第92話 人を狩る猟師 6
紫煙が立ち込める部屋の中には、山積みの書類が、幾つも床に置かれていた。
けれども、それらの書類は全て、触れれば崩れてしまうほどに積み上げられているというのに、床に散乱している書類の束などは存在しない。
無造作に置かれた癖に、几帳面に整えられた書類の山。
部屋の中央には皮張りのソファーが置かれてあり、そこには、紫煙に巻かれた室内でもひと際目立つ、赤色があった。
「我らが同志である、小鳥遊志乃が死んでしまったのは悲しいが、それも彼女の選択。山口太河にそれほどの可能性を見出したという事だろうね。事実、山口太河の適性は上々。遺骸の一つである『右腕』の権能を接続し、その力を振るってくれている」
真っ赤で草臥れたスーツ姿の、疲れた表情が似合う黒縁眼鏡の女性――リースは、一人でぶつぶつと呟き続けている。
ここは、リースが所有している拠点の内の一つ。
元々は潰れた探偵事務所があったところを買い取って、魔術的な細工を施して、隠れ家へと改造した物だった。この内部であれば、常に展開している隠蔽と防衛の術式を半分にまで抑えても、機関に見つかることは無いので、くつろいで思考に集中できるのだ。
「まぁ、思ったよりも自我が足掻いてくれているだろうけれど、それも予定通りかな?」
リースは慣れた手つきで煙草を咥え、ジッポライターで火を付ける。
寝転がりながらでも、それらの動作は淀みが無く、一つ一つが洗練されていた。まるで、自分がどう動けば、世界がどう変化するのか、全てを見通しているかのように。
実際、リースは気楽に煙草を吸っているが、その灰が先端から零れる時、奇妙なほどタイミング良く灰皿を動かすのだ。その意識は、手元の書類へと集中しているというのに。
「魔神の記憶に抗うほどの強い意思があるのならば、きっと、完全に魔人化した時、思慮深い良い同胞になってくれるはずだとも。そのためならば、少々の予定ぐらい調整するさ…………いや、あえて、この状況を使って天宮照子の隙を狙うか? 現状、ほぼ魔人化した状態で、まだ山口太河という少年の意識がある状態は、奴にとって排除すべき対象であるかどうかの、境界線であるはず。それに、右腕の権能は『強奪』だ。運よく、天宮照子の異能を奪うことが出来たのならば、もしかすれば…………いいや、逸るな、ワタシ」
躊躇いなく煙草を吸い、その長さを短くすると、紫煙と共に大きく息を吐いた。
慣れていない人間がやれば、咽てしまうような芸当でも、魔人であるリースには造作ないことだった。加えて、煙草をいくら吸ったところでニコチンがリースに作用して、思考を整えてくれるということはない。
だが、リースが獲得したこの肉体の記憶が、紫煙を求めるのだ。だから、煙草の煙ではなく、紫煙を吹かすという行為に落ち着きを感じている。
かつて、人間だった時の肉体の記憶が、魔人の精神に安定をもたらしてくれているらしい。
「わざわざ、カンパニーに対する襲撃に、機関が天宮照子を出して来たのは、確実に囮だ。ワタシが天宮照子を放置できないと知って、罠を仕掛けている。盟主から幾つも権能を受託した今のワタシならば、ネームドが複数束になってこようが、どうとでも出来るけれども。天宮照子が絡むと、ワタシの予測は機能しない。そこに、完全に掌握しきれていない山口太河が絡むと、何がどう転ぶか分からない。最高の結果になればいいが、最悪の結果になれば、目も当てられないだろう」
故に、と言葉を繋げて、リースは煙草を灰皿に押し付けて、潰す。
「現状維持だ。ワタシの策が成って、機関に大打撃を与えるまでは」
灰皿の中には既に、山もりの灰と煙草の吸殻があった。
それほどまでに、リースにとって天宮照子の存在を感知しておきながら、あえて無視をするという行為は、ストレスになる物だった。
さながら、何時爆発するか分からない爆弾の近くに、ずっと居続けているような、恐怖と苛立ちが、絶え間なくリースを襲っているのだ。
「…………そうだ。ワタシが焦っては、いけない。我らが盟主と、仲間たちの未来のために。例え、相打ちになったとしても、奴だけはどうにかしなければ」
リースは新たな煙草に火を点けて、再度、紫煙を吹かす。
そうしていなければ、とても落ち着けはしない、とばかりに。
「そもそも、どうしてワタシの権能は、奴に対して相性が悪い?」
