第61話 恋せよ、人類。尊く在れ 6
片理水面は、知っている。
己が恋愛を異常に愛するのと同じように、恋愛を異常に嫌う人間が居ることも。
そして、それが仕方ない物であるということを知っている。
恋愛とは、必ずしも善良なる要素だけで構成された物ではない。時に、強い衝動によって、自らの責任や立場を放棄しての駆け落ちなどを誘発し、それによって、迷惑を被った者などからすれば、『何が恋愛だ?』と忌々しく思うこともある。
好意を向ける相手が、必ずしも自分を好きになってくれるとは限らない。だからこそ、己の恋情に狂った者は、他者を殺すこともあるし、痴情による犯罪行為は後を断たないのだ。
それだけではなく、社会には『真っ当な恋愛をする人間こそ、善良なる存在』という共通意識がある。これは、社会的な生物として、種族繁栄のためにはある意味、当たり前の思想ではあるのだが、その当たり前からあぶれてしまった者たちには、押しつけがましい価値観でしか無く、恋愛自体を忌むことも多い。
「彩月がどうすれば、一番良い形で青春を過ごせるのか? それを、一緒に考えて欲しいのです。それが、私が望む恋愛相談ですよ」
だが、水面の眼前に立つ存在――天宮照子は違っていた。
恋愛を嫌っていない。むしろ、他者の恋愛に関しては、好ましく思っている節すらある態度を見せている。歪んだ感情を持て余し、想いを向ける相手を傷つけてしまうような狂暴性も持っていない。
外見こそ十代の美少女であるが、中身はアラサーの男性であるからして、社会人としての良識は身に着けている。それが、女子高生との恋愛に対して抵抗を生むのは当たり前と言えるが、大きな問題ではない。そこだけならば、いかようにも対処が可能だ。
問題は、異常なほどの利他的な思考。
「照子さん」
「はい」
「貴方の思考は、恋人ではなくて、まるで主人に尽くす従者ですよ?」
「…………ふむ? 愛している人間に対して、尽くしたいと思うのは当然では?」
当たり前のように、己を低く見積もり、他者を優先する。
大切な存在であればあるほど、対比する己の価値を下げ、相手に尽くす。
さながら、天宮照子という存在は、社会への奉仕者だ。良き人間、良き存在に対して、己の損害を度外視して、平然と尽くす従者。
けれども、社会を害する存在、あるいは照子が『人間』として扱うに値しない存在に対しては、とてつもなく冷酷な殺戮者に成れる存在だ。
我欲が無いわけではないだろう。
しかし、余りにも己を律することに慣れ切って、己の欲望に対する価値がゴミ屑程度になってしまっている。むしろ、大切な相手であればあるほど、自分の欲望を向けることに対して、罪悪感を覚えてしまうほどに、潔癖症なのだ。
最初から、こうだったのか?
それとも歪んでしまったのか?
水面には判別がつかない。ただ、生まれて初めて、水面は恋愛相談に対して、絶望的な見解を得た。雲を突き抜ける程の巨大な壁が、眼前に現れたかのように。
「照子さん、それは……」
なんと言えばいいのだろう?
