第70話 落陽は再会と共に 4
脅威度ランクAの魔物は、神の異名を与えられてもおかしくないほどの力を持つ。
故に、機関はランクAの魔物に対して、畏怖と経緯を込めてこうカテゴライズするのだ。
魔神、と。
「しぃ――やぁっ!」
鋭い呼気と共に構え、考えうる限り最大速度で魔力を循環させた、現在における私の最大攻撃力での一撃。
「…………」
されど、それを鬼は避けようともしない。
心臓部に叩き込まれたそれを平然と、そのまま受け止めて、次の瞬間には私の肉体を弾き飛ばしている。それも、ろくに腰も入っていない無造作な腕だけの動作で。
まるで、大人と子供か……あるいは、それ以上だ。
私は控えめに見積もっても、ランクBの戦闘型魔人の上位に位置するぐらいには、近接戦闘が得意なタイプの前衛だろう。異能による耐久力も相まって、私とまともに取っ組み合いが出来る退魔師は、機関内部でも早々居ない。
だというのに、この鬼に対しては、まるで歯が立たなかった。
異能とか、魔術とか、何かしらによる特別な防御を確立しているわけではない。ただ、純粋に硬く、丈夫であるだけなのだ。
「ぐ、ごっ!?」
しかも、パワータイプみたいな戦い方をしたかと思えば、地面を滑るような滑らかな歩法で距離を詰めて、武術の極みみたいな技で私の防御を掻い潜るのだから厄介である。
ここで、私は既に確信を持っていた。
この鬼が、憮然と私の前に立ち塞がる巨漢が、私にとっての天敵だということに。
「完全なる格上かよ、ちくしょうが!」
明らかに、私のそれとは質が違うと分かるほど、高密度の魔力による身体強化。
それに加えて、武術の達人のさらに、その先に位置するような、対人戦闘における何かしらの境地に至ったが如き肉体操作。
何かしらの小細工を用いるのではなく、単純に強い。強過ぎるほどに強いだけの相手だ。だからこそ、この私には効果覿面だろう。
何せ、【不死なる金糸雀】はともかく、【栄光なる螺旋階段】は相手が扱う異常に対するカウンターみたいな物だ。異能を扱う私の意識として、このように正攻法で真正面から戦われては、発動することは難しい。
よって、必然と、私は何度も地面に這いつくばり、諦めの悪い子供のように、鬼へ挑んでいくという構図が出来上がるというわけである。
うん、かなりヤバいね。
「ぜぇっ……ぜぇ……くそ、が」
「…………」
全身から汗を流し、土に塗れ、体中に打撲の痕を付けられてなお、私は鬼に対してまともにダメージを与えることが出来ていない。
否、それどころか、戦いにすらなっていないだろう。私は相手の攻撃を必死で回避し、受け流していてこれだというのに、相手は防御の気配すら見せずに受け止めるのみ。
分かっていたが、格が違う。
こいつとまともに戦うには少なくとも、彩月、エルシア、治明の三人が万全の状態で連携しなければ難しい。あるいは、そこまでやってようやく、相手にとっては『戦い』という同じ舞台に上がれるのかもしれないが。
これが、魔神。
存在するだけで国家存亡規模の脅威。
確かに、単独で挑むのは無謀に等しい相手だ。
「…………仕方ない、か」
勝てるわけがない、という意識が私の中に生まれつつあった。
小さなスプーンで山を全部崩せ、と無茶ぶりをされたと思いきや、その山全てが固い岩盤で覆われていたような、絶望的な気分。
無言でこちらを見下ろす鬼の姿に、畏れすら抱き始めている。
今、私が死んでいないのは単に、相手が殺害ではなく、捕縛を目的とした無力化を狙っているからに過ぎない。
「すまない」
だからこそ、私は口元に小さな笑みを浮かべて謝罪の言葉を口にした。
追撃を加えず、悠然とこちらを待ち構える鬼に対してではなく、今、他の場所で戦っている仲間たちへ、謝罪の言葉を呟いた。
何故ならば、これは一種の諦めであるから。
どうしようもない格差に屈し、試行錯誤を止める行いであるからだ。
――――私は、こいつには勝てない。
