第68話 落陽は再会と共に 2
少女は空腹だった。
「がつ、はぐっ、じゅるっ……がう、んぐっ」
だから、有り金を全て費やして大量に買ったチキンを、必死で己の口に押し付けていた。
がつがつ、がつがつと。
フードファイターですら気圧されるような迫力で、己の飢餓を満たそうと肉を食らう。
でも、まったく腹は満たない。むしろ、食べれば食べるほど空腹が満ちていくような感覚すら覚えて、暴食は加速されていく。
「あ、ああうあああ……食べ、食べ終わっちゃった……あ、あああ……」
夕暮れに染まる空の下で、少女はこの世界の終わりのように涙を流す。
食べたい。食べたい。食べたい。食らってやりたい、血が滴るような肉を。
食いごたえがある、獲物を。
「う、ううう、ううう……」
少女は涙を流しながら、ふらふらと街並みを歩いていく。
不思議と、周囲に人気は無く、まったく人とすれ違わないのだが、少女にとってはそれが最後の希望だという実感があった。
今、人と会えば獣になって、食らってしまう。
そういう確信が、少女の中にはあった。
「違う、違う、違う……こんなの、私じゃない……」
口元からとめどなく涎を流しながら、少女は苦悩する。
覚醒した自らの異能に対して。
歪められた己の欲望に対して。
苦悩を抱えつつも、何とか抗おうとする。
「私は、私はただ…………皆と、一杯、美味しい物を、食べたかっただけなのに……違う、憎くなんてない! 食べようなんて思っていない!」
少女は美味しい物を食べるのが好きだった。
特に、肉を食べるのが好きだった。
小学校を卒業するまでは、丸々と太って、よく『子豚』と馬鹿にされていた物だが、そんな時は持ち前の愛嬌で誤魔化して、何とか世の中を渡って来た強かな女子だったのである。
しかし、それを良しとしなかったのが少女の母親だった。
有名モデルとして職を持つ少女の母親は、スレンダーで美しい体型の女性だった。子供を産んでもなお体型が崩れず、三十代後半であるというのに、今でも二十代に間違えられるほどの若々しい美人だった。
だからこそ、母親は少女の体型が許せなかったのだろう。
今までは子供だからと大目に見ていたが、母親の怒りは静かに蓄積されていき、やがて、少女が中学校へと進学する頃に爆発した。
『貴方はもう、強制ダイエットしなさい! その弛んだ腹が引っ込むまで、大好きなステーキもハンバーグも焼肉も抜きです!』
少女はその時、生まれて初めて母親に殺意を抱いたが、よくよく考えれば母親の言葉も正しいと理解していたので、渋々とそのダイエットに従うことにした。
ただ、少女が想像していた以上に、そのダイエットは過酷だったのである。
何せ、少女が受けたのは一般的な軽いダイエットではなく、その道のプロが指導する、美しさを追求するための人体改造の如きダイエットだったのだから。
「お腹がすいた……お腹がすいたよぉ……」
少女はその時の記憶を掘り起こしてしまい、さらに暴力的な食欲に襲われてしまう。
何度も、何度も、ダイエット中に覚えた、美しさに対する憎しみとそれを凌駕する食欲。とにかく肉が食べたい、肉を食べてやりたい。
肉を食べられるのであれば、美しさなんて要らないとすら思っていた。
ダイエットによって元々備えていた美貌を発揮してしまった所為で、余計な色恋沙汰に巻き込まれて、何度も、何度も面倒な目に遭ってきたのだ。そのストレスをぶつけるように暴飲暴食をすれば、母親やコーチに怒られてしまう。
そんな少女の抑圧された欲望が歪められ、美しさに対する憎悪と、肉に対する常軌を逸した食欲へと変えられてしまっていた。
「あ、あぁあ……あうあ……」
少女はさながらゾンビの如く、無人の街並みを徘徊する。
既に、少女の中にはろくな理性が存在せず、ただ、肉を求めるだけの獣へと成り下がっていて。
「やぁ、調子が悪そうだけれども、どうしたんだい?」
だから、少女がその獲物――金髪の美少女を見つけてしまった瞬間、体は勝手に動いた。
肉食獣の如く、異常な瞬発性で路面を蹴り飛ばし、美少女が呼吸する暇すら与えずに、その柔らかな喉元に食いつく。