水面は、水面と共に在る淫魔は、己の中に言葉が無いことを悟っていた。
自分たちでは、この憐れで恐ろしい存在に対して、響かせる言葉は持ち合わせていない。いや、例え、古今東西、あらゆる詩人を連れてきたところで、天宮照子という奉仕者の思考は変わらないのだと、そう考えてしまったのである。
無論、様々な愛の中には、愛する者への奉仕を至上とする者もある。けれど、違うのだ。奉仕を好む者は、あくまでも奉仕した結果、己の欲望を満たすことが出来るから、奉仕する。対して、天宮照子の奉仕は、ただの機能だ。好意が含まれていないわけではないが、好意と釣り合っていない。相手が人間としてまともならば、平然と、その日に出会った他者のために命を賭けてしまう、天秤の狂った存在。
そんな相手にどのような言葉を紡げばいいのか分からず、水面は何度か口を動かして、声なき声を絞り出そうとして。
「なーにを、言っているのですかー!? グレさんは!!」
「ごふっ!!?」
大人の面倒な考えの一切を吹き飛ばすように、彩月が照子に対してタックルを決めた。
照子の鳩尾に、ちょうど頭部が突き刺さるようにして入り込んだ、割と破壊力のあるタックルだった。
「げ、げほっ……ええと、彩月? というか、仕事モードはどうしたの?」
「うっさいです! グレさんはボクに対してヤンデレとか言う癖に! 自分の方がよっぽど病んでいます!」
「失礼な。サイコパス検診だって、うつ病検診だって余裕でスルー可能だよ」
「そういうことを言っているのではありません!」
「えぇ……」
「なんで、グレさんはそんなに自分を駄目な奴だって思うのですか!? 違います! ボクにとっては世界で一番凄い人です! 超愛しています! 超愛してしますけど! でもっ! ボクは! 確かに、子供で! 色々足らなくて! グレさんに比べたら、全然駄目な奴かもしれませんが! それでも! 貴方に幸せにしてもらわなければいけないほど弱い存在ではありませんよ! 侮らないでください!!」
「あ――いや、違う。貶める意図は無くて、だな」
「むしろ、ボクがグレさんを幸せにしてあげるのです! 崇め奉りながら、思いっきり甘えてください! グレさんのためだったら、制服プレイだって出来ますよ!」
「いかがわしいことを言うのを止めろ! というか、同じ制服だろうが!!」
感情的で、理屈もろくに考えられていない、子供の我が侭。
彩月の言動はまさしく、それに尽きた。真っ当に人を説得する態度ではなく、デパートで玩具を買って貰えない子供が起こすような癇癪に似ている。
されど、正しかった。
天宮照子という人間に対して、まともな恋愛をさせるのであれば、理屈や論理ではなく、感情で立ち向かわなければいけなかったのだ。
「…………なるほど、そうでしたか」
彩月にしがみ付かれて、人間らしく困惑する照子の様子を見て、水面は確信する。
この手しかない、と。
照子という存在が、人間として恋愛し、彩月と共に添い遂げるためには、この手段しかないと、天啓の如く、水面は悟ったのである。
「わかりましたよ、照子さん」
「は、はい……ほら、離れろ! 会話中だ!」
「やーだ!」
「ふふふ、そのままで構いませんよ、お二人とも。それに、今から言うことは彩月さんにも関係していることなのですから」
「「へっ?」」
揃って首を傾げる二人の美少女の姿を、『やはり尊い……』と内心で拝みながら、水面は言う。巨大な壁を突き破るための、言葉を。
「照子さん。貴方が彩月さんのことを思うのであれば、一日に一回、彼女へ、ちょっとだけエッチなお願いをしてください」
「えっ? その…………えっ?」
「貴方から、彩月さんに、ちょっとだけエッチなお願いをしましょう。それが最善の未来への道です」
「…………えぇ」
もっとも、その言葉は余りにも常軌を逸していたので、当事者である照子が、ドン引きしてしまったのだが。
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天宮照子は混乱していた。
自分は確かに、彩月がより良い青春を過ごしてもらうためのアドバイスを頼んだはず。そういう恋愛相談だったはず。なのに、どうして、王様ゲームの罰ゲームみたいなノリのアドバイスを貰わなければならないのだろうか?
