第85話 幕間:対価無き力など、存在せず
エルシアは、その誕生から孤独だった。
父親も、母親も存在せず。生まれながらにして、死地に放り込まれて。製造された目的すらも、人伝に聞いたのみ。契約を結んだ魔物たちは、エルシアの家族ではなく、ただの手足。己の孤独を埋める存在ではなかった。
だからこそ、エルシアが治明に対して好意を持ったのも、一種の刷り込みと言われればそれまでだった。
倫理も道徳も知らない、ただの怪物であったエルシアを打倒して、人間にしてくれた相手に好意を抱くのは当然だ。もっとも、当初は野生動物の如く、強者に対する隷属だったのだが、いつの間にか、それは恋の芽を育んでいた。
『主様は、ワタクシのことをどう思っているのですか?』
以前、水面の魔術に影響されて、心を乱してしまったのも、それに起因している。
カプ厨である水面が発動していた術式は、恋を秘めた存在にしか通用しない。仮に、エルシアのそれが、力に対する隷属であったり、真なる忠誠であったのならば、心が揺らぐことは無かっただろう。
だから、心が揺らいだその時から、エルシアはずっと悩み続けていた。
治明が失恋した時は、主の告白が叶わないことに悲しみを覚えながらも、心の内から湧き上がる歓喜が抑えきれず。
治明が魔神と死闘を繰り広げた後からはもう、エルシアの理性は自らの感情を抑えきれていなかった。『治明が失われるかもしれない』という可能性を見てしまったが故に。
――――照子が間に合わなければ、自分が死んでいたという事実を理解していたが故に。
「主様、ワタクシは――――異性として、貴方をお慕いしています」
エルシアは、自らの衝動に耐え切れず、治明に告白してしまったのだ。
魔神が現れて、照子が大変なことになって、さらには機関の上層部すら混乱する出来事が起きているというのに。エルシアは自分の想いが口から飛び出るのを止めることが出来ず、つい、告白してしまったのだった。
何かロマンチックなシチュエーションがあったわけではない。
告白した場所は、いつもの事務所。
ふと、治明の横顔を眺めている時、エルシアの中の理性が耐え切れなくなって、告白してしまったのだ。
「…………そうか」
告白を受けた治明は、一瞬、驚愕で目を見開いた後、何かに納得したように沈黙した。
治明が沈黙した時間は、十秒にも満たない間だったが、その間、エルシアの脳裏は、不安と期待が渦巻き、何もかも考えられない状態だった。
「悪い、エルシア。今、俺はお前のことを、妹のような相手としか見られない。だから、俺はお前の好意に応えられない」
だから、エルシアは治明の返答の意味がしばらくの間、理解できず。
「…………あっ。そう、です、か。あ、ははは…………申し訳ございません。つまらないことを言いました」
理解が追い付いた時には既に、涙が頬を伝って流れ落ちてしまっていた。
●●●
水面はエルシアの事情を察すると、沈痛な面持ちで照子の方を向いた。
「ええと、照子さん。エルシアちゃんが良ければ、ならですが。私が、一階の喫茶店でお話をしてきてもよろしいでしょうか?」
「はい。お願い出来るのであれば」
水面の提案に、照子は頷いて答えた。
元々、水面を呼び出した理由の半分ほどが、エルシアの対処を目的としていたので、本人からそう申し出てくれるのであれば願ってもないことである。
何せ、エルシアは彩月と治明の前では、強がって何でもない風を装うので慰めることも出来ない。また、照子はエルシアの愚痴ぐらいなら聞いてやれるのだが、振られた女の子を慰めて元気を取り戻す方法なんて分からない。
照子は社会人として、子供に大人らしく接することは出来るのだが、共に戦場に立った同僚を慰めることは難しいのだ。そもそも、エルシアは照子に対して先輩風を吹かせたいところがあるので、下手に慰めたりすると返って逆効果になるだろう。
「エルシアちゃん、エルシアちゃん。私と一緒に、一階でパフェを食べませんか? そこで、ゆっくりと何があったのか、教えてください」
「…………ぐすっ」
「はい、ありがとうございます」
水面が優しく呼びかけると、エルシアは、返事はせずに、けれども、その手で水面のスーツの裾を掴んだ。どうやら、付いていくという意思表示らしい。
片理水面という女性には、こういう、自然と他者の心に寄り添う性質があった。それは、照子が社会経験によって身に付けた『上っ面』の社交術とは異なり、心の芯なる部分で人と付き合って来たからこそ、得られる性質だ。
照子はそんな水面とエルシアの姿を、何処か眩しそうに目を細めて見送った。
