第73話 落陽は再会と共に 7
芦屋彩月が、弟のことを思い出す時、いつも最初に記憶から浮かび上がるのは柔和な笑みだ。
「ごめんね、姉さん」
申し訳なさそうに視線を向ける弟の姿は、普段と何も変わらないように見えた。
平然と大人の退魔師を追い越して、様々な魔術を身に付けていく姿。
何百年も、どんな魔術師相手でも心を開かなかった式神と心を通わせた姿。
自宅では常に半裸、季節によっては全裸で過ごそうとする姿。
そのような日常とあまりにも変わらない微笑みを浮かべていたから、彩月は戸惑ってしまったのである。
地面に這いつくばって、必死に手を伸ばす私に何故、どんな笑みを?
まるで、別れることを最初から分かっていたみたいに。
「さぁ、行こうか、大山」
「…………」
「いいんだよ…………姉さんは、巻き込みたくない」
彩月は知らない。
弟が――芦屋陽介が、怪獣の如き、巨大な鬼と交わした言葉の内容も。
どうして、芦屋家から離れなければならなかったのかも。
そもそも、弟の正体すら、彩月は知らない。
あるいは、ずっと知らないままだっただろう。グレと出会い、山田吉次と共に任務を果たし、天宮照子を相棒としなければ、知らずに『その時』を迎えただろう。
よって、この再会はイレギュラーである。
本来、二度と会うことのない二人の縁が、再び結ばれてしまったのだ。
その再会が、世界に何をもたらすことになるのかも、知らずに。
●●●
「どうして?」
彩月はまず、眼前の陽介へ問う。
何故、と。
余りにも多くの疑問が彩月の脳内で荒れ狂っているからこそ、つい、口から問いが零れてしまったのだろう。様々なことに対して、意味を尋ねる問いが。
「そうだねぇ。じゃあ、まずは順番に行こうか。あ、立ち話も難だから、お茶でもしながらゆっくり話す? お互い、そういう個人空間は持っているよね? あ、言っておくけれど、ハル兄さんは大丈夫だよ。戦っているのは僕の仲間だからね。出来るだけ殺さないようにお願いしていたから。だけど、まぁ、頼まなくても、あの人は特異点だからなぁ。然るべき時にしか、死ねないと思うのだけれど…………と、ごめん。ついつい、再会が嬉し過ぎてはしゃいでいるみたい、僕」
変わっていない、と彩月は感じた。
眼前の陽介は、少年らしく成長を遂げていたとしても、紛れもなく陽介本人。興奮して、テンションが上がると、ついつい長く語ってしまうところも。
「…………ふぅ、これでよし。落ち着いた」
その場のノリで、上半身の服を脱ぎ捨てて、肌面積を多くしてしまう悪癖も。
全て、言動が彩月の知る陽介そのものだった。
「…………陽介、服は着なさい」
「えー?」
「蚊に刺されるわよ?」
「うーん、ここら辺一帯にはもう、まともな生命体は居ないんだけど、まぁ、そうだね。久しぶりに会ったんだ。姉さんの顔を立てようかな、弟らしく」
服を脱ぐ姿も。
注意された時、肩を竦めて服を着る姿も。
一挙手一投足が、彩月に対して確信を持たせるには十分だった。
いや、そのような証拠などが無くとも、彩月の中にある魂が、紛れもなく、眼前の魔術師を――格上の敵対者を、弟であると認めてしまっているのだ。
「さて、それじゃあ、説明しようか。まず、六年前のあれは、自作自演だよ。あの怪獣みたいな鬼は、僕が仲間に頼んで、それらしく変化して演出してもらっただけの話さ。本当は、安易な巨大化なんてしない方が強い奴だけど、あの時はインパクトを優先したくてね? 実際、姉さんも、機関も、芦屋の一族も、僕が死んだって思いこんだだろう?」
「…………は?」
「六年前のあの時点で、僕が芦屋家に居る意味が無くなったからね。周囲に怪しまれないように、派手なお迎えを頼んだのさ。そして、今、こうやって姉さんの前に居るのは、僕個人としては、単に久しぶりに会いたくなっただけだけれども…………うん、まぁ、これぐらいなら言っても大丈夫か」
陽介は告げる。
柔和な笑みを浮かべて、朗らかに。
慈しみと愛情を持って、己の姉へ、真実を告げる。
