第86話 幕間:沈黙の休息
強く在れ。
それが、発生した直後からずっと、大山の魂に刻み付けられた命令文だった。
あるいは、使命、と言い換えても良い。
大抵、異界から現世へと侵入する魔物たちには、魂にそういう使命が刻み込まれている。だが、それは何者かからの指示ではなく、自分自身に対する命令のような物だった。
そう、魔物は大抵、使命を帯びて現世へとやって来る。
知性が低ければ、その使命は生存本能によって歪められてしまうことが多いが、知性が高い個体であれば、生存よりも使命の達成を目的とすることが多い。
例えば、子供を産みたいと願う魔人。
例えば、恋人たちを寿ぎたいと望む魔神。
例えば、優れた知性を持つが故に、身内だけではなく、より多くの同胞を守ろうと考えてしまった赤き躯の魔人。
そのため、大山もまた、生存よりも己の使命の達成を優先する。
命よりも、闘争を。
逃走よりも、闘争を。
絶体絶命の窮地こそ、己の強さを鍛え上げるための好機。
だからこそ、大山は紀元前よりもずっと前から、そういう在り方の生命体として活動していた。当時、異界が今よりももっと、現世と近しかった時から、ずっと大山は戦い続けている。
時に、災害としての名前で呼ばれ。
時に、鬼神として祀られ。
様々な形で、人間たちから畏怖と信仰を向けられて来た大山であるが、大山自身、それを気にしたことは無い。大山の記憶に残るのは、強者だけなのだ。
それが、肉体であれ、精神であれ、強い存在であれば、大山は興味を示す。例え、不倶戴天の敵であろうとも、敬意を持って接する。己が考える最大の敬意を胸に――――拳を構えて、殺し合う。
「やぁ、君が大山かい? うん、伝承通り、凄く強そうだ。困ったな、これは死んでしまうかもしれない。ふふふっ。まぁ、その時はその時で良いかもしれないね」
そして、大山は強さに従う。
己よりも、強い相手に従う。
どのような手段を用いても。それが、人間の感性で鬼畜やら、外道と呼ばれる手段での攻略だったとしても、大山を下して、従わせた者ならば、大山は隷属を拒否しない。
もっとも、大山を従わせることが出来た存在など、大山が発生してから長い年月の中でも、片手の指の数にも届かないのだが。
「ふぅー、なんとかなったかな? ふふふっ、そんなに驚かなくても。これは単に、運が良かった結果と言う奴さ。でも、そうだね。もしも、君が私に対して何か思うことがあるのならば、一緒に来てくれないか? その方が、私は助かる」
大山は強さに従う。
しかし、それは隷属契約だ。大山はあくまでも『強さ』という己の基準に従っているだけだ。仮に、従わせた存在が、自分よりも弱くなれば、何の躊躇いもなくそいつを殺すだろう。
だから、大山がこの世界に於いて、真なる意味で忠誠を誓っているのは一人だけだ。
「ん? 私の名前? そうだね、私は――」
侵色同盟、盟主。
世界全てを敵に回して、新たなる黎明を望む、組織の首魁。
かつて、傷一つすら負わずに、自身を完全に敗北させた存在にこそ、大山は心の底から忠誠を誓っているのだ。
それこそ、己の使命を捻じ曲げても良いほどに。
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「ワタシ、多分、近々死ぬかもしれないねぇ」
照子との戦いから一週間、人が立ち寄ることのない、険しい山脈のさらに高地。薄い空気と、岩肌しか無いような場所。人間ならば、居るだけで命を削られるような場所で、大山は休養を取っていたのだが、ある時、リースが顔を出して来た。
しかも、その表情はいつもとは少し違う。
草臥れた笑みを浮かべているものの、眼鏡の硝子越しに感じる瞳には、確かな闘志を宿している。しかし、それは主に、死ぬ覚悟を決めた戦士が抱く闘志に近しい物だった。
