第一話
お目汚し、失礼します。
朝方の新鮮な空気が苦手な手の平は、逃げ帰るようにポケットに身を潜めた。
指先で触れたイヤホンは、二日ほど前にノイズが入るようになってから使っていない。その生涯はおよそ三ヶ月だった。
いつも音楽を聴きながら登校していたからか、当たり前にあるはずの環境音がむず痒く感じる。視線もどことなく落ち着かなくて、見慣れた通学路の所々がテレビのチャンネルのように切り替わる。
その姿を自覚しているから、急に恥ずかしくなって余計に周りを気にし始める。誰も自分のことなど気に留めていないというのに、他人の視線がどこに向いているのか探ってしまう。
ーーベチャ。
「あ」
そんな無意味な行為のせいで、陽射しを浴びに浴びた水溜まりに片足を突っ込んでしまった。
生温かい水が窮屈な靴の中をじわじわと侵食していくのが分かる。
肺に溜まっていた空気を、一気に口から吐き出す。
「終わった……」
そう口に出しても一日が終わってくれる訳もなく、文字通りじめっとした足取りでまた歩き出す。
固いコンクリートを踏み締める度に、憂鬱さに拍車がかかる。ぐしゅぐしゅと不快な音を立てて、全体に馴染んでいく。家に帰る頃には異臭を放っている靴を思うと、お勤めご苦労様でした、と埋葬したくなる。
週の初めである月曜日は、こんな感じでいつも上手くいかないな。そう思いながら、俺は学校へと向かう。
※※※※※※※ ※※※※※※※ ※※※※※※※※※※
教室に足を踏み入れた途端、様々な視線が俺を刺していった。またか、と深く息をつく。
正直言って、俺はこの感覚が好きになれない。決して容姿がいいからだとか、人気者であるからだとかで注目されている訳じゃない。
みんなが気になっているのはきっと、この包帯に巻かれた左腕だろう。
断じて中二病を拗らせているのではない。
これは少し前に普通にヘマをして折ってしまっただけだ。幸い、複雑骨折などではなかったので、再来週辺りにはギプスを外すことが出来るらしい。
夏休みが明けた時点でこの状態だったから、流石にみんな見慣れている筈だ。だというのに、一日に数人は視線を向けてくる。別に珍しいものでもないのに。
何の感情も持たない目線が徐々に散っていってから、自分の席へと歩き出す。
「良太。おはよう」
窓側の席で、こちらに軽く右手を上げて声をかけて来た少年を見る。向けられた爽やかな笑顔を毎度羨ましいと思ってしまうが、こちらも負けじと渾身の笑顔を見せる。
「お、おはよう。野上」
裏返りそうになる声が、顔を引きつらせる。小さく挙げた右手も、どうすればいいか分からずに空中に指をかけていた。渾身の笑顔は今日も失敗したようだ。
「ふ、ははは」
俺の絵に描いたような不自然な笑みが可笑しかったのか、野上は静かに、けれど本当に面白そうに笑い始めた。
「……何だよ。急に」
「いや、やっぱお前笑うの下手くそだなと思ってさ。そんな漫画みたいな苦笑い初めて見たよ」
野上が穏やかな足取りで俺に近づく。日光で茶色く見えた髪の毛は、俺の席に近づくたびに黒に戻っていく。どちらも様になっていた。
「愛想のいいイケメンには一生分からない悩みだろうから、教えねぇ」
なんでこの数歩の間に、俺はこいつの容姿を褒めなきゃいけないんだろう。腹が立つから、理由を考えるのはやめておく。
笑顔一つでどっと疲れた俺は、鞄を床に放るように置いてから椅子に座った。小さな子供のように機嫌を損ねた俺を見て、野上は近くにしゃがんで苦笑を浮かべる。
「ごめんごめん、悪かったよ。だけどさ、そんなにムスッとした顔してると、とっつきにくい人間だって誤解されるぞ?」
「誤解じゃねぇよ。元から無愛想なんだよ、俺は」
目付きは殺し屋なんじゃないかと思うほど悪いし、声はどこかくぐもっている。おまけにこの捻くれた性格。初対面で他人に好印象を抱かれる要素は皆無である。
「そうかな」
「そうなんだよ」
こうやって自分で自分のことを正しく認識しておけば、余計なダメージを負わなくて済む。そう信じてやまないから、俺はどんどん俺を下に落としていく。それに応じて、顔も机に向かい合うように下を向いていく。
「首がへし曲がってるけど大丈夫? 首も折ったんだっけ?」
「尋常じゃないほどの猫背なんじゃない? ほっとけ」