「さて、どうするよ、照子ちゃん? 本人があれじゃあ、立ち直るまで、修行を付けてやることなんて不可能だぜ? 何せ、並以上の力を短期間で手に入れるのなら、まず、自身の精神を掌握していないと、どうにもならねぇ」
けれど、その様子を眺めていたミカンは、二人が居なくなると、吐き捨てるように言葉を紡いだ。どうやら、ミカンはエルシアの事が気に入らないらしい。
「随分と辛辣な評価だね、ミカン」
「ガキは苦手なんだよ。つーか、ありゃあ、外見だけは女学生だが、中身は幼児みたいなもんだぞ? オレぁ、むしろ、一丁前に恋で悩んでいた方が驚いたね」
「まぁ、そこら辺は私たちが大人として、きちんと導いていけばいいじゃないか。というか、ミカンは私よりも、かなり年上なのだろう? だったら、相応の度量を見せて欲しいのだけれども?」
「かかか! おいおい、年を取ろうが、取るまいが! 人の度量なんざ、簡単には変わらないぜ? 嘘だと思うなら、老人ホームで介護の仕事でもしてみろよ? 枯れ木どもから、子供みたいな我が侭を聞かされる体験がたくさんできるぜ?」
「謹んで遠慮させてもらうよ。介護の仕事はブラックで給料も低いからね」
ニヒルな笑みを作るミカンに、肩を竦めてお道化る照子。
学生組とは異なり、精神的には大人の二人は、だからこそ、合わない部分をすり合わせない大切さを知っている。世の中には、『分かり合おうとしない方が良いこともある』という、道徳の教科書には乗っていない社会のマナーを理解しているからだ。
「つーか、話を戻すがよぉ……割とガチで、精神がぶれている奴に、オレの修行は無理。あのガキはあれでも、一級の召喚術師だぜ? そこを超級まで引き上げるんだ。あの精神状態でやれば、下手をしなくても死ぬっての」
「そっか。なら、仕方ないね。その分、私が何とか戦力を補おう」
「ばぁーか」
「あいたっ」
大人として、社会人としての義務を果たそうと頷いた照子であったが、そんな照子の頭を、割と強くミカンが叩く。脅威度ランクCぐらいの魔物であれば、致命傷を負うぐらいの術式を込めて叩いて――――それでも、照子の肌には傷一つ付かない。それどころか、毛髪の一つすら散ることなく、平然としている。
「お前さんは今でも十分過ぎるぐらい、過剰戦力だっての。それを自覚しろ」
「うーん……言わんとしていることは分かるのだけれど、ちょっと力に振り回されている気がするからさ。私としても、他者を葬る力よりも、身近な誰かを守るための力として使いたいからね」
「無理」
「あ、真顔で即答されると意外としんどい」
微妙に凹む照子であったが、それでも、ミカンは言葉を続ける。
「それは無理なんだよ、天宮照子。その理由はもう、お前さん自身が、よくわかっているはずだろう?」
「…………やっぱり、難しいかな?」
未だに、希望を持とうとする照子に対して、間違いを起させないために、ミカンはあえて厳しく断言する。
「不可能だ。お前さんが手を抜いている状態なら、相応に戦えるだろうよ。でもな? 全力での戦闘……いや、その半分でも駄目だ。戦闘の余波で、お前さんの同僚が死ぬ。よしんば、死ななくとも、死なないぐらいに鍛え上げても、肩を並べて戦っても互いに邪魔になるだけだ」
「そっかぁ。やれ、強くなり過ぎたってところかな?」
「ああ、強くなり過ぎたよ、照子ちゃんは」
冗談めかして言う照子だったが、応えるミカンの言葉は冗談ではない。
「オレの見立てが甘かった。あの領域内なら、さほど、現実の肉体には影響を及ぼさないと考えていたんだが、予想以上に、照子ちゃんのタガを外してしまった。オレが、こうやってわざわざ機関の前に姿を現して、照子ちゃんの封印を施しているのも、責任を感じてのことさ」
「…………」
「照子ちゃん。嘘偽りなく答えてくれ…………ぶっちゃけ、やろうと思えば、自力で転神術式を発動できるんだろ?」
常に、悪ふざけをしているようなミカンの態度が、この時ばかりは鳴りを潜めていた。
真剣に。責任の一端を持つ者として、照子に問いかけている。この問いかけに対して、虚偽で答えることは恐らく、末期の患者が、医者に対して虚偽を答えることと同じだろう。
故に、照子は正直に答えた。
「そうだね。やろうと思えば、私は既に、この惑星を破壊できるよ」
機関の上層部に知られれば、全面戦争は間違いなしの事実を。
「やっぱりか。正直、そこまで行くとは思ってなかったぜ、このオレもな。どうりで、予想よりも封印の術式が消費されるペースが早いわけだ」
退魔機関はあくまでも、世界の秩序を守るための組織だ。
そのため、秩序を乱す可能性を持つ存在に対しては、厳しく制限を行う。あるいは、対象の善悪を無視して、排除を行うかもしれない。