もうもうと、部屋の中に紫煙を吐き出しながら、リースは思考する。
並列に幾つもの策略を練りながらも、天宮照子というイレギュラーに対して、思考を巡らせる。
大分前に、『常に変化する異能の所持者』であるからこそ、情報を取得し、未来を予測する権能を乱す物だと仮定していたのだが、リースはさらに思考を重ねてみることにした。
「異能による戦力の増強が予想できないのは分かった。けれども、性格や趣味趣向。行動原理などは予測できるはず。ワタシは天宮照子や、山田吉次だった時からの情報は集めてある。その情報を使って、プロファイリングをすれば、もっと…………?」
だが、思考を深く沈ませようとすると、リースの脳裏にノイズが走る。
ラジオノイズのような不快な異音が頭の中に響き、思考を強制的に停止させたのだ。
まるで、『そこから先は考えてはいけない』とでも警告しているかのように。
「なん、だ? 思考が鈍く…………いや、待て。そもそも、おかしい。天罰術式があるとはいえ、やろうと思えば、ワタシは山田吉次時代の知人なり、家族なりを人質に出来るはず。そうとも、相打ちを狙うのであれば、天罰術式であろうとも抑止力には…………しかし、なんだ? なんだ、これは? なんで、山田吉次の家族についての情報が、思い、出せない?」
ずきん、ずきんと痛む頭を抱えながらも、リースはソファーから起き上がって、その書類を探そうとする。
否、書類は無い。
リースの記憶上、『それ』は確かに燃やして処分した。
電子データも、復元される可能性がないほどに消し去ったはず。
しかし、リースは自らが何故、それをやったのか、よく覚えていなかった。思い出そうと思えば、数年前の記憶の細部すら、客観的な視点で蘇らせることが可能なほどの記憶力を持ちながら、思い出せない。
即ちそれは、思い出してはいけない、と過去の自分が判断したということで。
「…………よそう。例え、この断念が何度目であったとしても。今は、やるべきことをやるしかない。そうだ、何に気づけたとしても、恐らく、もう遅すぎる」
リースは痛む頭を抱えながら、紫煙交じりの空気を吸って、吐き出した。
「ワタシが、やるしか、ないんだ」
そして、自分に言い聞かせるようにリースは呟く。
己の中にある不可解な恐怖を、噛み殺すように。
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殺すべきか、殺さないべきか。
それが犬飼銀治にとっての最大の問題だった。
『犬飼君。こちらとしては、無理強いはしません。貴方との今後の関係に問題が生じるのであれば、別の人員を用意しましょう。我々、カンパニーもそれぐらいの配慮はあります。けれど、申し訳ありませんが…………襲撃者、山口太河を無事に返すという約束は出来かねます』
「分かっていますよ、水無月さん。僕だってプロだ。一度引き受けた仕事は、きちんとこなす。何、所詮は少しの間交流しただけの奴です。何も問題ありません」
『だと、良いのですが…………ともあれ、今回は機関の合同任務です。いいですか? 在り得ないと思いますが、先方の仕事を邪魔する結果になれば、私も含めて貴方の立場も危ういです。何をするにしても、上手くやってください』
「…………了解」
カンパニーとの窓口である水無月からの電話を切ると、銀治は大きく息を吐いた。
そして、冷たいフローリングの床に寝転んで、天井を見上げる。
自分の部屋。
もう既に、過去の物となった犬飼家ではなく、未来を勝ち取った自分の部屋。
高級マンションの一室。
これから、順当に仕事をしていけば、カンパニーからは高水準の生活が約束されるだろう。だがそれは、カンパニーに都合が悪くなれば当然、生活の保障どころか、命の保証も危うくなるということだ。
カンパニーの仕事を辞めるぐらいならば、どうとでもなるだろう。むしろ、今後の生活について親身になって相談に乗ってくれるかもしれない。その程度には、銀治はカンパニーの人々と情を交わし合っていた。
だが、流石に人死にが出ているならば、話は別だ。
例え犯罪歴があったとしても、その犯人を捕まえるか、最低限でも殺さなければ、面子が立たないのだ。何せ、カンパニーとは機関とは違って、あくまでも個人の集団が利益のために所属している組織だ。