「はははは、心配しなくても、特攻なんてするつもりは無いよ。ちゃんと、いつも通り、万全を期して戦うつもりさ。でもね、大山。何回も戦ってようやくわかったことなのだけれどね? どうにも、ワタシと天宮照子との相性は最悪らしい」
熟練した登山家が、装備を整えてようやく到達できるという標高で、人型の二人は言葉を交わす。片方は襤褸切れ。片方は真っ赤なスーツ姿。両方とも、場所に適していない外見だというのに、何故か、奇妙なほどに風景に溶け込んでいた。
まるで、人が存在出来ない場所こそ、二人にとっての居場所だとでも言うように。
「…………」
「ああ、分かっているとも。ワタシが勝てないのならば、勝てる相手を用意すればいい。同盟の幹部を集合させても良いし。それこそ、我らが盟主ならば、きっと今のイレギュラー相手でも、完封して倒せるだろうね。いや、盟主ならば、奴の完全消滅も実現できるかもしれない。それだけの力を、あの方は持っているから」
リースの表情が苦々しく歪む理由を、大山はなんとなく察していた。
天宮照子。
悍ましいほどの異能を行使して、ついには、神の領域へと踏み入った怪獣。
封印によって、一時中断となった戦いであるが、大山はあのまま照子と戦っていたら、下手をすれば、負けていた可能性があると考えていた。いや、正確に言えば、『勝つことが出来ない』と判断していた。
何せ、その時既に、照子は大山の拳を受けても死なないようになってしまっていたのだ。恐らくは、全身全霊の力で大山が殴りぬいたとしても、照子は死なない。
そして、死なないのであれば、その場で即座に適応、変化を行い、より強い肉体を得て、再起動をするのだ。加えて、魔神の如く、周囲の環境から魔力を略奪可能であるとすれば、無尽蔵に再生して、強くなる怪獣と戦わなければならないことになる。
そうなれば、流石の大山も旗色が悪いことは理解していた。しかも、変化による強化範囲の青天井や、完全なる死亡から帰還する不死性もあるのならば、戦うだけ損な存在だろう。
もっとも、大山とすればある意味、己の理想の具現化みたいな強敵なので、仲間のためという制限が無ければ、そのまま死ぬまで戦い続けただろうが。
「でもね、大山。ワタシはあの方と、イレギュラーを会わせたくないんだ。理由は……何だろうね? 権能による計算結果じゃなくて、ただの勘なんだ。ワタシの権能では、確実に、被害を最小限に収めてイレギュラーを排除するにはそれしかない、と考えている。でも、どうしても不安が晴れない。あの方とイレギュラーがあってしまえば、どうしようもない何かが始まってしまう、そんな恐怖があるんだ」
「…………」
「らしくない、って? ああ、うん。ワタシは今、らしく無く、ビビっている。天宮照子というイレギュラーが怖くて仕方がない。未来予測の権能を軽々と乱して、不可能を可能にして、こちらの大切な宿願すらも、足蹴にしそうな怪獣が怖い」
大山はリースと浅からぬ付き合いであるが、ここまで、彼女が何かを怯えている様子は初めてだった。
そう、警戒ではなく、怯えだ。
リースの権能ならば、あらゆる物事を事前に予測し、演算し、どのようにでも対処できるように、準備を整えておくことが可能だ。事実、この権能により、侵色同盟は今まで、機関の監視網から逃れて来たし、計画実現まで、あと一歩というところまで来た。
だが、いよいよという段階で、リースの予測を狂わせてしまう存在が現れたのだ。しかも、それはリース個人を脅かすだけではなく、侵色同盟の計画自体を破綻させてしまう可能性がある。
「こんな恐怖は久しく感じていなかったよ、まったく。だから、そうかもしれない。結局、ここには弱音を言いに来たのかもしれない。友である君に、誰にも言えない弱音を聞いて欲しかったんだろうね…………うん、おかげですっきりしたよ、ありがとう」
「…………」
