第95話 人を狩る猟師 9
襲撃者が銀治を引き付けている時に、リースは行動を開始した。
「まずは、下準備といこうか」
街のいたるところに張り付けた呪符から、転移術式を起動。これにより、一瞬にして、街に無数の魔物が放たれることになった。
その数は、百を超えていて、ほとんどが『逃げ』や『潜伏』を得意とする物ばかり。それらの脅威度は低ランクなれども、一度、人間社会に潜り込んでしまえば、病巣の如く根を張り、多くの人間の命を奪う魔物たちだ。
機関の構成員たちはもちろん、如何に実利優先のカンパニーといえど、この脅威を見逃すわけにはいかない。
「ついでに、在庫も処分しておこう」
次いで、街の中に召喚されたのは、人の形をした者たちだった。
けれども、それらは魔人ではない。リースは知能無き同胞ならばともかく、人格ある同胞を無下に扱ったりはしない。いや、たとえ、人間であったとしても、同志であるのならば、リースは最大限の敬意をもって接しよう。
だが、同志でもない人間であるのならば、リースは『消費』を躊躇わない。
無意味に虐殺する趣味はないが、それは単に『無駄遣いをしない』というだけの話だ。何せ、リースにとって人間たちとはリソースの一つである。それらを無意味に虐殺するというのは、水道の水を出しっぱなしにするような、無意味な物だ。
故に、失敗作である彼らは、リースの基準では、きちんと有意義に使用していた。
異能者を生み出すための実験や、異能者を安定して操作するための実験。その他、異能に関する研究のために使用した結果、自我が喪失してしまった異能者たちを、リースは今回、囮として処分することを選んだのだ。
形式上、まだ人である者ならば、多少、機関やカンパニーの攻撃が躊躇われる可能性も考慮して。
「うんうん。いいね。良い具合の混沌だ。人の悲鳴が、物音を隠してくれる。喧騒が、余計なノイズをイレギュラーへと与える。その性質上、あのイレギュラーはまず、人命救助に向かうだろう…………我らが盟主から預かった権能によって、天罰術式を無視できるのは、六時間程度。そこで、決着を付ける」
突如として巻き起こった惨劇の中に潜み、リースは行動を開始する。
人類史にある中でも、最高ランクの隠密術式で、機関やカンパニーの探査術式をカット。魔力を十全に練り上げて、盟主から預かった権能の数々を、過不足なく起動させておく。
それらは全て、イレギュラー……つまり、天宮照子を殺すために用意した物だった。
失敗作である異能者たちも。
成功作である襲撃者も。
大量に召喚された、数多の魔物たちも。
全ては、リースが盟主と仰ぐ存在から授かった権能を、照子に通すためのリソースだ。天宮照子というイレギュラーを殺すためならば、リースは命の消費を躊躇わない。
身内や、同志以外の命を使うことを、躊躇わない。
「大丈夫だ、問題ない。この条件ならば、天宮照子を排除できる。一度、殺せる。殺して、魂を我が存在に賭けて、今度こそ、封印――いや、異界に追放しよう。そうすればきっと、もう、悪夢に思い悩むことはなくなるさ」
逆を言えば、リースは己の身内から犠牲が出ることを、何よりも恐れていた。
その点に限れば、並大抵の人間よりも、愛情豊かな性格をしていると言えるだろう。もっとも、人類にとっては害悪に過ぎない魔人であることに、代わりは無いのだが。
「タイミングが肝心だ。奴の異能は、奴自身のメンタルに直結している。奴が揺らげば、奴の異能の強度も揺らぐ。その瞬間を狙えば、策は成る」
そう、人類にとっての脅威度では、下手をすればランクAを凌ぐほどに危険な魔人であるリースは現在、勇気を振り絞っていた。街の影を疾走しながら、早鐘を打つ心臓を強制的に静かにさせて、虎視眈々とタイミングを見計らっていたのである。
まるで、絶望的な戦いに挑む戦士のように。
「すぅー、はぁー。ふぅ…………よし」
そして、リースにとってのその時はやって来た。
