第40話 銀弾よ、常冬を穿て 5
寒い。
とてつもなく寒い。
少女は、寒さに凍えていた。
外側から氷漬けにしようとする異様な寒さもそうだが、何よりも、体の内側から湧き上がる冷たさに、心が凍えてしまいそうになっていた。
『悪いが、これも生存競争なのでね』
『強すぎる、君たちが悪い』
『許してくれとは言わん、存分に恨みたまえ』
『あの子、愛想悪くない?』
『いっつも、一人で居るし』
『空気読めないよねー?』
冷たい。
冷たい、冷たい、冷たい。
凍えてしまいそうだ。涙すらも凍ってしまいそうだ。
少女の心はもはや、完全に凍り付いてしまっていた。辛いことだけの人生では無かったはずなのに、何故か、辛く、冷たいことばかり思い出す。
素足で氷の上に立っているような、不安感と冷たさが、少女の心を掴んでは離さない。
『お前、友達居ないだろう?』
『おいおい、ペットは友達に入らないんだぜ?』
『テメェなんかと、誰が組むかよ』
痛い。
痛い、痛い、痛い。
冷たくて、痛い。
おかしい。少女は心の変化に戸惑う。
私には大切な友達がいるはずだ、と。こんな冷たさ、友達が周囲に居てくれれば、それだけで温かくなれるはずなのに。
なのに、どうして、私の周りには何も居ないのだろう?
無意識に伸ばした手は、冷たい雪を掴むばかり。
吐く息の白さすら、真っ白な雪に覆われて見えなくなっていく。
――――眠い。
冷たさはやがて、少女を永眠へと誘う微睡みへとなった。
ずぐずぐと、続く痛みだけが、唯一、少女を生にしがみ付かせる物。
「…………だ、め…………私が、いない、と…………友達、が……」
降り積もる冷たさの前では、人の想いは余りにも儚い。
常冬の領域は、厳しい生存競争の極み。
弱き者に生きる資格はない。
降り積もる雪の冷たさに耐え切れない生物は、領域内での生存が許されない。
これが、『常冬の王』が定める領域の法則。
強く在らなければ。
あるいは、冷たささえも溶かす熱情が無ければ。
生きていく資格すらも無い。
「わ、たし、は………………」
雪が降り積もる。
惨めな敗者を、美しい白銀の世界から排除するように。
抵抗を許さぬほどの勢いで、どんどんと降り積もって。
「…………う、あ」
やがて、少女の瞼は閉じられた。
涙が凍り付いて、もう、自力で開くことは出来ない。
段々と、思考すらも凍り付いて。
もはや、何も考えられず、少女は眠りに落ちた。
………………。
…………。
……。
「ん、あ?」
暖かい。
永遠に凍り付くはずだった少女の意識が、暖かさを感じた。
幻の暖かさではない。少女の意識は微睡みの中にいるものの、確かに、腕の中に優しいぬくもりがあると実感出来ていた。
「あったか、い」
止まりかけていた血が巡っていく感覚。
どくんどくん、と命の奔流が手足に巡っていく。
精神の奔流である魔力が、体中に隅々まで巡っていく。
冷たさなんて、もう感じない。
痛くも、苦しくもない。
あれほど冷たかった精神すらも、今は温かな安堵の中にある。
それは、かつて少女が初めて友達を得た時の感情にも似ていて。
幸福だった子供時代に、母親に抱きしめて貰った時の暖かさだった。
「おかあ、さん……おかあさん……っ!」
言葉は自然と、口から零れてしまっていた。
この温かさは、自ら痛みを凍り付かせてしまった者すら、溶けだす暖かさだ。
陽だまりの中に居る、暖かさ。
剥き出しの感情を包み込んでくれる優しさ。
そういう暖かさに満ちている。
「…………う、ううう、あ」
流れ出した、熱い涙は氷すらも解かす。
永遠に閉じるはずだった瞼は、もう既に、しっかりと自らの意志で開けられるようになっていた。
まだ、微睡みたいという欲望はある。
けれども、手足には血が巡り、暖かさが灯った。また、立ち上がれるのならば、起きなければならない。
少女は確かな生命の活力と共に、目を見開く。
この温かさはきっと、『友達』が私に与えてくれた救いなのだと信じて。
「やぁ、おはよう。気分はどうだい?」
「…………………………ふ、へっ?」