「強いな、アンタ。なんというか、真っ当に強い。格が違う。私みたいなズルした強さじゃない。ずっと昔から、静かに、けれど確実に積み上げられたみたいな強さを感じるよ。その強さは恐らく、修練の果てに得た物なのだろう。ああ、完敗だ。認めよう、私では、お前に勝てない。絶対に、勝てない」
「…………」
「だから、諦めたよ」
これは、悲観的な考えではなく、もはや客観的な事実だ。
どれだけの思考を重ねようとも、今の私ではこいつを傷つける事すら出来ない。それどころか、まともな戦いすら出来ないだろう。
けれども、だからと言って敗北は許されない。
私は、天宮照子は――――退魔師なのだから。
「人間であることを諦めた」
退くことなんて出来ない。
退魔師とは、魔を退ける者なのだから。
「さぁ、鬼よ。強き者よ。どっちが、より化物か、比べてみようぜ」
故に、私は金色の瞳を見据えて、鬼と相対する。
今まで無意識的に抑えつけていた異能、【不死なる金糸雀】を完全に解放した状態で。
●●●
照子の推察通り、大山は脅威度ランクAに値する魔神だ。
もっとも、大山本人としては、そのような分類が誕生する前から存在している鬼神であるので、特にどう呼ばれようとも気にしていない。
どのように呼ぼうが、どのように扱おうが、己の態度は変わらない。
大山にとって、己の周囲は、ほぼ全て『環境』同然だ。
人が、道を歩く際に、足元を這う蟻を気にするだろうか? よしんば、気にしたとしても、その個体一つ一つの命に注視するだろうか? 気づけば死んでいる命に対して、何らかの感情を持つことがあるだろうか?
大山という鬼神にとって、その範囲に存在する生命体はあまりにも多い。
どの生命体であっても、少し力を入れれば砕けてしまう脆き物。果実と同じく、どのような生物であったとしても、少し手を伸ばせば、簡単に肉として食らうことが出来る。
故に、大山にとっての『個体』とは最低限、魔力を扱えることが前提だった。
「さぁ、鬼よ。強き者よ。どっちが、より化物か、比べてみようぜ」
その点からすれば、大山と相対する照子は間違いなく、『個体』だった。
戯れとはいえ、己の拳を何度も受けても立ち上がる退魔師は非常に珍しい。殺そうと思えば殺せる程度の相手であるが、『殺しても終わらない可能性がある』と友からの忠告により、意識を飛ばすことを心掛けて打撃を放っているが、土壇場の判断やセンスの良さで悉く行動不能を防いでいる。
このような小癪な抵抗を繰り返す照子であったが、大山は個人的には嫌いでは無かった。
そう、魔神とはいえ、魔物とカテゴライズされる存在であるというのに、照子に対する殺意をさほど抱かなかったのである。
これに関して、長い時を生きる鬼神である大山には、推論というか、正解に近しい確信を持った考え得ているのだが、この時、それを明確に頭に思い描くことはしなかった。
「まずは、その舐め腐った態度から改めて貰おう」
何故ならば、次の瞬間、照子が振るった右腕が大山の左胸を貫いていたからだ。
「は、はは、ははは! なるほど、こうすればいいのか」
「…………」
ずるりと、大山の胸から引き抜いた照子の腕は、手首から先が存在していなかった。あまりの勢いと、魔力強化によって自壊したのだろう。
だが、照子にとって体の一部の損傷はもはや戦闘行動になんの支障もきたさない。瞬く間に周囲のマナを吸収し、収束する光が現実に『健全な腕』の情報を上書きするからだ。
そう、大山の左胸と同じく。
「考え方の違いだ。魔力というリソースは内部から練り上げて使う。魔力が、どれだけの量があるのか? あるいは、どれだけ高速で循環させて強化するか? そればかり考えていた。でも、違うようだね」
「…………」
大山は照子の言葉を待たずに、拳を振るう。
先ほどまでと同じような、戯れの拳。されど、長い年月をかけて積み上げられた体運びは、照子の防御を掻い潜り、側頭部へ痛烈な打撃を与えた。
ここまでならば、先ほどまでと同じ展開だろう。
だが、今度は違っていた。