標的である照子を視界に捉えたリースは、獣の如く疾走を開始する。転移術式は使わない。魔力を伴う奇襲を感知される可能性を考慮して、リースは体術のみで、照子との距離を肉薄したのだ。
「やはり、来たか。リース」
「天宮、照子ぉ!」
魔物を素手で駆逐していた照子は、リースの奇襲に気づくと、すぐさま迎撃態勢を整えた。けれども、僅かに遅い。既に、リースの策略は起動し始めている。
「絆を繋ぐ鎖よ。ワタシに、比類なき剛力を与えたまえ」
初手、魔術や搦め手を警戒していた照子は、リースが振るった拳によって殴り飛ばされた。そして、数十メートルほど勢いよく飛んだかと思うと、高層ビルに叩きつけられる直前で、ぴたりと空中で止まる。
「妙な力だね。まるで、大山のそれだ」
本来であれば、その一撃で大体の人間、否、魔人であろうとも殺せるはずなのに、やはり照子はぴんぴんとしていた。驚きはしたが、負傷は無いといった様子だ。
対して、真っ赤なスーツ姿で、体中に鎖を巻き付けたリースの顔色は青白い。盟主から授かった権能の一つ、『絆を結んだ相手の力を借り受ける鎖』は、絶大なる効力と引き換えに、リースの魔力を多大に消費していた。
事実、先ほどの一撃を放った瞬間、リースの肉体は過ぎた力に対する反動で軋み、全身が激痛に苛まれたが、それでも、リースは攻撃する手を緩めない。
「天宮照子。は、ここで終わらせる」
「はははっ、やってみろ」
権能を用いて、鬼神の力を借りたリース。
けれども、その戦闘経験まで借り受けられるという代物ではない。そのため、当然ながら大山当人よりは弱く……そして、大山と殴り合えていた照子と長い間、殴り合うのは難しい。そういう判断をリースはしていた。
「――――ちぃっ!」
だが、殴り合いを続けて、苛ついているのは照子の方だった。リースもまた力任せの戦いであるが、つい最近、力が上がったばかりの照子も、その力に振り回されているらしく、珍しくリースの予想よりも状況は良い方向へと転がっている。
常に、己の予想の斜め上を行くイレギュラーである照子と、予想よりも上手く戦えていることに奇異を覚えつつも、リースは手を休めない。これが幸運による物か、それとも、『戦い始めて一年も満たない退魔師』という経験不足の結果から、こうなったのかは不明。いつ、この優勢が崩れるともわからない。
ならば、会話する余裕があるうちに、タイミングを合わせるための布石を打つべきだ。
「天宮照子。運命のイレギュラー。お前は、強い。けれども、単独の強さだ。お前だけが強くとも、世界は何も変えられない」
「やれ、戦いながら会話するのが趣味か? なら、悲鳴を囀っていろ……よっ!」
「ぐっ――は、はは。そう、つれない返事をしないでほしいね」
何せ、と言葉を次いで、リースは己の中で、タイミングが整ったと判断した。
予定通りの時刻。
予定よりも優勢な状況。
そこで、リースは照子の心を揺らがすための言葉を紡ぐ。
「「これから、お前の仲間に関しての話をするのだから」」
そう、照子の口から紡がれた物と、全く同じ言葉を。
「…………は?」
この時、リースの思考は真っ白に染まった。リースという魔人は常に、並外れた思考速度を維持する権能を持っているのだが、それすらも止まった。
何故ならば、その瞬間に予測してしまったからだ。
そう、リースにとっての、最悪の未来を。
「ぎひっ、ひひひひっ! ひゃひゃひゃひゃっ! 傑作、だぜぇ!」
リースの眼前に居る照子は、その、端正な顔に似合わぬ嘲笑を浮かべている。
ここで、リースは気付いた。気付いてしまった。何もかも、手遅れだったということを。
「まさか、神算鬼謀と、我らが機関に疎まれていたテメェが、こんなにも簡単に、引っかかってくれるとはなぁ! ひょっとして、テメェらのお仲間に、似たような力を持った奴が居たか、油断でもしたかぁ? 自分がやっていることは、誰も思いつきはしない、何て思ったかぁ? や、違うな、流石に違う。でも、そうなると、あれだな。そういう考えにすら及ばないほどに、テメェは『天宮照子』が怖いらしい」