己の牙が、柔らかな肉に食い込む感触のなんと甘美なことか。
涎を流しながら、舌先で美少女の首筋を舐る感触の、なんと淫靡なことか。
少女は力を込めて、美少女の首元に食いつくほど己の歪んだ欲望が蕩けていく実感があった。同時に、胸の中に鉛をぶち込まれたような罪悪感も。
やってしまった。我慢していたけれども、ついにやってしまった。どうしよう? どうしよう? もう、私は人に戻れない。
涙を流すほど後悔しながらも、食いつくことを止められない少女。
己のあまりの業に、少女は自分自身に絶望してしまいそうになるが、そこでふと、少女は気付く。
あれ? そういえば、全然血の味がしないぞ、と。
「うん、辛かったね? 大丈夫……もう、大丈夫だ」
「…………う、あ?」
少女の牙は、美少女の柔らかな肉を貫いてなどいなかった。
それだけではなく、牙が薄皮すら貫かず、ぐいぐいと肉が動くのみ。まるで、美少女が少女の欲望を優しく包み込んでくれるようで。
「君はもう、苦しまなくていいんだ」
ゆっくりと、少女の背中に美少女の手が回された。
泣き喚く幼子を抱く母親の抱擁に似たそれは、少女の強張った精神を柔らかく解きほぐしていく。
「大丈夫、大丈夫」
「う、あああうあ……わ、私、私……お腹が、減って……でも、でも……っ!」
「うん。よく、頑張ったね?」
真っ暗闇のトンネルからようやく抜け出し、体いっぱいに陽光を浴びたような爽快感。清潔なシーツが敷かれたベッドの上に横たわった時の安堵。
そのような、柔らかくて温かい感覚に包まれ、少女の歪んだ精神が、元の健全な物へと戻っていく。
「だから、今はゆっくりとお休み」
やがて、少女の眼前に陽光がきらきらと反射する、美しいきらめきが降り注いで。
少女の意識は、緩やかに、微睡みの中へと溶けていったのだった。
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私は腕の中で眠った少女を起さないよう、静かに、けれど、良く通る声で言った。
「おおい、エルシア。意識が完全に落ちたぞー、精神調整を頼むよ」
「言わなくても分かるってんですよ、馬鹿テル」
すると、私の影からずるりとエルシアの姿が浮かび上がり、当然のように路面へ足を付ける。うん、何度見ても違和感があるが、これでもエルシアが扱う『空間を操る魔術』というのは、彩月に比べて数段劣る物らしい。なんでも、誰かの影を媒体とすることによって、現世とは少し位相をずらした場所に空間を作ることが可能なのだとか。
何の魔術も使えない私からすれば、充分に凄いと思うことなのだが、エルシアとしては未熟として恥じる部分らしい。なので、下手に褒めたら却って機嫌を悪くして悪態を吐くので、注意が必要である。
「ん、ん、んー、大体大丈夫ですが、一応、再発しないようにピクシーを使って調整しておくのです」
「よろしく」
エルシアはピクシーと呼ぶ、小さな人型の魔物を操って、少女の精神に魔術を施す。
例によって、エルシアが使役する魔物を完全に支配しての魔術行使である。私が近距離に居る場合、ほとんどの魔物は私を殺そうとしてくるので、この処置は仕方ないのだが、やはり、虚ろな目をした魔物が、操り人形の如く動く様は見ていて不気味だ。
「馬鹿テル。今、ワタクシの魔術行使を見て、不気味とか思っていやがったでしょう?」
「へ? 何のことだい? それより、なんで私を馬鹿テルなんて呼ぶの?」
「馬鹿と呼ぶと、彩月姉さまが悲しい顔をする。照子と呼ぶのはなんか嫌。なので、妥協案でのこれです、納得しやがれです」
「わかった。まぁ、訂正してもらうほど賢いわけではないからね」
「ふん! 分かったのなら、それでいいのです……あれ?」
こてん、と可愛らしく首を傾げるエルシア。
エルシアとコンビを組む時のコツは、話題を次々に転換させて行き、当初の怒りや不機嫌を忘れさせることだと、最近になって発見した。
何せ、普通に接していると際限なく機嫌が悪くなるのだから、仕方ない。