身内が害されたのであれば、きちんと報復を行わなければならない。
そうでなければ、所属するエージェントたちの心は離れていくだろう。
「カンパニーのためを思うのならば、捕獲を優先すべきだ。けれど、あいつのためを思うのなら、せめて、僕の手で殺してやらないといけない」
銀治もまた、そういう事情を知っているからこそ、今回は手を抜くことは出来ない。
見逃すことなどもっての他だ。
短い期間に育んだ友情に報いるとすれば、それは楽に殺してやることぐらい。
「そうだ、そうだろうさ。結局、こんなもんだ。僕の日常から、血の匂いが消えることはない。でも、でもなぁ……」
されど、銀治は呻き声を上げて、迷っている。
行動を変えるつもりなんてさらさらない。自分を犠牲にしてまで、庇うつもりは無い。そもそも、殺しているのだから、相応の報いがあるのは当然のことだ。
「僕が好きなライトノベルの主人公なら、もっと違う答えを出すんだろうなぁ」
だが、それでも、銀治が冷たい冬の中で憧れていた主人公は、こういう時、きっと、もっと違う行動をするのだ。
簡単に割り切ったりなど、しないはず。
そのように考えるほど、銀治の胸の中がぎしりと軋んで。
「…………まぁ、いい。きっと、都会じゃあよくあることさ」
銀治はどこか諦めたように、笑みを浮かべたのだった。
●●●
「えっ? 助けないのかい?」
「えっ?」
「……えっ?」
なお、そのようなことを照子に相談した結果、余りにもあっさりと疑問が帰って来た。むしろ、何故、そうしないのか分からない、とでも言うような顔で、言葉を返して来た。
正直、仕事の打ち合わせ場所が公共のファミレスでなければ、銀治はもっと狼狽した態度を見せただろう。けれど、何とか銀治は己の動揺を押し殺して、照子に尋ねる。
「ええと、照子さん。それはその、どうして?」
「いや、だって銀治君。君の話だと、夏休みに入る前はその子、普通の男子高校生だったのだろう? それが今では、君たちの組織の人間だけを殺す襲撃者。しかも、情報によれば、恐ろしく強い異能を持っている。ここまではいいかい?」
「は、はい。いいっすけど」
「――――明らかに、外部からの強化とか、洗脳とか入っているだろう、それ」
「あっ」
照子に指摘されて、銀治は初めて気づいたとばかりに、あんぐりと口を開ける。
「加えて、今回の襲撃の背後には、魔人集団が居ると説明しただろう?」
「……あ、あぁ、あぁあああ……そういえば、そう、だった」
「奴らの中には、思考や価値観を意図的に捻じ曲げて、粗製異能者として暴走させる魔人も居るからね。もっとも、それだけならばカンパニーの人たちをここまで攪乱できないだろうから、何か他の要素もあるかもしれないし」
「…………だけど、その、あれだ。カンパニーの面子としての問題が……」
「仮に、元一般人の君の友達が何らかの手段で操られていたとする。その場合、責は彼にあるのだろうか? 私はこの任務が始まる前、カンパニーの上役と顔合わせてしてきたけれど、少なくとも彼女はそんな人では無かったよ。無罪放免にはならないにせよ、むしろ、そういう黒幕をぶん殴ってこそ、面子が立つと考える人だと思うよ……だから、うん!」
ふむふむ、と照子は何やら一人で考え込んだ後、花咲くような笑みで言った。
「とりあえず、殺すよりも先に捕まえることを目標としようじゃないか。まずは捕まえてから、事情をきっちりと聞き出そう。殺す、殺さないに関してはそれからでいいはずさ。何、酷い洗脳や、肉体改造を受けていても、機関の人員は豊富だからね。異能を改造する力を持った人も、自他の肉体を自在に変化させられる人も、人格を弄れる人も居るんだ。だから、諦めるのはまだまだ、早いとは思わないかな?」
「…………ああ、そう、だなっ!」
その笑みに促されるように、銀治は力強く頷く。
照子の言葉は、冷たい価値観で固まっている自らを溶かしてくれるようで、不思議と、銀治はこの美少女――もとい、元アラサーと一緒に戦えるのならば、どんなことでもなんとか出来るような、そんな自信が生まれ始めていた。
「本当に手間がかかるが、助けていいのなら……僕は、あいつを助けてやりたい」
故に、銀治は動き出す。
生まれて初めて出来た友達を助け出すという、とても主人公らしい理由で。