「僕は機関と全面的に敵対する予定の組織に所属しているからね。こうやって、退魔師たちと相対するのは、当然の流れってわけだよ」
弟が、かつて共に育ち、親愛を交わし合ったはずの存在が、敵対者であるということを。
「ああ、言っておくけれど、大丈夫だよ。機関と敵対なんて言っても、今のところ、積極的に誰かを殺す予定なんてないから。でもちょっと、ほら、あいつ。天宮照子。あいつだけは、事が済むまで封印させて貰うけれどね? 姉さんの仲間だって言うなら、癪だけれども、無事に帰すよ。しばらくしたらね」
陽介が平然と告げる言葉の数々に、彩月は戸惑った。
まず、どうして陽介が、魔人たちに与しているのかが分からない。仮に、魔人と仲良くなったとしても、陽介は魔人を上手く懐柔し、人間側へと寝返らせるぐらいの芸当は朝飯前で出来るはずだからだ。与するぐらいならば、懐柔し、抱き込むのが陽介の常套手段だった。
次に、機関と敵対する組織に所属している理由が分からない。カンパニーなど、冷戦状態の敵対組織は存在するが、それはあくまでも、人間社会のルールに沿っての敵対である。全面戦争や、皆殺し前提の戦争などは滅多に起きないのだ。だが、今回の異能者大量発生事件のように、社会の秩序を乱す組織に対して、機関は温情を与えない。
世界秩序の名の下に、冷酷なまでに正しく、敵対者を排除する。それこそが、世界最大規模の国際組織、退魔機関である。いかに陽介が規格外の天才とはいえ、機関と敵対するのはあまりにも無謀過ぎることなのだ。
そして最後に、動機が分からない。
何を求めて、何のために世界秩序にすら敵対しようとしているのか? それが何よりも、彩月が戸惑う理由だった。
何故ならば、陽介は決して、無謀な企みに手を貸すほどの愚者では無いからだ。
「陽介」
「何? 姉さん」
まだまだ、彩月の心の乱れは収まらない。
陽介が生きていてくれたという無類の喜びで体が震えそうになりながら、陽介と敵対するかもしれないという絶望の足音に身を竦ませてしまう。
それでも、彩月は退魔師として、陽介へ問いかけた。
「貴方の目的は何?」
「――――世界平和」
刃で斬り込むが如き問いに対して、陽介は平然と答えを返す。
ただし、相手にしていないのではない。真正面から言葉を受け止めて、冗談ではなく、本音の本気で切り返したのだ。
「残念ながら、これ以上は企業秘密だよ、姉さん」
「…………そう」
「でも、安心して欲しい。決して、悪いことにはしない。世界中から苦しみを消し去って、僕たちは、有史以来、実現出来なかった理想郷を実現させて見せるから。その時はきっと、誰しもがそれを受け入れてくれると思う」
本気の言葉であり、正気の目だった。
陽介は変な思想にかぶれておかしくなったのではなく、本気で、世界平和という夢想を実現させようとしている、と彩月は感じた。
けれども、同時に、それが動機の全てではない、という確信も彩月の中にはある。
世界平和? 世界中から苦しみを消し去る?
確かに、それは尊いことなのかもしれない。だが、違和感がある。陽介は周囲に対して寛容であり、大人びた態度で接しているが、その実、かなりのエゴイストだ。
事実、自らの目的のために、周囲に傷を残すことも厭わない。
皮肉なことに、彩月は再会できた今だからこそ、陽介という弟のことをより深く理解し、『隠し事がある』という確信を得ていたのである。
「だから、しばらくしたらまた会えるよ。今度は胸を張って、大手を振って、姉弟水入らずでゆっくりと話が出来るさ」
「…………それ、は」
しかし、それを問うても答えが返って来ないことは彩月も理解していた。
陽介という人物は、肝心なことを話さない。例え、身内だろうとも、情に絆されずに隠し通すことがある。そして、その隠し事が、世界の秩序を覆す可能性もあるのだ。
そうでなくとも、現時点でかなりの被害を及ぼした事件の関係者であるのならば、機関としては放置することはあり得ない。
機関としてはあり得ないが、姉としてはどうなのだろうか?
退魔師として動くべきか?
