第87話 人を狩る猟師 1
呼吸が熱い。
「…………ぜぇっ、ぜっ、ぜっ」
喘息のように、苦しげに呼吸を繰り返しながら、彼はそんなことを思っていた。
人目のつかない路地裏。
誰も街を出歩かないような早朝。
生ごみの臭いに混じって、鉄っぽい生臭さが彼の神経を逆撫でする。
「ふーっ。ふぅ、ふっ……大丈夫だ、大丈夫。殺していない。殺していない。だから、大丈夫。俺はまだ、大丈夫だ……」
じくじくと痛む右の肩口を、左手で掴みながら、彼はコンクリートの壁に背中を預けた。
呼吸は熱く、視界は不明瞭。
右腕は灼熱のような痛みを常に訴えかけて、肩口から脳髄を焼き焦がそうとしている。
右手にべっとりと付着しているのは、彼の物ではない血液。所々が赤黒く乾き、不快な感触を精神に染みつけるように、彼の手に付着していた。
「は、はははっ」
彼は乾いた笑みを漏らして、自嘲する。
きっと、この汚れはいくら洗っても落ちないんだろうな、と。
「ははっ、はははは…………大丈夫、大丈夫なんだ。寝れば、寝れば、治る。寝れば、まだ、大丈夫……そうさ、そうだとも」
それでも、綺麗にするために、彼は赤い汚れを上着で拭う。ぐいぐいと、幼い子供がそうするように、必死にこすりつけて。
そして、用済みとなった上着をその場で脱ぎ捨てると――――その上着は、瞬く間に発火し、青白い炎に飲み込まれるように消えた。僅かな煙も、その場に立てずに。
「そういう異能だって、あるんだ。だから、大丈夫なんだ。きっと、次に目が覚めた時にはもう…………こんな、こんな悪夢なんて、忘れている」
朦朧とした意識で、彼は歩く。
うわごとを繰り返しながらも、誰からも注目されること無く、ねぐらへと戻る。
壊れかけた日常に、しがみ付くために。
真っ赤な記憶に、自分が侵されないために。
●●●
犬飼銀治は、カンパニーという組織に所属する猟師である。
得意分野は、魔獣のハンティング。
現世を脅かそうと侵入してくる魔獣に対して、自らの利益のために、銃弾を叩き込むのが銀治の生業だ。
未だ、成人にも満たない少年であったとしても、その腕は既に、一流から超一流の域に足を踏み入れている。魔獣相手ならば、銀治はカンパニーという組織に於いて、ダントツで一位に君臨するほどの討伐数を誇っているぐらいだ。
つまりは、自他とも認める実力者なのである、犬飼銀治という少年は。
幼い頃から、常冬の領域に閉じ込められながらも、多くの魔獣を狩った、生粋の猟師。
更には、外部からの協力者と共に、という条件は付くが、様々な不測の事態を乗り越えて、見事、一族の宿願を――『常冬の王』と呼ばれるランクBの魔獣を討伐したという、偉大なる功績を持つ退魔師でもある。
「…………はぁ、モテたい」
しかし、そんな偉大なる功績を持つ猟師は現在、マンションの個室で脱力していた。
皮張りの、かなり高価なソファーへと、猫のように身を沈めて。忌々しくも、好ましい暑さを遠ざけるために、少し低めの設定のクーラーを稼働させている。
服装は、短パンにTシャツ。
もちろん、防寒着なんて必要ない。
薪を沢山用意しなくとも、魔結晶を燃料にしたストーブを稼働させなくとも、寒さに命を脅かされることはない。
ガラスのテーブルを家具として置いても、気温差で割れない。冷たい飲み物を楽しむことも出来るし、放置していても液体は凍らない。
それは、ここが常冬ではなく、季節通りの夏であることを示していて。
銀治が既に、常冬の領域を破って、自由となった証明でもあった。
「モテたいなぁ、ちくしょう」
けれども、銀治の表情は浮かない物だ。
まるで、何処にでも居る普通の男子高校生のような欲望を吐き出して、鬱屈した感情を持て余しているように見える。
いや、事実、そうなのだ。
「というか、何故、僕はモテないんだ?」
銀治は現在、カンパニーによる偽装工作によって、普通の戸籍を入手。普通の男子高校生として、とある高校に編入を果たしていた。
しかも、都会も都会。大都会の進学校だ。もちろん、共学だ。カンパニーの伝手を使って、可愛い女子が居る高校を探し出して。おまけに、偏差値も少し高めで、学校の雰囲気も悪くなく。部活動もそれなりに活発という、銀治が理想とする高校を探して、そこへ編入していたのだ。そう、夏休み前の微妙な時期の……『季節外れの謎の転校生』として。