「ははは、そうだね。弱気になっていたのかもしれない。でも、それも今日までだ、ワタシはようやく覚悟を決めたよ。我らが盟主から、ありったけの権能は受諾した。機関を少しの間、機能不全にする計略も進めてある。殺せなくとも、奴の精神を少しの間、遅らせて時間を稼ぐ方法も考えている…………だけど、勝率が計算できない戦いになるだろう。だから、こうやって挨拶に来たのさ」
リースは恐れを乗り越えた先にある、晴れ晴れとした笑顔で大山に告げる。
「なんとか、天宮照子だけはワタシが何とかして見せる。だから、もしも、次にワタシが君と会えなくても…………『新しいワタシ』と仲良くしてやって欲しい」
それは覚悟の言葉だったかもしれないし、別れの言葉だったのかもしれない。
大山からすれば、それは大差ない物だ。ただ、友が何かを決めて、命を賭けると決めたのならば、黙って送ってやるのが、大山なりの激励である。
「…………」
「うん、頑張るよ。それじゃあ、また、会えたら……今度は、他愛なく、くだらない話でもしようか」
軽く手を振ると、リースは転移術式を発動して、この場から消え去った。
後に残ったのは、沈黙を続ける鬼神が一人。
「…………」
大山は強者の言葉を尊重する。
それが、友であるリースの言葉ならば尚更だ。よって、大山はリースの望み通り、天宮照子の討伐には関わらないことを心の中で決めた。
魔物としての本能は、強者と戦うことを望んでいるが、本能のままに暴れるには、大山は長く生き過ぎた。魔神と呼ばれるほどにまで、格を高め過ぎた。
それが劣化なのか、成長なのか、大山自身にも分からない。ただ、こういう立場に居ることを、悪くないと感じているようだ。
「…………」
ならば、と大山は改めての己の為すべき役割を考える。
本能の赴くままに戦う相手であれば、天宮照子こそが最高の相手だ。その果てに、自らの死があろうとも、大山は戦いを躊躇わない。
だが、天宮照子はリースが対処すべき存在となった。
よって、役割は自然と、機関が所有する超級の戦力との対峙となるのだが、その戦いに関しては、大山はあまりテンションが上がらない。
何故ならば、大山という魔神が相手ならば、機関が対処しようと出してくる戦力は、封印や遠距離攻撃、あるいは特殊空間への隔離などの物になるからだ。直接、鎬を削るのではなく、大山と戦わずに状況を終了させようとする戦略を行うのは、大山が世界有数の強者である証明であるが、それ故に、大山が望む戦いになる可能性は低い。
機関には、大山と正面から戦える実力者も居るだろうが、わざわざ、人材消費が激しい戦略は取る必要が無いのだから。
「可能性があるとすれば、特異点、か」
小さく呟かれた大山の言葉は、実に、三日間の沈黙を破る物だった。
大山は意図して、沈黙しているわけでは無い。
ただ、一人であるのならば、言葉を発する必要が無く。他者が近くに居る場合でも、本当に言葉を持って伝えるべきことは少ないと感じているだけだ。
想いを言葉にするということを、大山は非常に重要視している。己の言葉が軽くなることを嫌っているのだ。そのため、大山が沈黙しているのは、あくまでその結果であり、別に、意図して寡黙を気取っているわけでは無い。
だからこそ、大山が発した言葉には、大山自身にとって重大な意味を持つ。
「運命の選択権を持つ者よ。お前は、未来を手にするだけの力はあるか?」
だから、これは大山にとって最大の賞賛だった。
一度は、己の腕を切り落とし――――しばらくの間、その再生を『焼き殺す』ほどの力を見せた存在。
土御門治明に対して、期待を向ける言葉だったのである。
そう、『こいつとならばきっと、本気で殺し合えるようになる』という、余りにも身勝手な期待を、治明は鬼神から向けられていたのだ。
「…………」
久しぶりに言葉を発して満足したのか、大山は再び、岩肌に座り込んで瞑想を行う。
いつか、強靱なる心身を全て灰にしてくれるような好敵手との戦いを、待ちわびながら。