それとも、今度こそ、姉として守るべきなのか? それが、正しくないことでも。
『いや、まずは怒るところだよ、彩月。結局、あれだろう? 御大層なことをいくら並び立てたところで、所詮は家出したガキが何か言っているだけだろう? だったら、姉としてやるべきことは一つじゃないかな?』
己が思考に飲み込まれ、何も動けなくなる寸前、彩月の脳裏に天啓の如く照子の声が響いた。
もちろん、実際に言葉を告げられたわけでもなく、テレパスみたいな能力で通信したわけでもない。もしも、こんな時、照子ならばどうするだろうか? という彩月の疑問に対して、少なくない年月を共に過ごしたことにより、勝手に脳内が照子の声で答えを返したのだ。
無論、本当の照子がこの通りに言葉を返すかどうかは不明である。
それでも、妄想の答えだったとしても、彩月にとっては十分だった。
「ねぇ、陽介」
「何? 姉さん」
「そういえば…………本気で姉弟喧嘩なんて、したこと無かったわね。我が侭を言うのはいつも私。弟の癖に、貴方はいつも正しくて、大人で、私の方が悪くて、子供だった。だから、喧嘩になる前に、いつも貴方が終わらせてくれていた」
「姉さん?」
「でもね、陽介」
虚空から呪符を幾枚も取り出して、扇のように両手で構える。
装備は最低限の質。
いつもの狩衣ではなく、緊急性を優先した結果、魔術加工を施した制服であり、防御力は期待できない。
推定戦力は、彩月の格上。
あるいは、彩月の予想が正しければ、足下にすら及ばない可能性も十分ある。
「お姉ちゃんはさ、たまには、貴方と本気で喧嘩するのも悪くないと思うのよ」
だが、それは姉が弟に対して説教を止める理由にはならない。
彩月は退魔師としてありながら、姉としても陽介へと向かい合う。
家出した家族を、ボコボコにしてでも、連れ戻すために。
●●●
リースは森の中を疾走し、出来る限り障害物の多い道を選んで疾走していた。
頭脳担当といえども、その肉体は人間を遥かに凌駕する魔人の代物。加えて、リースは人間のそれに比べて、圧倒的に学習能力が高いという特性も持ち合わせていた。
故に、リースはこのようなこともあろうかと、既に習得している技術が幾つもある。
森の中を、転ばずに移動する走破技術。
予め地図を確認しておけば、障害物の多い場所でも迷うことなく進むことが可能な空間把握の技術。
そして、追跡用の魔術から自身を隠す、隠密用の魔術だ。
これらは全て人間の技術であるが、同時に、『人の形』をしていれば、魔人であるとも習得可能な技術だ。魔術に関しては、魔人が扱えないように体系化している物が幾つもあるが、幸い、この手の隠密魔術はカンパニーという組織が、人にも魔人も扱いやすいように改良した物。社外秘の代物であるが、リースの手にかかれば、その手の秘密を抜くのは造作なかった。
「…………さて」
リースは魔人の中でも特に、人間を侮らない。
侮らないこそ、人間の技術を学び、血肉とし、己を研鑽することを選んだのだ。
拭いきれぬ敗北の記憶が、刻みつけられた心の傷が、リースに命じるのだ。侮るな、乗り越えろ、と。
「物量作戦。隠密の魔術に対して、最もシンプルでつまらない解答……けれども、最適解に近しい一つでもあるようだね……これは、厄介だ」
よって、森の中を進むリースは、無数の敵意を向けられた瞬間、油断なく止まることを選んだ。足を止めたことによる狙撃を警戒しつつ、リースは敵意を向けて来た存在の情報を探査魔術で探る。
「総数二十三。基本の構成はランクDの魔獣による編隊。されど、明らかに包囲網の穴となる部分からは、不自然に探査魔術を弾いた痕跡が。どれがフェイクで、どれが本命なのか、今のところ推測するのは難しい、と」
リースは探査魔術の結果、自分が包囲されているという状況を理解した。
このまま何事もなく、忌まわしいイレギュラーを封じ込めた神器を持ち帰れるとは思っていなかったが、予想よりも追撃者となった存在はリースにとって難敵だったらしい。
「いや、あるいは、ワタシを捕まえるよりも足止めなのかな? だとしたら、厄介だね。凄腕の式神使いが足止めに徹するとなれば…………多少リスクが高い未来でも、選ばなければいけなくなってしまう」
リースは戦闘に於いて慢心しない。
聡明なる頭脳を持つからこそ、あらゆる敗北の可能性を検討してしまう。そのため、様々な『詰み』の可能性もあると知っている。
だから、静かに、けれど、力強く己の全身へ魔力を巡らせ始めた。
「まぁ、あのイレギュラーを相手にするよりは、気分は各段に楽だけれどね?」
かくして、魔人リースと、凄腕の式神使い――エルシアの戦いが始まった。