ただ、この問題はそこではなく。機関が天宮照子という存在に対して、どういうリアクションを取ることではなく。
――――もはや、機関ですら、天宮照子という怪獣を持て余しているということだ。
「ねぇ、ミカン。ちゃんと答えたのだから、君も私の質問に正直に答えて欲しい」
「…………ああ、良いぜ。照子ちゃんをそうしてしまったオレとしては、可能な限り、誠意をもって対応させてもらう」
照子は己の体を、事務所のソファーに深く沈ませると、呟くようにミカンへ問いかける。
「私が、人間の精神性を保っていられるのは、後、どれくらいの猶予があるかな?」
【不死なる金糸雀】という異能を得た時から、薄々感じていた疑問を。
自らの内に隠していた、恐怖を。
「自覚してんだな、照子ちゃん」
「そりゃあね? 流石に、『強力な異能を手に居れば、無双ライフじゃーい!』みたいな能天気にはなれないさ。常識的に考えて、何のリスクも無い力なんて存在しない。ならば、死すら否定して、どんな異能、魔法にすら対応して、成長を続けていくこの異能には、どんなリスクがあるのか? それは、この私の精神性が証明していると思う」
照子はもう、大分前から理解していた。
天宮照子ではなく、山田吉次として異能を得た時から、既に、【不死なる金糸雀】の危険性に気づいていたのである。
いくら、元々の精神性が異常だったとしても、ある日、いきなり退魔師となって活躍できるのはおかしい。
人と似た姿を持つ魔人を、何のためらいもなく殺せるのは、頭がおかしい。
自らの命を引き換えに、恐るべき敵を討とうという覚悟を決められるのは異常だ。
肉体全てが別人へと変わって、最高神用の肉体に魂が入ろうとも、自我を保ち続けるのは異常が過ぎる。
だから、これは異常ではない。
異常が重なり過ぎれば、それは単なる常道だ。
つまり、【不死なる金糸雀】という異能を持つ者にとって、これは普通のことなのだ。
「私の異能は恐らく、『私のためにある物ではない』と思うんだ。なんと言えばいいのかな? 何か、大きな流れ……運命の奔流とも呼ぶべき何かを味方に付けて、『来るべき結末』を実現させるために、私自身を部品にする。そんな異能だと思う。だから、厳密に言えば、この異能は私自身の物じゃあなくて…………何かから、与えられた使命みたいな物だと考えているんだ。私の肉体も、精神も、その使命のための糧に過ぎない。だから、きっと」
だからこそ、照子は普通に言葉を告げる。
「それを実現させるために、私の精神が不要と考えれば、【不死なる金糸雀】はきっと、私が私であることすら、変化させてしまうと思う」
例えそれが、自らの寿命を規定させる言葉だったとしても。
努めて冷静に。理性的に。自動車の残り燃料でも告げるように、日常の延長線みたいな口調で、普通に言うのだ。
「なんて、アラサーになってまで、痛々しい中二病みたいな本音をさらけ出してみたのだけれど。実際、残りはどれくらいかな?」
「そう、さなぁ。このまま何事もなければ、という条件を付ければ、一年はのんびり暮らせるだろうよ」
「全力で戦えば?」
「残り一回の保証も出来ない。だが、逆に言えば、照子ちゃんの人格が、有為だと異能が判断すれば、精神性の変化はあまり起きないだろう……現に、今だって精神のひな型は変わっちゃいない」
「なるほどね、うん。それは朗報だ」
朗らかに笑って、照子は頷く。
けれども、それは諦めるための笑みではない。
「私の性格は今のところ、魔物と戦うのに適しているからね。そこまで大幅な変化は無いと思っていい。転神術式を遣わなければ、異能による色んな強化も、あまり酷くならないと思う。だから、うん、だからその内に…………どうにかしないとね」
困難な何かに挑む者が、強がるための笑みだ。
「へぇ、意外だな。お前さんの特性上、『社会人として、誰かを守るために自分を犠牲にするのは当然』みたいな思考かと思ったのに」
「ははは、出会って間もない君に、そんなことを言われるなんてね。でも、残念ながら、不正解だよ、ミカン」
ミカンの言葉は、山田吉次だった頃ならば、文句のつけようがないほどに正解だっただろう。
だが、今は天宮照子なのだ。
誰かのために死んだアラサーではなく、愛しい者と共に在るために蘇った美少女だ。
「今の私にとって大切なのは、社会人であるよりも、彩月を悲しませないことだからね。この程度の難題で、挫けてなんかいられないのさ」
故に、照子は困難に挑む。
最強に近しい力を持つが故の難題を見据えて、それから逃げずに、立ち向かう。
社会人としてではなく、芦屋彩月の恋人として。
愛しい人の涙なんて見たくないという、とても平凡な理由で、運命と戦うことを選んだのだ。