しかし、少女が瞼を開いた先に居たのは、毛むくじゃらの友達ではない。むしろ、つるつるのすべすべの存在だった。
そう、少女が目を開くと、そこには金髪碧眼の美少女が一糸まとわぬ姿でそこに居て。
「ひぇええええええええええええええええっ!!?」
少女もまた、一糸まとわぬ姿で金髪碧眼の美少女――照子へと抱き着いていたのだった。
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よくフィクションにある『遭難した男女』が裸で温め合うというシーンであるが、これは必ずしも適切ではない。
体温をこれ以上下げないために抱き合うのは時として正しいのだが、近場に暖房設備が整った拠点があるのならば、早急にそこへ移して処置をした方が良いだろう。
この場合、突然、お湯に放り込むとショックで大変なことになる可能性があるので、毛布で体を包みつつ、手足に凍傷などが無いか確認するのが先決だ。裸になっている暇があれば、そういう処置に集中した方が良い。
「馬鹿なの? この人は…………この冬山に、こんな脆弱な心で入り込むなんて。せめて、そういう耐性を持った装備をすべきなのに…………駄目だ、すっかり心が凍てついてしまっている。これは通常の処置だけでは治らない」
だが、『常冬の王』が管理する極寒の領域は、肉体だけでなく精神すらも蝕む。
強く己の精神を保てる者か、あるいは、精神攻撃を防ぐ魔道具などを装備していなければ、常冬の冷たさに精神が凍えて、やがて、動くことすらもままならなくなってしまうのだ。
その場合、肉体をいくら温めたところで、凍り付いた精神が動き出すことは無い。
常冬の冷たさは、終わりの冷たさ。
生命を終わらせる死神の鎌に等しい。
それに抗うためには、生命の鼓動、生命の温かさが必要となるのだ。
「…………あの、ごめん、照子さん。僕は、専門家じゃないからこんなやり方しか知らなくて。でも、絶対覗かないし! 見ないから!」
「ああ、うん……大丈夫、信じているよ……」
「すっごい無理している感じの笑みだけど、大丈夫!? 流石に、僕だと物凄く誤解が生じる恐れがあるから、照子さんに頼むしかないんだけど!」
「大丈夫…………母親、私はこの子の母親になるのだ……」
「いや、別にそこまで気合を入れなくても、大丈夫だぜ? まぁ、抱きしめてあげる側の精神の熱が高いほど回復も早いけど」
つまり、全裸で温める必要が出て来るのだ。
ふざけた治療法かもしれないが、これは先祖代々、犬飼一族に伝えられてきた由緒正しい治療方法である。
銀治も、自らの父親がそうやって凍えた人を助けた経験があるという話を聞いていたので、直ぐにこの方法を思いついたのだろう。もっとも、その時に聞いた話は、父親がむさいオッサンと抱き合うことになったという地獄のような状況だったので、その時に比べれば、各段にマシという感覚が銀治にはあった。
「人命救助……人命救助……私は母親……何の邪心も抱かない……」
ただ、銀治は知らない。
笑みが引きつっている照子の内心に、尋常ならざる葛藤があったことを。
それでも、やはり人命救助。キスではなく、人工呼吸。同衾ではなく、治療。今更、恥ずかしいから嫌だと言える空気でもなく、ここで言ってしまえばただのクソ野郎だ。
故に、照子は凝り固まった己の頬をもにゅもにゅと揉みしだくと、気合を入れ直す。
「ヨシ! 大丈夫だ、この私に任せておけ!」
これが、照子が全裸で少女と同衾するに至った経緯である。
なお、同衾中に一切の邪念や性欲を抱かなかったことに、照子は己を誇らしく思いながらも、ちょっとがっかりしたような情けない気持ちになったのだった。
「ええと、事情は分かりました。あの、天宮さん……私を助けていただいてありがとうございます。本当に、助かりました」
「照子でいいよ。それに、治療方法を教えてくれたのはここにいる銀治君だからね? こっちの方にお礼を言っておきなさいな」
「…………はい」
まぁ、それはそれとして。
