第76話 落陽は再会と共に 10
『マホロバの鏡』と呼ばれている神器が存在する。
それは、文字通り、マホロバという理想郷へと繋がっており、来訪者の命が途絶えるまで、安らかにもてなす神器だ。
リースが照子に対して、強力な封印道具として用いたこの神器であるが、当然、制限は多く存在する。
まず、使用条件は月の出ている夜に、封印すべき対象を鏡へと映すこと。マホロバの鏡は、ツクヨミという魔神の権能を扱う神器であるので、その力が一番増す、月の出ている夜でなければ使用は不可能なのだ。
そして、回数制限として、百年に一度しか、『マホロバの鏡』は人を招かない。どのような手段を用いても、この回数制限を『外側』から解除することは不可能だろう。
だが、元々はこの『マホロバの鏡』に回数制限など存在しなかった。
制限などは無く、ただ、望むままいくらでも人を理想郷へと招き、もてなすという存在だったのである。
これを、無害だと思うだろうか?
『マホロバの鏡』が生成されたのは、かつて、飢饉や疫病が流行し、民草に苦しみが満ちていた時代のことだった。
とある神主が、自らが仕える神へと慈悲を乞い、結果、権能が宿ったのが『マホロバの鏡』という神器だ。そう、元々は衆生を救済するための道具だったのだ、これは。
飢えに苦しむ者には、腹いっぱいになるほどの食べ物を。
病に苦しむ者には、自在に動ける健全な肉体を。
身内を失った者には、記憶の中にあるその人を再現した夢幻を。
苦しむ衆生を一人でも多く救うための鏡。
それが、『マホロバの鏡』と呼ばれる神器の正体だった。
「あーあ、予想通りになっちまったなぁ、おい」
それは、紛れもなく救いだっただろう。
それは、苦しむ人々にとっての理想郷だっただろう。
だからこそ、『マホロバの鏡』は神器の中でも、最も多く人間を殺した存在として、裏の歴史に残ることになった。
単純な話だ。
努力して、努力して、苦しんで、苦しんで、ようやく一杯の酒と麦飯が得られるような時代で、ただ生きることを放棄するだけで死ぬまでの幸福が約束される。
そんな方法を知ってしまえば、何もかも馬鹿馬鹿しくなってしまう。
実際、『マホロバの鏡』が与える理想郷はまさしく、当人にとっての最高の幸福であり、鏡に映し出された内側の人々の生活は笑顔で溢れていたのだ。
もちろん、最初から『マホロバの鏡』を信じていたわけでは無いのだろう。だが、一人、また一人と苦しさに飲まれて、理想郷へと逃げていく人々が増える度に、残される人はこう思うようになったのだ。
自分も理想郷に招かれれば、また、消えてしまったあの人に会えるのだろうか、と。
「大体、神の力だぜ? 権能だぜ? んなもん、人に扱えるわけがねぇだろうが、馬鹿らしい。ったく、清明が生きてりゃあ、こんなことにはならなかっただろうによぉ。オレよりも先に、さっさと死んじまいやがって…………なんて愚痴を言えば、『何百年前のことを言ってんだ、婆さん』と返される始末。やれやれ、年寄りには辛い時代だぜ」
苦しみに満ちた人間は、現実よりも理想郷を選ぶ。
努力が結ばない人間は、現実よりも理想郷を選ぶ。
不条理に敗れた人間は、現実よりも理想郷を選ぶ。
例え、それが偽物の幸福だったとしても、上手く騙してくれるのならば、人は理想郷を選ぶのだ。
何故ならば、この世界には強い人間よりも、弱い人間の方が多いのだから。
圧倒的に。
されど、人から見れば理想郷でも、人類から見たらその神器は害悪でしか無く。
「つーわけで、時が来るまで、ちょいと骨休めの休暇でも貰うとするかね」
機関の日本支部――かつて、陰陽寮と呼ばれた組織は、神器の排除を決定した。
そう、決定したのだが、下手に破壊すれば魔神が降臨する可能性を秘めた神器である。藪を突いて蛇を出すよりは、『厄介者』の好意に乗っかって神器を弱体化させることを選んだ。
つまり、一人の人柱として術者を『マホロバの鏡』に取り込ませることによって、内部からその権能を制限したのである。
そのため、『マホロバの鏡』は百年に一人しか、人を招かなくなった。
「さてさて、目覚めの時は来るのやら」
その後、『マホロバの鏡』は様々な思惑が絡み合い、日本だけでなく、世界各地を転々とした結果、リースという魔人の手に渡ってしまう。
だから、これは縁だ。
何百年もの時を経て、二人が出会うための縁だったのだろう。
●●●
天宮照子は幸福を感じていた。
彼女は、生まれながらにして全てを備えていたと言っても過言ではないだろう。
厳しくも家族思いの父親。
朗らかな笑みを浮かべる優しい母親。