「おかしい……おかしいなぁ? 環境は完璧だったはず。入念に準備を重ねて、勉強もきっちりと済ませて。事前に流行の話題も把握して。転校初日の挨拶だって、噛まずに言えた。僕の正体にだって、誰にも気づかれていないはず……それなのに、どうして?」
銀治の準備は完璧であり、偽装は高度な物だった。
誰一人として、銀治が今まで、隔絶した領域で暮らしていた猟師だとは思わせない。少々違和感を抱かせることがあったとしても、『かなり田舎の方で通信勉強をしていた』という設定により、多少風変りな男子として認められていた。
そして、銀治自身、多少なりとも不安に思っていた自身のコミュニケーション能力も、カンパニーのエージェントとの度重なる交流によって、ある程度の水準に達していたのか、困ることは無かったのである。
少なくとも、夏休みが始まる前に、数人の友達が出来る程度には、銀治はコミュニケーション能力を有しているようだった。
「――――どうして、僕と美少女が運命の出会いを果たすような、青春ラブコメが始まらないんだろう?」
もっとも、度々、このような発言を呟いてしまう銀治なので、仲良くなった友達は全て、男子だったのだが。
「おかしいな。ラノベによると、僕みたいな背景を持つ男子高校生は大抵、転校初日に美少女と何かしらのイベントが起こるんだけど…………いや、この際、美少女じゃなくていい。贅沢は言いません。同級生の女子と会話するのもドキドキして、とても気分が良い物だし。逆に? 僕が普通ではないのならば、普通な背景を持つ女の子との、ちょっと変わった日常ラブコメが始まっても良いはず。なのに、今のところ、そういうイベントは皆無なのは……やはり、僕が何かを間違えているからなのだろうか?」
銀治は、ソファーでけだるげに体勢を変えながら、己の学校生活を思い出してみた。
基本的にカンパニーや魔物のことは誰にも話していない。この手の話題は、普通の日常を過ごす者たち……いわゆる、表側の世界の住人には不要な物だ。銀治も、その手の配慮はしっかりとカンパニーから教え込まれているので問題ない。
故に、中二病患者の如く、トンチキなことを話して、周囲から引かれるということにはなっていなかった。むしろ、季節外れの転校生として、それなりに女子からの興味も引けたし、予め用意していた田舎トークによって、クラス内では『田舎者だけれど、学校生活に新鮮な反応をしてくれる面白い奴』として認められている。流石に、友達とまでは言えないが、異性の連絡先も数人ほど手に入れるぐらいには、銀治はそのクラスに馴染んでいた。
それを夏休み前の数週間のうちに出来たのならば、学校生活は順調と呼んでも差支えの無い物だろう。少なくとも、コミュニケーション能力に難のある一般男子よりは、明らかにまともに高校生をしている。
「…………やっぱり、部活を自分で作らないと駄目かな? うん、そうか。自分で行動を起こさないと、美少女とのフラグを手に入れることは出来ない。うんうん、きっとそうだ。僕の青春ライフは、誰かから与えられるものではなく、自分で掴み取る物なんだ」
だが、銀治にはその普通という基準が分からない。
同世代の人間が大量に存在する空間に、居たことが無い。
表側の人間にとっての普通は、銀治にとって、その全てが非日常だった。
だから、銀治はラノベや漫画で描かれてある青春ラブコメも、フィクションであると理解しつつも、何処までがフィクションであり、リアリティなのか区別がつきにくい。
「だったら、夏休みの内に部員を探しておかないとな。出来れば、全員美少女が良いけれど、でも、下心で部活を作るのは違うな。なんかこう、本気で青春を楽しむために部活を作って、自然と美少女が集まる……これだよ! うん、僕には本気が足りなかったのかもしれねぇ!」
なので、普通の基準では十分、『順調な高校生活』を送っていても、銀治本人が気づけていないのだ。その基準を知らないからこそ、より高みを……いや、男子高校生の誰もが一度は想うような、妄想を実現させようと決意を固めた。
もっとも、銀治の決意が、銀治自身にとってプラスであるとは限らないのだが。
――――PRRRR!