助けられた少女としては、照子に対してかなりの気恥ずかしさと、それ以上の恩を感じるのは当然であるとして、問題はこの場で唯一の性別男に対する感情である。
それが唯一の治療方法なのは、なんとなくわかる。
もちろん、同世代の男子と全裸で抱き合うよりは各段にマシな状況だ。
でも、それでも、危うく少女は起きた瞬間に未知の扉を開いてしまいそうなほど心が揺れ動いてしまったのだ。感謝の方が大きくとも、複雑な物が無いわけではない。
「あり、ありがと、う……ございます、銀治さん」
「なんで僕、涙目で睨まれているの?」
そして、まるで辱めを受けたかのような少女の視線を受けては、銀治としても気分がよろしくない。助けたのは自分勝手な行動であるから、別にお礼を言う、言わないはどうでもいいのだが、そんな風に睨まれる筋合いもないと、密かに機嫌を損ねてしまっている。
ここら辺の女性の機微に関しては、流石に、生まれてからずっと冬山に閉じ込められた少年に察しろ、というのは難しいだろう。
「まぁまぁまぁ、銀治君。この子は、危うく死ぬ瀬戸際だったのだから、精神が安定しなくても当然だよ? むしろ、ちゃんとお礼を言えている分、しっかりしている方さ」
よって、そこをフォローするのが照子の役割だ。
「…………まぁ、はい。僕も、死にかけていた時は、気が昂って、口が荒くなる時がある。ごめん、配慮が足らなかった」
「うん。素直にそう言える銀治君の強さを、私は凄いと思う。後、君も落ち着いたら、銀治君に改めてお礼を言って欲しいな? 確かに、あの治療法は私も恥ずかしかったけれど、銀治君は真剣に君が助かる確率が一番高い方法を選んだのだから」
「うぐ……は、はい」
柔らかく、角を立たせず、どちらに加担するわけでもなく、やんわりと包み込むような助言。美貌もそうだが、妙に大人びた振る舞いには説得力があり、他者を落ち着かせる振る舞いには堂に入った物がある。
銀治はその対応に対して、『流石、照子さん』と感心するが、助けられた少女の方は奇妙な違和感を覚えていた。明らかに、自分と同世代であるはずの少女だというのに、中身だけが自分たちよりも頭幾つも抜けていて、大人として成熟している。
これは、外を知らぬ者と知る者の差だ。
銀治と少女の、感覚のズレとも言えるだろう。
「それと、そろそろ私としては、君の名前を知りたかったりするのだけどなぁ」
「あっ! すみません! 申し遅れまして!!」
その差異を二人に自覚させない内に、照子は言葉を続ける。
人と人とのズレという物は、自覚すればそれが顕著になってしまう。照子の経験上、浅く、その場限りの関係性として交流するのであれば、ズレの自覚は邪魔でしかない。
もちろん、自己紹介をして欲しいというのも事実だった。
何せ、『偶然紛れ込んだ一般人』ということは、この常冬の領域の性質上、考えづらい。加えて、治療中に銀治が荷物を検分した結果、『多数の使役用の魔結晶』が確認されている。
流石に、ここまで状況が揃っていて、それじゃあ、さようならと外にすんなりと帰すことは出来ない。
「私の名前は姫路 奈都! 十四歳の中学生です! これでも、魔獣使いとしてギルドに登録していまして……この山には、仕事で来ました!」
「仕事? どこからか依頼でもあったのかい?」
「はい! 私の仕事はですね!」
ましてや、ギルドからの依頼という言葉を聞いてしまえば、照子はともかく、銀治は逃がすわけにはいかなくなった。
この常冬の領域は、古くから犬飼一族の狩場であり、同時に、カンパニーが周囲の組織の干渉を防ぐために手を尽くしている場所なのだから。
そこに、故意に侵入してくる同業者が居る時点で、銀治としては警戒と排除の対象だった。
「この領域に住まう、『常冬の王』という魔獣さんと! お友達になることです!!」
そして、奈都が発した言葉によって、銀治は完全に少女を敵対者と定めることになる。
「…………あちゃあ」
奈都と銀治。
二人の子供の約束された対立を考えながら、密かに照子はため息を吐いたのだった。