二人の両親に惜しみない愛情を受けて育ち、何不自由ない幼少期を送ったのだろう。
「照子ちゃん、一緒に遊ぼう?」
「照子ちゃん! 照子ちゃん! 僕、ゲーム買ったんだ! 一緒にやろうぜ!」
豊かな愛情を受けて、両親の美貌を受け継いだ照子は人気者だった。
性格が良く、他人の気持ちをよく理解して、誰かと共に悲しむことが出来る。
そのような美少女が、人気者にならないわけがない。
もちろん、嫉妬や悪意に晒されたこともあるが、照子は持ち前の勇気と、友達との絆によってあっさりと返り討ち。
悪い奴は塀の中。
改心したクラスメイトは、今では親友の一人。
「やった、照子ちゃんと一緒の学校だー」
「腐れ縁だな、よろしく」
「一緒に勉強頑張るのですよ!」
仲の良い幼馴染と一緒に、頑張って勉強をして、ちょっと良い高校へ。
田舎から少し離れた高校での寮生活だけれども、友達が居れば怖くない。苦しくない。
当然、ずっと楽しいことばかりではないが、照子は信じている。決して、この世界に乗り越えられない試練などは無いと。
「て、照子……実は俺、お前のことが……」
そんなことよりも、照子にとって大切なのが恋の悩みだ。
照子の周囲には、一癖も二癖もあるイケメンたちが居て、何故かは知らないけれど、ちょっかいをかけて来るのだ。敵意は無いから放っておいたけれども、まさか、告白をされるとは。
「照子、僕と一緒に居てよ」
「照子、私にはお前が必要だ」
混乱する照子に、さらに追い打ちをかけるように告白を続けるイケメンたち。
一体、照子の学園生活はどうなってしまうのか!?
「――――どうにもならんわ、どあほうぉおおおおおおおおおお!!!」
などという情報が、異界に取り込まれると同時に脳内に展開されたので、照子はとりあえず、魔力の全力放出で周囲を塵に還すことにしたのだった。
●●●
私は最低の気分だった。
まんまとリースの罠に嵌められたこともそうだが、異界の中にぶち込まれた瞬間から、脳内で高速上映されたクソみたいな記憶が気に入らなかったのである。
まぁ、なんとなくは分かる。
この異界に取り込まれた時に、この異界自体から説明というか、情報が私の脳内に入って来たからだ。
『ここはマホロバ、理想郷。苦しむ衆生を救う、永遠の安らぎ』
つまり、『お前はここで永遠に眠らせてやる』という宣戦布告だった。
その上、私に対して嫌がらせの如き、偽装記憶で洗脳しようとしていたのだから、これは宣戦布告以外の何物でもないだろう。
――――面白れぇ。
私は瞬く間に戦意を昂らせた。
「くくく、大山とかいうあの鬼と戦って上がりに上がったボルテージ。ここでテメェが晴らしてくれるのか? そりゃあ、有難い」
私は魔物との戦いでは、滅多にテンションが高まらない。口調が乱暴になって居る時があるかもしれないが、あれはわざと。ただの威圧程度の効果を求めて、最初の討伐から演技を行っていたら、いつの間にか癖になったのである。
ただ、大山という鬼との戦いは、不謹慎ながら楽しかった。
どんどんと、絶対的強者に追いついていくあの感触。拳を介して叩きつける、互いの言葉。あの肉体言語での交流は、私が生きて来た中でも、トップクラスに『ズレ』が無くやり取り出来ていたと思う。
それを邪魔されたのは、最高級のフルコースを堪能しようとしていた時に、いきなり目の前で泥をぶちまけられた気分だった。
故に、私はまず、この異界――『マホロバ』の抹消を目指すことにした。
「…………ふむ」
まず、感じたのは違和感だった。
例えるのならば、一瞬の白昼夢から覚めた後に近い。夢の中では、丸一日過ごしていたような気分だったのに、目覚めて見たら一時間も経っていないような、そんな感覚。
「時間の流れが現実と違うのか?」
さて、仮説を立てよう。肉体が感じる時間の流れと、この異界で流れる時間の流れは違う、と。現実よりも遥かに早く、走馬灯が常に全力で回っているかの如き時間の流れだ。意識して気合を入れている間はともかく、少し気を緩めるとこの時間の流れに取り込まれて、先ほどのクソみたいな記憶を再度ぶち込まれるかもしれない。
「うーん? 封印するなら、異界内の時間は遅く設定した方が良いと思うのだけれども? それに、幸福に微睡ませることは確かに有効な精神攻撃かもしれないけれど、そんなことをするよりも、相手の意識をシャットアウトするようにした方が効率的だ。なのに、それをしようとしてこないのは、あくまでこの異界が『理想郷』とやらを演出するための舞台装置だからか?」
現在のところ、抵抗する私を害そうとする意志はこの異界からは感じない。
それとも、相手にするまでもない、という状況なのだろうか?
