のことを気にかけているらしい。顕子が楽しそうに芳昭と遊ぶようになると安堵したようで、よく唐くだもの(米粉や小麦粉を油で揚げた菓子)を持ってきてくれた。

 ところが、どういうわけか雅明はそれが気に入らなかったらしい。彼は芳昭にささいながらも嫌がらせをするようになった。通りすがりにわざと足を引っかけたり、芳昭の姿を見てもいないもののように振る舞ったり。なぜそんな仕打ちを受けなくてはならないのか、芳昭にはいっこうに分らない。そのため、いよいよ芳昭は藤原邸へ行くのが嫌になり、父に誘われても断るようになった。

 どちらにせよ、芳昭には遊んでいる余裕がなくなっていた。なぜなら、大学寮(貴族の師弟が学ぶ官立の学校)の成績がいよいよ悪化していたからだ。

 その日も芳昭は教わったはずの漢詩を暗唱することができず、教師に叱られたばかりだった。一日の授業が終わり、迎えに来た従者とともに徒歩で邸へ帰る。とぼとぼと四条の辺りを歩いていると、塀が崩れた廃墟の前に数人が集まっていた。

「いったいどうしたんだい?」従者が集まっている人々に声を掛ける。

 と、老人が振り返って、廃墟の庭で遺体が見つかったのだと答えた。

「遺体って……ここには誰も住んでいなかったのでは?」芳昭は尋ねる。

「ここはさる貴族の別宅で、その貴族が没落してからは廃墟になっていましたが……はてさて、家のない者が住みついていたのか、あるいは貴族の邸の敷地かどこかで死んだ者をここに運んで打ち捨てていったのか……」老人は痛ましげにそう言った。

 基本的に、死人が出ても火葬を行い墓所に入れるのは、身分の高い者だけだ。庶民は遺体を空き地や川辺に野ざらしにして風化を待たねばならない。しかも、貴族は穢れを嫌うため、邸の付近で遺体が見つかると人に命じて密かに他所へ運ばせてしまう。老人は、この廃墟で見つかった遺体もまた、そうして打ち捨てられたものかもしれない、と言っているのだった。

 芳昭は人々の隙間を縫って、廃墟の敷地をのぞきこんだ。遠目に見た遺体は、人の肌とは思えぬ青ざめた色に変わり、手足も胴も異様に膨らんでいる。体格からして成人しているのだろう。ただ、生前は男、あるいは女として生きた人物であるはずなのに、異様な遺体の有様からは男なのか女なのか、ぱっと見には分らない。

 初めて見る光景に、芳昭は息を呑んで立ちすくんだ。

「人は、死んだら皆、あんな風になるのか……?」

「さよう」老人が芳昭の呟きを拾い上げて答える。「死んだ者は皆、腐って、朽ちて、骨になるのです。身分の高い者も、低い者も等しく」

「――芳昭様、行きましょう。穢れた場に長く留まるものではありません」

 不意に従者が芳昭の背中を押して追い立てた。

 芳昭が成績不振に悩んでいる間、顕子はたびたび文を寄越して『遊びにきてほしい』『どうして最近は邸に来ないの?』と言った。芳昭はそれに対してつたない手紙や歌を返していたが、とうとう顕子は業を煮やしたらしい。

『お母様がお父様の懇意にしているお寺を参拝するの。芳則おじさまが付き添ってくださるのよ。芳昭もついてきて、一緒に遊びましょう』

 文でそう言われた上、父にまで根回しをされてしまっては、芳昭には断ることができない。芳昭は父の案内で須磨局が藤原家と親しい方成寺に参拝するのに同行することになった。寺に着くと、大人たちが寺の一室で休む間にも、興味津々の顕子は庭に降りたり境内を探索したりと忙しい。芳昭は顕子が迷子にならないように、彼女の探索にあちこち引っ張り回される。

 そのうち、顕子は鬼ごっこをしようと言いだした。しかし、さすがにこれほど広い境内で、万が一のことがあれば駆けつけられない可能性もある。芳昭は反対したが、顕子は聞かなかった。

「お兄様たちとなら、鬼ごっこだってするでしょう? どうして、あたしが相手だったらいけないの?」

「それは……危ない目に遭ったときに、境内が広すぎて助けに行けないかもしれないからです」

「それは芳昭だって、お兄様たちだって一緒でしょう? どうして、あたしだけだめなの?」

「顕子様は姫様でいらっしゃいますから……」

「どうして女の子は家の奥にいないといけないの? 男子のように外で走り回ってはいけないの? 女の子はしてはならないことが多すぎるわ」

「姫君というのは、そういうものとされていますから」

「つまらないわ。お兄様や芳昭のように漢字を読み書きしたいし、学問だってしてみたいのに」

 そう言われて、芳昭は困ってしまった。

 貴族の女性は読み書きを習いはするが、それはかな文字が中心だ。漢字の読み書きはほとんど男子のみ。女性で漢字の読み書きができるのは、宮仕えをする女房のうち特に教養のある一部にすぎない。かな文字を習うのだから、ついでに漢字も学習すればいいのだ、と言われればその通りかもしれなかった。だが、それは昔からそういう風になっているのだ。元服もしていない芳昭には、その辺の世の中の仕組みがよく分らない。どうしてと言われても、何の答えも芳昭は持ち合わせていなかった。