「もちろん、理由はあります」
思わず、抗議の声を上げようとした照子であったが、それを予想していたかのように、先んじて水面が説明を付け加える。
「照子さん。貴方は確かに、社会人としての立場から、年上として、彩月さんに対して正しく接しているでしょう。しかし! その態度は! 恋人同士としては、正しくありません!」
「いや、恋人同士とはまだ、はっきりとは――」
「ディープキスまで済ませました! そういう関係です!」
「…………まぁ、うん。恋人同士であるとは、認めましょう」
満面の笑みで恋人同士であると断言する彩月。
流石に、ディープキスの報告を受けながらも、『恋人じゃない』発言はクソ外道過ぎるので、照子は認めざるを得なかった模様。
ただし、流石にここで何も言い返さないほど照子は大人しくない。
「ですが、業腹な思いもあります。まさか、初対面の貴方に、私たちの関係が正しくないと言われるとは思いませんでした」
「失礼なのは百も承知です! けれども、こればかりは事実なのです。何故ならば、照子さん。貴方は、基本的に彩月さんの要求を聞くばかりで、自分の要求をほとんど言いませんね?」
「…………こう、直して欲しいところとかは、言っていますが」
「それは忠告と呼ぶべきことです。年上として、年下の子供に物を教えているだけの話です。恋人として、何かを求めていたわけではありません。分かりますか? 照子さん。貴方は今まで、愛する相手に対して『お前には何も求めていない』と暗に告げていたのですよ!」
「――――っ!!」
びしっ! と水面に指摘されると、照子はさながら雷に打たれたかの如く震えた。
今まで、自分が信じていた正しさの一部が、崩されるような感覚を味わっているのだろう。わなわなと唇を震わせ、戸惑いを隠さずに狼狽する姿は、まさしく十代の少女にしか見えない。
「そ、そんな……私は、そんなつもりじゃあ……」
「無論、彩月さんもそれは分かっていると思います」
「ボク、分かっていましたとも! グレさんとは長い付き合いだもん!」
「貴方が社会人として正しく在ろうとしていることも、重々承知。しかし! それでは、物足りない! 寂しい! 恋人として、何かを求めてくれないと不安になるのです! 束縛が強すぎる人は嫌われますが! 何も求めない人は疑われる! ひょっとして、愛されていないのでは? 無理して付き合ってくれているのでは? 実は好きではないのでは? と」
「そんなことは、無い!」
「でしょうね、分かっています。貴方が、彩月さんのことを大切に想っているのは、彩月さん自身も分かっているでしょう。でも、逆に考えてみてください。貴方に対して、彩月さんが何も要求しなくなったら? 不安ではないですか? 自分は必要ないのでは? と関係性を疑いませんか?」
「…………ぐっ」
水面の怒涛の攻めに、思わずたじろぐ照子。
基本的に、社会人的な対応として言葉を受け流すことが得意の照子であるが、本音で殴り合う言葉の応酬は数少ない。加えて、相手が自らのためを思って言葉を紡ぐのだから、照子はもはや、碌な文句も言えなくなってしまっていた。
「だから、どうか、言ってあげてください。貴方が、必要だって。貴方と一緒に居たいって。そのために、一日に一回、貴方がちょっとエッチなお願いを言うのですよ、照子さん」
「…………そうか。私は、今まで彩月に不安にさせて――――待って? よく考えたら、ちょっとエッチなお願いである必要は無くない? 普通のお願いでも良くない?」
「その場合、ずるい大人として無難な要求で誤魔化す可能性があるので、先に逃げ道を失くしておくという作戦です」
「くそっ! なんて有効な作戦だよ!?」
照子は思わぬ窮地に、混乱していた。
何故、自分は戦いとは別の出来事で窮地に立たされることが多いのか? と疑問が頭の中を巡りつつも、理性は既に、敗北を理解している。
それでも、縋りつくような気持ちで、照子は彩月へと問いかけた。
「彩月は、その――」
「ばっちこい、です!」
「…………嫌な思い――」
「嫌だったら断りますので! まずは、どんどん来てください!」
食い気味の即答だった。
彩月はもはや完全に覚悟を完了しており、ワクワクと目を輝かせ、照子からの『ちょっとエッチなお願い』を待ち望んでいる。
もはや、詰み。
いや、そもそも、社会人としてよりも、彩月の恋人として、きちんと幸せにしたいと望んでしまった時点で、照子の敗北は決まっていたのかもしれない。
「…………恥ずかしいから、後で」
「あ、目を閉じています。疑わしいのならば、彩月さんの術を受けて、拘束されているので、どうぞ、今、やってください」
「結界で隔絶されているし、他の誰にも見られる心配はないのです、グレさん」
「………………あー」
照子は己の額に手を当てて、しばしの間、ゾンビの如く呻き声を上げる。
薄闇で周囲には分かりにくいが、照子の頬は尋常ではなく赤く染まっていた。
「ツッキー」
「なんですか? グレさん?」
「キスしていい?」
「はい、存分に!」
照子が初めて自ら求めたキスの味は、敗北の味がしたという。




