魔天
断獄を通り過ぎ、ひたすら駆け抜ける。
はるか後方から地響きが聞こえて、床が振動するのが分かる。自壊して滅び去るまでの、断獄の暴走が始まったのだ──リンちゃんの、たった一人での時間稼ぎも。
「災海にしろ断獄にしろ、もう暴れたくないだろうに……邪悪なる思念はまだ、彼らを好きに利用しているんだな。使い潰れるその時まで」
「まったくもって、愚かなことです……完全なものなど、どこにもありはしないのに」
俺の言葉に、リーベは苦しげに応えた。彼女はすでに二度、異なる世界のワールドプロセッサに自壊を願い、受け入れられている。言うは易しだが、実際に行うとなると、他人に自裁を求めることの精神的苦痛は計り知れない。
よくもこいつに、こんな顔をさせたな。邪悪なる思念め。
日常生活の中、ひたすら騒がしく楽しんでいたリーベの笑顔を思う。あの笑顔を曇らせたことが、一人の人間として到底、許せそうにない。
マリーさんがポツリ、溢した。
「……完全ってのは、ともかくね。永遠を欲しがる気持ちだけはちょいと、分かる気がするよ」
「マリーさん……?」
「なんせほら、この年だ。若い頃と比べりゃあちこちガタついてるし、何よりもうお迎えだって近い。私の同期だって何人もいたのに、今じゃほとんど空の上。だからそこだけは、分からなくもないのさね、ファファファ」
それは、意外なようで当たり前の願望だった。
永遠に生きたい、とまではいかないにせよ、もっと生きたい、あるいは若返りたい。そういう思いはきっと、誰にでもある普遍的な欲望だろう。
俺だって誰だって、もしかしたらマリーさんくらいの年になった時、自覚的にしろ無自覚的にしろ、永遠を望むのかもしれない。
駆けながら力なく笑うマリーさんは、けれど、と続けた。
「今は違う。人生の目的も果たしたし、こんな大役を務めることもできた。ああ、それに御堂ちゃんはじめ若い子たちの、台頭だって拝めたからね。嫌でも気付くさ」
「何を、ですか?」
「時代は変わるってことを、さね。そして、その変わる時代を託してきたのが私らの先人たちで、今また私も、後進に向け託す時がきたんだ、ってね。まあ、私ゃ往生際が悪いもんだから、こんなババァになるまで認められなんだが」
笑みが、苦いものに変わる。御年83歳になるまで70年間、引退せずに頑張ってきた大御所が浮かべるにしては、あまりに苦しげな笑顔だ。
しかしてそれも一瞬、今度は明るい笑顔に切り替えて、
「だけど間に合った。取り返しがつかない老害に成り果てる前に、ギリギリだが気付くことができた。これも公平ちゃんたちのおかげさ、ありがとう」
「そんなことないですよ。マリーさんは、誰からも尊敬されるすごい人です」
「ファファファ、煽てないでおくれ。ああついでだ、どうか聞いておくれよ──これから行う三界機構との戦い。それが私の最後の探査者業だ。この作戦を完遂でき次第、私ゃ探査者を引退する」
「!?」
「えっ……?」
驚愕の、けれど納得せざるを得ない宣言。俺もリーベも顔を見合わせる。
たしかに、マリーさんも失礼ながら御高齢だ。大体の探査者ならずっと前に隠居を選んでいるだろう。だからこの宣言も、納得できるのだ。
「ああ、そう思うとなんだか、やる気が漲ってきたねえ……我が人生最後の戦い、最後のお勤め。過去の先人たちもこんな気持ちだったんだろうか。噛み付くばかりで可愛げのない私だったが、今になってやっと、彼らに追い付けそうな気がするよ」
「マリーさん……」
「…………見えてきました。三界機構、最後の一機。魔天です」
清々しい笑みさえ浮かべるマリーさんをよそに、道の先には化物が見えてきていた。鳥のような翼の生えた、トカゲというか。まさしくドラゴンの見た目をしている。
だがアイとは異なり、威圧感が凄まじい。ただそこにいるだけですべてを圧し折りかねない圧力は、生まれたてだったアイとは比較にならないほどだ。
あれが最後の三界機構、魔天。
邪悪なる思念への最後の関門、救うべき最後のワールドプロセッサ。
そして……S級探査者マリアベール・フランソワの、現役最後の敵。
「相手にとって不足なし」
マリーさんが駆けながら構えた。仕込み杖、すでに逆手に握っていつでも、抜き放てるようにしている。
「世界を救う闘い、縛られた世界を解放する戦い──結構だ、実にやりがいがある! 70年に渡る探査者人生の幕引きに、こんな相応しい話もありゃしねぇ!!」
どこまでも真剣に、けれど楽しそうに、謳うように。
最後の鉄火場へ向かうマリーさんは、若々しくも嬉しそうに笑い。
「いくぜ、都合三度目のドラゴンキラー──マリアベール・フランソワ様の花道、押し通らせてもらおうかぁーっ!!」
ついにこちらを視認して動き始めた魔天に向けて、勢いよく居合抜きを放った!
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