 それに、芳昭はどちらかといえば学問をしたくない。女に生まれて学問をしなくてもよいなら、どんなによかったのに、と思う。いっそ、学問をしたい人間が学び、不得手な人間はそこそこでいいということになればいいのだ。

 けれど、そういうわけにはいかない。

 家を継ぐのは男子だ。立花家の命運は跡継ぎである芳昭の能力にかかっている。下級貴族が生き残るには、学問で身を立てるか、権力者に取り入るか、いずれかしかないのだ。そう反論しかけたが、芳昭は唇を噛んで言葉を呑み込んだ。言ったところで、顕子には分らないだろう――。

 と、そのときだ。

 視界の端で萌黄の細長が翻った。芳昭がハッとして顔を上げたときには既に遅い。顕子はその場からいなくなっていた。

「なっ……! 顕子様! 一人で行ってはいけません!」

 芳昭は慌てて顕子を追いかけた。お寺の中のいうこともあって、最初は遠慮して早足だったのが、そうも言っておれない。履物を脱いで廊下に駆けあがった顕子を追って、芳昭も縁側へと上がる。さらに寺の奥へ逃げていく彼女に追いつくため走りだそうとした瞬間。何かの気配を感じて芳昭は立ち止まった。

 名前を呼ばれているような気がする。けれど、耳を澄ませてみても、呼び声は聞こえてこない。

「……気のせいか」

 気持ちを切り替えるように頭を振って、芳昭は走りだそうとした。その瞬間、誰かの手に引き留められるような感覚を覚える。けれど、振り返ってみてもそんな相手はどこにもいない。

「なんだ……?」

 わけが分からないままに、芳昭は何かの気配のする方へ足を踏み出した。ふすまを開けて無人の部屋の奥へ進んでいく。ふと見ると、部屋の片隅に文机が置かれていた。その上には硯と筆、それに写経の途中らしき巻物が置かれている。

 巻物に書かれた文字は堂々として、力強く、見事だった。おそらく、たいそう字の上手い人物の手によるものなのだろう。

 芳昭は思わず文机の前にひざまずいて、紙の上の文字に見入った。自分もこれほど見事な文字を書くことができれば、どんなにいいだろうか。そう思いながら、傍らに置かれた筆を持ちあげてみる。よく見ると、筆はひどく古びており、長い間、大事に使われてきたものだということが分かった。

 芳昭は懐紙を取り出し、手にした古い筆で文字を書いてみた。


 春眠不覚暁

 処処聞泣鳥


 相変わらず不格好な自分の字だが、別の筆で書いてみるといつもより少しだけ上手く書けているような気もする。そのことに満足していると、不意に声が聞こえてきた。

《孟浩然の『春眠』か。もう飽きるほど書いてきた詩だな》

 聞こえた声は、老人のような子どものような奇妙な声だった。とてもではないが、この世に生きる人間のものとは思えない。

「だ、誰だ!」芳昭は叫んで辺りを見回した。

 しかし、部屋の中には芳昭ひとりきり。他には誰もいない。気味が悪くなって、芳昭は後ずさった。そのまま部屋を逃げ出そうとする。けれど。

《おいおい、そう怯えるものではないぞ。わしは何も悪さはせん》

「うわああ!」

 またもや間近で聞こえた声に、芳昭は怯えて縁側から外へ飛びだした。裸足で地面を走って逃げ出す。

『おい、童{わっぱ}よ、何も怖いことはないぞ。そのように裸足で逃げては、足を傷めてしまう』声がそう言った瞬間、芳昭は足の裏に鋭い痛みを感じた。それ以上、走ることができずにうずくまる。それでもなお、声は聞こえてくる――というより、声は芳昭の頭の中に直接、響いているかのようだった。《おお、痛いだろう。逃げずともよいと言ったのに》

「お、お前は誰だ? どこにいる?」

《わしは弘法という。ことわざの『弘法も筆の誤り』にちなんで弘法と名付けられたのじゃ。ほれ、きょろきょろ辺りを見回したところで、わしは見つけられんぞ。何しろそなたの手の中におるでな》

「手の中……?」

 芳昭は自分の両手を見下ろした。そういえば、逃げることに夢中で文机の上から筆を持ってきてしまったらしい。そう気づいたとき、また声が聞こえてきた。

《そうじゃ、そうじゃ。わしはここじゃ》

「ここ? どこだ……?」

《そなたの目の前におるじゃろう》

「目の前って……まさか――」ぎょっとして芳昭は手の中の筆に目を向けた。そういえば、声が聞こえてきたのもこの筆を手に取ってからではなかったか。「まさかこの筆……」

《そうじゃ。ようやく気づいたな。わしは筆の付喪神にて弘法と申す。いったいどういうわけなのか、わしを使うと書(文字)が上達するという言い伝えがあってな。人から人へ大事に受け継がれ、四書五経やものがたり、文などさまざまな文書を書いてきたよ》

「書が上達する筆……」

 芳昭はじっと筆を見つめる。

 早くこの筆をもとの場所に返さなくては、盗んだことになってしまう。そう思うものの、書が上達する筆というのは魅力的だった。芳昭は何も取り柄がないが、この筆を使って見事な文字を書くことができれば、皆もそれだけは認めてくれるだろう。手紙や文書の代筆を行う祐筆という仕事もあるくらいだ。

 ――この筆がほしい。

 ――いやいや、盗人になるわけにはいかない。

 芳昭は筆を前に動けずにいた。




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