第44話 銀弾よ、常冬を穿て 9
それは、かつて神殺しの英雄を屠った魔獣だった。
神の名を付けられていた時が在ったかもしれないが、それは己の名を覚えていない。何故ならば、それもまた、英雄ならざる人の手で撃ち滅ぼされた神々の一柱に過ぎなかったのだから。
そう、あまり知られていないことではあるが、一定以上の格の持ち主は、現世で撃ち滅ぼされても、再び、異界にて似たような存在がある程度の記憶を保持して蘇ることがある。
ただ、それはあくまでも『ある程度の記憶を保持した個体』というだけのことであって、まるっきり、滅ぼされた同一個体が完全に蘇るというわけではない。
記憶を保持した転生という説明が、一番しっくりくるだろう。
そのため、それは人間の恐ろしさと醜悪さを嫌というほど知っていた。
『大いなる災いとして崇められれば、再び、神と呼ばれることも可能だろう。しかし、人間どもが、その時まで、何もしてこないとは思わない』
かつての記憶を保持しながら、再び、現世に出現したそれは考えた。
どうすれば、より長く、この現世に留まることが出来るのか? と。
それは魔獣でありながら、獣よりも遥かに高等な知性を持ち、人類の知性……いいや、並大抵の人類すら上回る聡明さを持ち合わせていた。
だからこそ、それはまず、己の器を手に入れてから、静かに己の領域を作り始めたのである。
それはかつての神性の名残として、己が異界で作り上げていた領域を現世に浸食させて、境界を増やすという手段を取った。
己の得意な領域を展開することで、地の利を確保すること。
領域内であれば、己の眷属に肉の器を与えて召喚することが可能であること。
この二点に拘り、それは己の領域を作り上げた。
こうすることによって、人間の中でも、己を滅ぼしうる存在に対して『戦えば面倒な相手だ』と思わせる効果を狙っていたのである。
『予想よりも早く対応されたが、問題ない。ここは己が創造した楽園だ。忌まわしき狩人の一族を滅ぼした後は、ここを解放し、終わりを望む者を受け入れよう』
領域を広げている最中に、とある猟師の一族と魔術を操る人間の手によって、封印されてしまったが、それにとっては却って好都合だっただろう。
下手に、殲滅思想を持つ強者に襲撃されるよりも、このまま『対処済み』という扱いにされていれば、静かなる平穏と準備期間を手に入れることが出来るのだから。
『…………予想外だ』
だが、それの思惑は猟師の一族が、外と協力を取り付けて魔弾を開発するようになってから、邪魔をされるようになっていた。
本来であれば、眷属たちを適当に住まわせて、鬱陶しい猟師たちを始末させるはずだったのだが、いつの間にか眷属たちは恐ろしい怪物という扱いから、『狩ることが出来る獲物』として認識され始めて。
最近では、それ自身に痛手を負わせるほどにまで成長する始末。
どうやら、厳しい環境に閉じこもることによって、猟師たちは尋常ならざる成長を遂げたらしい。しかも、代を重ねるごとに強さと手数を増しているという始末。
『決着を、付けなければならない』
それは、冬山の奥地で、静かに決意を固めていた。
既に、『先代』によって付けられた傷は癒え切っている。
『今代』の猟師もまた、それが回復している間に成長し、『先代』にも負けず劣らず、いいや、上回るほどの力を付けている強者だと推測していた。
長い間、猟師と殺し合っているそれの中に、もはや油断などはない。
『決着の前に、邪魔な眷属は眠らせておかねばなるまい』
一時期、領域全ての眷属に命令して、物量作戦で倒そうとも考えていたそれであったが、猟師の周囲に強力な結界が敷かれた時点で、それは諦めている。
むしろ、外部と協力できる伝手を持っている時点で、下手に大規模な行軍を見せれば、猟師もまたあらゆる手段を講じて戦力を増強すると考えている。
ならば、最善は一対一による殺し合いだ。
あらゆる邪魔者を排除して、長い因縁に決着を付ける。
そういう舞台を用意すれば、必ず『今代』が乗って来ることは理解していた。
それと同じように、『今代』もまた、戦えば自分が勝つ、と確信しているのだから。
『忌まわしい因縁を、ここで断つ』
猟師とそれは、奇しくも似たような境地にあった。
長い間、殺し合ってきた一族とそれは、奇妙な友情にも似た殺意を向け合っていることを自覚している。