「すげぇ。ヨガの域だよ」
俺もやってみよう、と形のいい喉仏を仕舞い込みながら、野上も下を向いた。何をやっているんだこいつは、と思いながらちらりと野上を見る。床にしゃがみ込んでいるから、どんな顔をしているか分からない。 少しの間、沈黙が流れる。
いい加減長ぇよ、とチョップしてこの茶番を終わらせようとした絶妙なタイミングで、ようやく野上が顔を上げたと思ったら、
「はぁ?」
急に数学教師の尾関の真似をしてきた。
授業中に答えと全然違う回答をすると、首を少し揺らしながら、馬鹿みたいに口を広げて「はぁ?」と言ってくる尾関の姿は、俺たちの学年の中では有名で、よくネタにされている。
だけどいくら仕草を真似しても、前頭部が禿げ上がっていて顎が少ししゃくれている尾関と、目の前の美形は全く結び付かない。
それが何だかとてもシュールで、可笑しく思えた。
「全然似てねぇ」
くっくっくと、爪先を叩いて靴を履く音のような笑い声が自分の喉で鳴っている。大きな声で快活に笑えればもっと気持ちがいいのかもしれないけど、今の俺にとってはこの笑い方が一番合っていると、笑うたびに思う。
「やっぱり、いい顔で笑えるじゃん」
いつの間にか、野上は俺の顔を指さしていた。そこでようやく、俺は自分が自然に笑えてることに気付いた。
「大丈夫、ちゃんと笑えてる。まぁ、面白かったのはさっきの苦笑い方だけどな。むしろ、苦笑いの方がウケるんじゃないか?」
いたずらっ子のように笑う野上は、いつもより幼く見えた。揶揄われているのは分かっているけど、彼の言葉にも、表情にも、悪意なんてなかった。
「……うるせぇよ」
だから俺は、形だけの文句を言うしかなかった。冗談だよ、と優しく笑う彼を見ると、自分はガキだと思わずにいられない。こんな軽口を言い合うだけの間にも、彼は大人になっている気がした。
この爽やかスマイルを難なく振りまく優男は、野上慧助。こいつを一言で言えば、いわゆる完璧超人だ。
誰に対しても優しく、勉強もスポーツも完璧で、おまけに容姿端麗でもある。
女子は言わずもがな男子からも人気があり、教師陣からの信頼も厚い。
説明しているこちらがげんなりしてくるようなスペックの持ち主だが、俺は彼が嫌いじゃない。
何故かというと、彼はそんな自分に酔っていないからだ。大体の人間は態度が大きくなったり、他人を見下してくるが、彼にはそんな素振りがない。
どこまでも謙虚で、誰に対しても平等に接してくれる。個人的にはそれが、彼が人に好かれる一番の理由だと思う。
――眩しい。
窓から差し込む朝日が目を突いてくる。アスファルトにできた水溜まりではなく、それよりも浅い俺を蒸発させるつもりだ。
けれど、その光を背に笑う彼は、もっと眩しい。俺には過ぎた輝きであるから、いつも目を瞑りたくなる。
「野上、後ろのカーテン閉めてくれ。ちょっと眩しい」
「おう」
薄緑色のカーテンが揺れながら、光を遮った。
もう光は当たらないはずなのに、細めた目は暫く開かなかった。
※※※※※※※ ※※※※※※ ※※※※※
やけにぬるい空気が漂う七時間目は、退屈でしょうがない。
机に無造作に広げたノートや教科書は、ほとんどお飾りのようなもので、その横に転がっているシャーペンは、シャー芯を出し入れするだけの機械になっていた。
チョークの粉がまぶされた黒板に、登場人物の心情とやらが書き出されていく。それをなぞる中年教師の声は錆びついていて、聞くに耐えない。
俺は真っ白なノートに右肘を立てて、頬杖をついていた。授業はまるで聞いていない。
その代わり、頭の中はくだらない妄想で溢れている。もしこの教室にテロリストが来た時にどうやって対処するかといったような、うっかり溢れ出してしまったら、末代までの恥に成りかねないような代物ばかりだ。
想像力、もとい妄想力はこういう酷く退屈な時間によって肥え太っていくのだなと常々感じる。
しかしそれにも飽きてしまった俺は、目玉だけを動かして、黒い秒針を見つめた。時を刻むその動きは、まるで眠気を誘うかのようにゆったりとしているように見えて、それにまんまと釣られて上瞼が徐々に落ちてくる。
閉じかけの瞼とあくびの涙で、視界が揺らめく。まるで、この教室が水で満たされているような感覚になる。深海にいるみたいに、周りの音も静かになっていく。