これも任務のためなのだ。決して、エルシアをからかうのが楽しいから、やっているわけでは無いのである。そう、本格的にからかうのはあくまでこの緊急任務が終わってからだ。
「さて、エルシア。この子の容態も安定したみたいだし、機関の後方部隊に任せて、次に行こうじゃないか」
「む、む……言わなくても、分かっているのです。ほら、途轍もなく不本意ですが、手を繋ぎやがれです……その内、絶対、非接触での転移術を覚えてやるのです」
「頑張って。私は君を応援しているよ、エルシア」
「むー!」
私とエルシアは、共に手を繋ぎ、転移術で空間を跳躍し、次の仕事場へと向かう。
「なんで、こんな大変な時に馬鹿テルと一緒なのですか!?」
「こんな時だからこそ、じゃないかな?」
緊急任務。
これは、大規模な魔的事件への対処のため、機関が発令するスクランブルだ。緊急任務が入った場合、優先度の低い任務や、切迫していない現場での任務は直ぐに引き上げられる。そして、近場の退魔師たちは出来る限り、その緊急任務に取り組まなければならない。
緊急任務が発令される場合は、大規模な魔物が境界から出現したり、脅威度ランクAの魔神が降臨したりなど、様々な例があるらしいが、今回はその中でもひと際異彩を放つ事件に対する緊急任務だった。
「現状、最も安定感があって、この事件を迅速に終わらせる可能性があるのは、彩月と治明のコンビだよ。彩月の結界術と、転移術。治明の炎による精神浄化。異能者という、何が起こるか分からないブラックボックスを対処するにあたって、これ以上無く適した二人だと思うけれど?」
「お前に、お前に言われなくても分かっているのです! そこは納得しているのです! でも、どうして、お前とワタクシなのです!?」
「余り物コンビ」
「むー!」
ちょうど、夕方四時を過ぎたあたりから全国各地の地方で発生した、異能者の大量発生。明らかに、自然発生ではなく人為的な仕組まれた事件。
機関は速やかに、過去の似たような事例を洗い出し、結果、かつて瑞奈が受けたような『存在改変攻撃』であると推測した。
よって、その事案を後遺症無しで解決し、被害者の異能も跡形残らず焼き払った治明は、当然の如くどこの現場でも引っ張りだこ。そのため、必然と転移術を使える彩月が同行し、迅速に発生した異能者たちに対処しているというのが二人の現状だろう。
ちなみに、私とエルシアは無理なく、コツコツと周囲と隔離した異能者からきっちり丁寧に対処している。治明と彩月のコンビに比べれば、解決速度は圧倒的に鈍いが、まだ、比較的安全に異能者へ対処出来ているという点では、中々良いコンビと自画自賛したいところだ。
「まぁ、真面目に答えれば、私は異能によって耐久性が異常らしいからね。どんな攻撃をして、どんな影響があるか分からない異能者たちとファーストコンタクトするなら、断然私だよね。しかも、私のヘイト体質に左右されず魔物を使役する魔術師が居るのなら、当然組ませるという選択肢はあるというか、上層部からすれば『お前らがコンビを組まなくて、誰と組むの』という扱いだよね」
「ワタクシは納得できません!」
「感情的に納得は出来なくても、優秀なエルシアは理屈で納得できているだろう? だったら、さっさと任務を終わらせて飯にしようぜ」
「むーん!」
「そもそも、今のエルシアだと、彩月と治明。どちらともコンビを組んだとしても、任務に集中できないと思うのだけれど? この事件を担当する上で、いきなり初対面の相手と組むのも不安だし」
「…………」
「はいはい、露骨に落ち込まない。さぁ、次の仕事場だ。フォローを頼むよ」
思春期に突入したエルシアを宥めつつ、私は大量発生した異能者たちと相対していく。
じわじわと、背筋を登って来る嫌な予感を自覚しながら、それでも、退魔師としての任務を果たしていく。
例え、この行動が何者かの掌の上にあるとしても、今はまだ、愉快に踊っておいてやろう。その結果、我が身が削れようとも、そのために私は退魔師になったのだから。