散々、己の計画を邪魔された猟師の一族に対して、それは当然ながら忌々しさを感じているが、いざ殺すとなると、長年の友を消し去ってしまうような恐れもある。
一族をほとんど殺して来たそれに対して、『今代』の猟師は憎しみと殺意の他に、偉大なることを為そうとしているという敬意がある。
もはや、両者の間にある感情は複雑怪奇であり、数百年間、殺し合った者同士でしか、その考えを理解することは出来ない。
だが、あくまでもそれは殺意を前提とした関係だ。
和解はあり得ない。
生き残るのは、二つに一つ。
それと猟師は、互いに示し合わせたかのように、因縁を断ち切るための殺し合いに臨むことになっていただろう…………常冬の領域に、無粋な侵入者たちが現れなければ。
『…………ほう』
静かに闘気を滾らせていたそれであったが、とある異変を感知して、一気に萎えた。
何故ならば、放置しておけば早々に出ていくと思っていた侵入者――赤き魔人が、何を血迷ったのか、それの眷属たちを扇動し、猟師たちが住まう場所へ突っ込ませようとしていたのだから。
『愚かな』
それは、失望と落胆の両方の感情を得ていた。
魔物同士には、最低限の同士討ちを避ける程度の、同族意識はある。だが、それはあくまでも、積極的に殺さない、というだけのことであって、殺害を忌避するほどの効果はない。
故に、それは速やかに魔人の排除を決断した。
領域に勝手に侵入するのは良い。
そういう時も、あるだろう。
眷属を殺し、貪るのは良い。
弱肉強食だ。殺される方が悪い。
――――けれども、己の戦いを邪魔されることを、それは許さなかった。
『若く、傲慢なる魔人よ』
それ――『常冬の王』は、重い腰を上げる。
『愚かさの代償を払うがいい』
王として、領土を荒らす不愉快な賊を誅するために。
●●●
奈都は現在、己の愚かさの代償を支払っている最中だった。
「ごめんね、奈都ちゃん。私なんかと一緒の布団で寝ることになってしまって」
「い、いえ! そんな! こうして置いていただけるだけでもありがたいですから!」
「ぶっちゃけ、私、性質上、普通にそこら辺でごろ寝していたり、一週間ぐらいは睡眠を取らなくても大丈夫なのだけれど、銀治君に怒られてしまってね?」
「そりゃあ、怒りますよ。というか、お説教していた時はまるで先生みたいだったのに、急に腰が低くなりますね?」
「これが素なのさ。本当は、誰かを叱ることなんてしたくないのだよ。面倒だからね」
記憶が戻ったという体で銀治のログハウスに潜入している奈都であるが、予想以上に自由行動は困難だった。
まず、プライベートの時間が皆無。
これは現状を省みれば、仕方ないことであるが、監視が常に付くのだ。銀治の監視ならば、口八丁手八丁で誤魔化し、仲間を探索するための魔獣を動かすことは可能だろうが、よりにもよって、照子が常に隣に居るという監視状況なのだ。
照子自体は、さほど交渉事に長けているようには見えず、時に奈都の言動を追及したり、何かしらの質問をしてくることも無い。
けれど、巨人が掌の上で小動物を弄ぶような、そんな好奇と疑問の視線をふとした瞬間に向けてくるのだ。そこで違和感を覚えられたのならば、きっと、照子は疑問よりも先に行動で制するだろうと、奈都は予感していた。
「ふふふ、優しいんですね、照子さんって!」
「奇妙なことに、最近はそう言われることが多くなっているかな?」
次に、照子のヘイト体質。
これが何よりも、魔獣使いの奈都にとっては辛かった。
本来、奈都は魔獣と心を通わせて、その果てに『異心同一』という融合魔術を使えるのである。これは、いわゆる憑依の一種であり、自らの肉体に魔獣を憑依させて、術者自身が魔獣の力を得るという物だ。加えて、奈都のように優れた術者ならば、魔獣本来の能力よりも強化した状態で力を扱うことが可能であり、まさしく切り札と言っても過言ではない物なのだ。
しかし、照子の前では、心を通わせたはずの魔獣たちが、殺意に昂ぶり、心を宥めるのにかなりの時間と魔力を使わなければならなくなる。
それどころか、魔獣たちの魔結晶を封印処理しなければ、奈都が扱う全ての魔獣が一斉に照子へ襲い掛かってもおかしくないほどの、異常な影響があった。
「照子さんって、機関のエージェントなんですよね? 凄いです! その歳で、機関の正式な一員として働くなんて! かなりのエリートですよ!」