ずっと、このままがいいな。
ずっと、この生ぬるい空気に溺れていたい。この授業が終わっても、自分の部屋に戻っても、どこに行っても、ずっと。
ずっと。
「じゃあ、次。國井、読んでくれ」
そんな馬鹿げたことを、ぼんやりと思っていた。
「はい」
その時、たった二文字の返事が、腑抜けた俺を撃ち抜いた。床にシャーペンが落ちる音よりも、チョークが割れる音よりも、鮮明に聞こえてきた。
それに驚いた俺は思わず頬杖を外して、腕全体で机をバンと叩いてしまった。
やってしまった。本日二回目のやらかしである。欲しくもない視線が周囲から飛んで来る。
「ん? どうした、浅木。そんな騒音出すくらい國井と音読がしたいのか?」
黄色い歯を見せつけながら、現国の松田はそんなことを言ってきやがった。
おいおい勘弁してくれ、おっさん。あんたの錆び付いた声なんて聞きたくないんだよ。ましてや、俺のくぐもった声なんてもっといらない。
とにかく、早く彼女に読んでもらえよ。
案の定、俺と彼女はいい笑いものになっていた。
全く、余計なことしやがって。
「大丈夫です」
今朝よりも出来の悪い苦笑いをなんとかこしらえて、中年教師の冗談を受け流す。やっぱり、月曜日はダメだ。ろくなことがない。俺だけならまだしも、彼女まで笑われるのは本当に最悪だ。
往生際の悪い笑い声が、戯言を延命させる。特に、くすくすと背中をくすぐるような女子の笑い声が、鬱陶しい。
彼女は、どんな表情をしているだろうか。怖くて、確認することができない。やっぱり、こんな状況に巻き込んだ俺に苛立っているんだろうか。
「先生、読んでいいですか」
俺の心配を一蹴するほど真っ直ぐで、凛とした彼女の一声で、周りの奴らは静まり返った。
にやけていた松田も「あ、あぁ」と少したじろぎながら、黙りこくった。
椅子から静かに立ち上がった彼女は、無駄に厚い教科書を持ち上げて、口を開いた。そして、指定された文章を読み上げる。
なんでもない文章だ。
けれど、彼女が読むと何故か特別なものに感じる。彼女の透き通る声が、雑音の残響をすり抜けて鼓膜にするりと滑り込んでくる。
姿勢良く読み上げるその姿が、カーテンの隙間から差す光に照らされていて、俺の力無い目がそれ見たさに大きく開く。
大抵の授業で喚き散らしている奴らも、彼女が声を発する時は一言も喋らない。いくら猿みたいな笑い方をしているといっても、そこまで無粋ではないらしい。
さっき俺と彼女を茶化した松田も、にやけ顔をやめて、じっと彼女の方を見ている。
丁度良い緊張感と、言い様のない清々しさが、教室に訪れている。
それをもたらした彼女の声は、まるで――、
「透明だ」
この時間だけは、何もかもが透き通って見える。
全ての色が褪せて、抜け落ちて、ただあるがままの姿を曝け出しているように見える。
その何もかもの中に、俺も入っていると錯覚する。
そんなこと、あるわけがないのに。
「読み終わりました……先生?」
「え? あぁ、ありがとう。いやぁ、相変わらず音読が上手いなぁ、國井は」
「……ありがとうございます」
静かに席に座って、彼女は少し俯きながらそう言った。そんな彼女を映す俺の瞳は、更に熱を帯びる。いつの間にか握りしめていた拳を開くと、手汗だらけだった。
「気持ち悪い」
彼女の僅かな仕草や何気ない一言で、過剰に熱を持つ。「こればかりは、どうにもならない」と割り切ることも出来ずに、俺は自分の体に嫌悪感を向ける。
冷めたはずなのに、いつもこうなってしまう。彼女の声にさらわれた熱よりも、熱い火種が勝手に芽生えてしまう。
喧しく高鳴る鼓動が煩くて、待ち侘びていたはずのチャイムの音が聞こえなかった。他のクラスメイトよりワンテンポ遅れて立ち上がる。
その瞬間、俺は教室の一番右端にある彼女の席に目を向けた。
視界に、彼女がいる。黒髪を揺らしながら、丁寧にお辞儀をする彼女がいる。それだけで、何かが満たされていく気がした。俺にとって大事な、何かが。
――彼女の名前は、國井氷雨。
うっすらと光を張った瞳が綺麗で、少し長い髪が黒く艶やかで、声が透明で何色にも染まっていない、美少女だ。
そして俺、浅木良太が、分不相応にも好意を抱いている女の子だ。
ここまで読んでくださってありがとうございます。