全ては罠であり――――眼前に居る、天宮照子の姿をした何者かは、最初から騙していたのだと。リースだけではなく、味方の大半も。この絵図を描いた、一部の人間を除いて。
「ぎひひっ! おっと、いい加減、この姿じゃあ、分かりにくいよなぁ? んじゃあ、ちょいと三番目の顔にして、と」
天宮照子の形をした何者かが、ぱちんと、指を鳴らすと、その変化が始まった。どろどろと、スライムのように肉体が軟体化し、違う物へと形を変えていく。
やがて、一秒も経たないうちに、小柄な少女の姿へと変わった。それはどこにでも居るような地味な外見をした少女で。中学生か、小学生の境界線にあるような外見年齢だった。
「改めて、初めまして、だ。魔神器官が頭領、リース。アタシは機関に所属する上位エージェント。二つ名は『ネームレス』。役割は、主にこうやって、誰かさんに成りすまして、色々やることだよ」
だが、何処にでも居るような平凡な少女が、悪意がたっぷりと詰まった笑みで笑う。嗤う。
敵対者である魔人へと、笑みを浮かべながら致命的な一言を与える。
「――――たとえば、時間稼ぎとか、な?」
その瞬間、リースは己の失敗を悟った。
それは、照子に対して執着したことではない。それは、襲撃者を使った陽動でもない。
人外に対する、天宮照子の悪性を見誤ったこと。
それこそが、罠に嵌ってしまった、一番の原因だった。
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魔神器官には、潜入担当の魔人が存在する。
その名を、テイム。対応する権能部位は、『皮』だ。そして、その能力とは、『特定の対象への成り代わり』である。要するに、どんな人間にもなり済ませられる魔人だ。
ただし、もちろん、制限は存在する。
姿形程度は、写真や、遠くからの視認で変化することは可能だが、中身を模倣するためには、相手の血肉を食らわなければならない。特に、精神を模倣するのであれば、脳を食わなければ、難しいだろう。
この権能は、様々な魔術、異能の中でも、特に使い勝手が悪い物だ。あらゆる魔術の中には、もっと手軽に対象へと成り済ませる手段も存在する。けれども、その手間の代わりに、テイムの成り代わりは、ほぼ完璧に成り済ました人間を模倣するのだ。
例えば、何十年も連れ添った夫婦であろうとも、片方に成り代わられてしまえば、もう片方は気付くことは叶わない。それほどまでに、高精度の成り代わりなのだ。
故に、一度成り代わってしまえば、どんな組織だろうとも、潜伏するのは難しくない。
事実、機関内部に潜入を果たしていたテイムは、きちんとその役割を果たし続けて、魔神器官に貢献し続けていたのだから。
同胞のお遊びに付き合って、天宮照子に捕縛されてしまうまでは。
「まさか、私の友達を傷つけて、のうのうと逃れられるとでも?」
滝藤瑞奈と、池内亜季の事件がきっかけだった。双子の同胞のお遊びに付き合い、気分良くその場を立ち去ろうとした時、恐ろしく勘の良い照子によって看破され、捕縛されてしまったのである。
当然、潜入担当の魔人なんて存在を、ただ殺すなんてもったいないことはしない。
テイムは機関に所属する、数多の異能者、魔術師によって洗脳を施されて、ダブルスパイとして活躍して貰うことにした。
無論、頭領であるリースとの接触は最低限にまで留めた。
僅かな違和感によって、こちらのたくらみが看破されないように、慎重に慎重を重ねて。その所為で、防げなかった被害ももちろんあったが、ようやく、その苦労が実を結ぶ時が来たのである。
「では、行きましょう、天宮さん」
「はい。虐殺を始めましょうか、美作支部長」
かくして、機関による、魔神器官の掃討戦が始まったのだった。