「そうかな? 私の場合、場の流れというか、そういう感じで」
「代々 退魔師をやられている家系ではないんですか?」
「まぁね。私は突然変異だからさ。異能者なのだよ、私」
「異能者…………その割にはこう、素で強いというか、混血の私よりもよほど、肉体的に強靱でしたが、身体能力強化です?」
「うーん、広義で言えば、強化系になるのかな?」
そして、奈都には確信があった。
いざ、奈都が魔獣たちを抑え込まずに、隙を見て全力で襲い掛かることがあったとしても、照子は己を殺さないだろうと。
代わりに、奈都が持つ魔獣の魔結晶を砕き、いつもと変わらぬ朗らかな笑みを浮かべているだろうと。
線引きがある。
魔獣……いや、魔物の類は容赦など欠片も無く殺すが、人間はとりあえず不殺で様子を見るという照子の性質を、奈都は見抜いていた。
見抜いていたが、だからどうした? という話ではあるのだが。
奈都にとって、使役する魔獣は単純なる戦力ではない。友達であり、何よりも大切な相棒であるのだ。万が一にでも、失いたくないがために、一部の魔結晶を体内に埋め込んだり、胃の中に隠したりするほどの親愛を向ける対象である。
そんな魔獣たちが皆殺しにされるという可能性があるだけで、例え、絶好の好機があったとしても動くことは出来ない。
「まー、奈都ちゃんが危なくなったら守ってあげるぐらいの強さはあるから、安心するといいよ」
「わぁい、照子さん、大好きですー」
「こ、こらっ。狭いのだから、抱き着かない」
「はぁーい」
以上の問題点を踏まえて、問題の主成分である照子と同衾する形で、布団の中に横たわっているのが奈都の現状である。
はっきり言って、絶体絶命だった。
大嫌いだった学校の女子の真似をして、じゃれついて誤魔化しているものの、実際の所、奈都は泣きそうだった。今すぐ布団から這い出て、そのまま領域の外まで逃げ去ってしまいたい衝動に駆られていた。
気づかれてはいけない。
気づかれてしまえば、命よりも大切な物を奪われてしまった挙句、『同志』の情報まで機関に奪われてしまうのだ。それだけは、それだけは何よりも避けなければならない。
しかし、どれだけ媚びようとも照子の目から警戒の色が抜けることは無いだろう。
それでも、必死に『可愛らしい少女』を演じて、少しでも警戒の段階を下げなければ、結局のところ、奈都が窮地を切り抜けることは出来ない。
よって、必死に奈都は布団の中で照子に媚びて好感度を上げようとしているのだが、その試行錯誤の過程で奈都は気付いたことがある。
「…………照子さんって、その、いい匂いがしますね?」
「うう、恥ずかしい……ちょっと肉体が特殊だからね。その、嫌だったら外に出るけれど?」
「いえ、その、むしろ、嫌じゃないのが困るというか」
魔獣に対して恐るべき殺意を抱かせる照子であるが、逆に、人間に対しては奇妙な安心感や、崇拝にも似た恍惚を抱かせるのだ。
まるで、偉大なる神に対して、人間が平伏してしまうかのように、奈都は照子に対して畏れが混じった好意を抱きそうになってしまっていた。
感情の問題ではなく、生理的な作用として脳が好意を誤認しているのだろう。
そうさせるだけの何かが照子にあり、魔獣から感じる殺意と板挟みになっている奈都の精神は摩耗していく。
このまま、同衾して朝を迎えた場合、気が緩んでミスをする可能性が高いと判断した奈都は、どうにか打開策を考え始めるのだが、
「――――敵襲か」
何かを思いつく前に、するりと照子が布団から抜け出した。
「奈都ちゃんは、銀治君の補助をお願い」
「え、あ……はい」
「じゃあ、さっさと着替えて行ってくるよ」
そして、奈都もまた、照子が眼前で手早く着替え始めたところで、背筋を悪寒が走る。何度も、死線の中を潜った際に感じた嫌な予感に、奈都はぶんぶんと頭を振って雑念を消した。
色々考えることは多いが、何かが原因で状況は動いているのだ。
照子に遅れてはいけない、と直ぐに後を追って着替え始める奈都。
だが、奈都が布団から這い出る頃には既に照子の着替えは終わっていて。
「奈都ちゃん。死なないように、気を付けてね?」
「…………はい」
朗らかに笑いながら手を振る照子の背中を、寝間着で見送るしかない。
不意に訪れた好機であるはずなのに、奈都はただ、どこまで照子に見透かされているのか分からず、恐ろしさでしばらく動けなかった。