…………ともあれ、必要なのは情報だ。
「神隠しに近い状況か? それも、単なる隔離された空間じゃなくて、この空間自体が一つの世界になっている? 単純な破壊では、分が悪いかもしれないね」
私は改めて周囲を見渡す。
周囲は私の乱暴な一撃によって、大体、瓦礫となだらかな地面しかなくなっていた。恐らく、その一撃を叩き込む前には、捏造された記憶の通りの環境が、私の周囲で構築されていたのだろう。
どうやらここは、本人が望む幸福を再現するために、周囲の環境を変える異界らしいから、記憶を定着させた後は、ここでおままごとのように暮らさせる算段だったのかもしれない。
だったらせめて、男の時の姿で、もっとマシな記憶を捏造してくれと思う私だったが、もしかしたら、私はこの『理想郷』の中ですら、何かがずれていたのだろうか?
幸福を定義する世界ですら、私に幸福を与えられなかったのだろうか?
いや、今は余計なことを考えるのはよそう。
自問自答はここから脱出した後でいい。
「…………ふむ。無人だね。あの記憶の最後からは、人が居たように見えたけれど……まぁ、幻か。んでもって、私がこの異界に飲まれたら、改めて演出する、と。合理的で無駄のない設定だよ、まったく」
私が消し飛ばした場所以外を回ってみたが、周囲の街並みは無人だった。
試しに誰かの家屋の中に入り込むと、そこにはたった今まで生活をしていたような痕跡が残っている。さながら、私が覚醒した瞬間に、世界中から人が消え去ったかのように。
あるいは、『ような』ではなく、まったくその通りのことが為されているのかもしれないが。
「…………破壊行為には、反応なし、か」
怪獣の如く、無人の街を破壊してみたが、異界側からの反応はない。
壊れた建物が直るわけでも、建物を守ろうと何かの力が働くわけでもない。だが、暴れれば、暴れるほど魔力が減っているので、完全なる夢幻の世界というわけでもないらしい。
加えて、ここでもマナは吸収可能だ。
となると、最悪、物凄く暴れまわってから、どんどんマナを吸収して、異界のマナが途絶えるのを狙っていくのもいいかもしれないが、現状ではちょっと底が見えない。湖の水を、コップで掬って飲み干そうとしている気分だ。
徒労とまではいかないが、完全に異界を掌握するには年単位の時間を要するだろう。
「どうしたもんかね」
私はフィジカルに優れる代わりに、魔術全般はまるで使えない素人だ。
こういう時、彩月が共に居てくれれば何かしらの解決案や、異界に対するアプローチを提示してくれるのだから、こういう時にありがたみを噛みしめる私である。
さてさて、そうなって来ると、いよいよ異能の出番となるのだが…………うん?
「はろはろー♪」
「…………はい?」
無人であるはずの街を、眼前の道路を、悠々と歩いてくる人影が一つ。
目を凝らせば、それが女子高生であることは直ぐに分かった。しかも、都会の私立学校にありそうな、おしゃれなデザインのブレザーだ。
私は突然の事態に頭が混乱するも、とりあえず、身構えて戦闘態勢を整えておく。
しかし、奇妙なことに、私の直感は謎の人物に対して、警戒は告げず、むしろ『親しみ』すら感じる気配を察してしまい、戸惑う。
「よぉ、客人。お前を、四百……いや、五百年ぐらいは待っていた」
そんな私の戸惑いなどきにもかけず、謎の女子高生は私の眼前に立つ。
まるで無防備。いつ攻撃を受けても、即死するような隙の多さで、けれど、不思議と毒気を抜く笑みを浮かべて。
「さぁ、オレと一緒にこのクソッタレの理想郷をぶち壊そうぜ!」
「えっと、どなたです?」
私は、理想郷の破壊者と出会ったのだった。