「魔力を流体ではなく、気体としてイメージする。そして、世界から奪い、糧とする。圧縮する。例え、龍脈の近くでなくとも、この世界全てには魔力が宿っている…………いいや、違うな。やろうと思えば、全て、魔力へ分解することが可能なんだ」
大山の拳を受けて、平然と照子は言葉を紡ぐ。
苦し紛れのやせ我慢ではない。大山と同様に、超高密度まで圧縮された魔力による防壁が、打撃を防いだのだ。
「つまり、この世界全てが私たちにとってのリソースなんだ。だから、やるべきことは内部から練り上げる事ではなく、外部からより多くの魔力を奪い、己が力として扱うこと。それこそを、考えるべきだった」
言葉を終えた照子は、笑みと共に拳を放つ。
それは、大山と比べればまるでなっていない一撃だろう。周囲に衝撃波を漏らし、収束が足りずに、余計な力が流れている一撃。
されど、未熟者の一撃は、膨大なる魔力のごり押しによって大山の左肩を吹き飛ばす。
単純な話だった。相手が膨大なる魔力を扱い、凄まじい身体強化を行っているのであれば、それ以上の力を用いて、上から殴り飛ばす。
控えめに言っても馬鹿の解決方法だった。
問題は、そんな馬鹿みたいな解決方法で大山と、魔神と相対することが可能なほどに、何かのタガが外れてしまった照子の現状だ。
「お互い、この程度の損傷で足を止めるほど『やわ』じゃないだろう? さぁ、始めようぜ。不毛な削り合いを」
一体、誰が今の照子を人だと思うのだろうか?
緊急出動により、制服のまま戦闘に移行した照子は、ボロボロだった。ある程度の魔術加工がされた一品とはいえ、魔神との戦いについていけずに、どこもかしこも擦り切れ、破れ、悲惨な有様である。
されど、ボロボロの制服とは反対に、照子の肉体はどこまでも美しくなっていた。
先ほどまで叩き込まれていた打撃の痕などは既に無く、肌は淡く白い輝きを纏って。碧眼の奥からは、薄闇を切り裂くが如き魔力の光がゆらゆらと灯っている。
何より、照子の周囲の木々や草花が、急速に生命を失い、枯れていく様は、人外が起こす異常にしか見えないだろう。
「…………そうか」
ここで、大山は長い沈黙を破って言葉を口にした。
何かを納得した言葉だった。
誰かに聞かせるでもなく、己自身がただ、そうであると証明するかのように発した言葉には、意味が込められていた。即ち、異能を解放し、魔神の領域に手をかけようとする照子を、『敵対者』として認める意味が。
「大山だ」
故に、大山は短く己の名を名乗った。
魔術が絡む戦闘では、名前はあらゆる意味で重要だ。呪術対策として、名乗らないことも多い。けれども、大山はあえて、認めた相手には名乗るようにしている。
あまりにも長い時を生きる大山だからこそ、後悔しないように名乗るのだ。
次の瞬間に、殺すか、あるいは、殺されたとしても、己が納得するために。
「天宮照子。短い付き合いになるかもしれないが、よろしく」
大山の名乗りを受けて、照子もまた、躊躇いなく名乗りを返した。
恐らくは、自身の名前はもう大山は知っているだろうと思いながらも、己が名乗ることに意味があるとして、新しき名前を名乗り返した。
「じゃあ、改めて。殺し合おうか、大山」
「…………」
ここに至って、大山に手加減をするなどという選択肢は存在しない。
例え、友の忠告から外れても、殺す気で相手をしなければ、下手をすれば己を食らう相手であるが故に、大山は意識的に抑え込んでいた力を解放した。
大山から発せられる魔力は、全く間に周囲へと浸透し、より多くの魔力――マナを略奪せんと、己の領域を定めていく。
照子もまた、大山と同様に、己が魔力……オドによってマナを操作する技術を瞬時に理解し、覚え、習熟し、領域を定めていく。
大山と照子、二人――二体の化物たちは、互いに領域を押し合い、削り合い、奪い合いながら戦意を高めて。
「「――――っ!!」」
爆ぜるように動き出し、ほぼ同時に拳を叩き込んだ。
かくして、神の領域に踏み込んだ者同士の戦いが始まったのだった。