「おっと、水無月さんからの連絡か。夏休み中だし、そろそろ仕事の依頼かねぇ?」
ただ、幸か不幸か、銀治が妙な行動を起こす前に、携帯端末の呼び出し音でキャンセルされた。携帯端末の画面に表示される連絡先は、銀治の仕事のパートナーであり、カンパニーの中でも相応の立場に居るエージェントである水無月だ。
『お久しぶりです、犬飼君。バカンスは楽しんでいますか?』
「ええ、かなり楽しめていますよ! まぁ、転入して直ぐに、夏休みになってしまったのは残念ですが、そこは予定通りなので仕方ありません」
『なるほど。報告によると相応に馴染めているようですが、夏休みを残念に思ってしまうようでは、まだまだ普通に男子高校生とは言えませんね』
「そうなんですか?」
『はい。年頃の男子高校生は、夏休みに無謀な勉強計画を立てて、夏休み後半に地獄を見るのが普通なのです』
「それって、ラノベだけのフィクションじゃなかったんだ!?」
ソファーでだらけながらも、銀治が水無月と交わす声には張りがある。
どうやら、カンパニーからの連絡は、暇を持て余していた銀治にとっても、悪くないタイミングだったらしい。
『さて、私としてはこのまま犬飼君とトークを楽しんでもいいのですが、そろそろ背後の上司が怖くなって来たので、仕事の話です』
「分かりました。それで、今回はどこの魔獣を狩ればいいので?」
『いえ、今回の標的は魔獣ではありません――――異能者です』
水無月からの言葉で、銀治は今回の仕事内容を正しく理解する。
つまりは、マンハント。
カンパニーは、獣ではなく、人を狩れと依頼してきたのだ。
「なるほど。捕獲ですか? それとも、殺害?」
『最高で捕獲。最低でも、殺害を依頼します。報酬は、いつもの三倍。詳しい内約に関しては、改めて、契約書を輸送しますが……引き受けますか?』
されど、銀治の声に、驚きは含まれていない。
それは、銀治が人を狩る仕事に慣れているというわけでもなく、ただ、普通の基準から倫理観が外れているだけの話だ。
普通の人間であれば、まともな社会的動物であれば、同族を狩ることに忌避感を持つ。
しかし、ずっと常冬の領域で、命のやり取りを繰り返して来た銀治にとって、そういう倫理観や道徳というのは、ただの『マナー』でしかない。
普通の日常を楽しむためのエチケットであり、同時に、破ろうと思えば、そこまで忌避感を抱かずに破れる程度の物でしかないのだ。
「そちら側からの情報提供にもよりますね。『二本足の獣』程度なら、容易く狩る自信はありますが、『人型の龍』を狩る自信まではありません」
『ええ、懸命な判断です、犬飼君。確かに、今回の標的は、『常冬の王』とまでは行かずとも、異能者としては上位の戦力を持っているでしょう。故に、今回は協力者が外部から付けられます』
「協力者? 言っておきますが、ギルドからの横槍は勘弁ですよ?」
『ご安心を。ギルドは現在、諸事情によりまともに機能していません。それに、協力者が派遣される組織は、ギルドよりも……いえ、我々カンパニーよりもよほど精鋭揃いです』
「えっ? あの、水無月さん、それって?」
水無月からの言葉に、銀治は焦燥とも、期待ともつかない妙な気分に陥る。
先の言葉は予想出来る。恐らくは、それが的中していることも。けれど、その先。もしも、その協力者の存在が、銀治の想像している彼女だった場合、一体、どうすればいいのか分からなかった。
『今回の依頼は、機関からの合同任務です。そして、貴方が以前、同行していた天宮照子という超級の戦闘員と共に、この仕事は行われます。あちらからは戦力の提供を。こちらからは、優れた猟師である銀治君の調査能力を求められています』
そして、予想通りの名前が聞こえて来た時、銀治は思わず息を飲んだ。
天宮照子。
絶世の美少女の姿を持つ、強力な退魔師。
脅威度ランクB上位の『常冬の王』と、さらにもう一体、戦闘特化の魔人の三つ巴になってなお、その両者を圧倒したほどの力を持つ異能者。
ある意味、銀治が常冬の領域から解放されるきっかけとなった人物である。
故に、銀治は照子に対して、かなりの好意を持っていたのだ。
――――中身が、元アラサーのオッサンという事実を知るまでは。
「おごごごご……」
『犬飼君。まだ、天宮照子に関するトラウマが癒えてないのですか? 肉体の傷はすっかり治ったというのに』
「残酷な真実を告げたのは、水無月さんでしたよねぇ!? ええい、納得できるかぁ! 初恋の相手が、アラサーのオッサンなんて!」
『最近は流行っているらしいですよ? アラサーのオッサンと高校生の恋愛』
「それは僕が女子高校生だった場合のパターンじゃん! 違うじゃん! 僕は男子高校生じゃん!!」
『そういう需要のある業界もあるそうです』
「そんな業界に行くつもりは無いよ!?」
『ははは……まぁ、どうしても一緒に仕事をするのが無理と言うのならば、今回の依頼はパスでも大丈夫ですが?』
「…………むぅ」
水無月の言葉に、銀治は数度、深呼吸をした後、冷静に思考を巡らせる。
それは、既に男子高校生としての顔ではなく、獲物を狩る準備を始める猟師の顔つきだった。
「とりあえず、情報が揃ってから決断しますが、前向きに検討しましょう」
『ありがとうございます。では、そのように』
こうして、銀治は猟師としての選択をする。
下心のような、心の傷のような何かは残っているけれども、それよりも、狩る者として、強力な前衛の存在は助かるという判断を下して。
銀治は、奇妙な縁に絡めとられることになったのだ。




