第39話 銀弾よ、常冬を穿て 4
犬飼銀治は、自分のことをいぶし銀の猟師だと思っていた。
いや、いぶし銀ではなくても、冷静沈着な仕事人だと思っていたのである。
ライトノベルに出て来る主人公が、美少女の色香に戸惑い、緊張しているシーンなどを読むと、微笑ましく思いながらも、『自分はこうならない』という確信があった。
自分はきっと、こういう時があっても、さらりと格好良く対応して見せるのだと。
そして、貫禄の大人っぽさで、美少女たちがやきもきしながらも、いざという時に決める自分に惚れてくれればいいなぁ、という妄想なんて、どれだけ繰り返したか分からない。
けれど、妄想は妄想だ。
格闘漫画を読んだ次の瞬間、なんとなく自分が強くなったと錯覚する子供のように、銀治の中に形成された『大人の対応をする自分』なんてものはどこにも居なかったのである。
「……こんな、馬鹿な……この、僕が……っ!」
銀治は自分のベッドで横になりながら、静かに戦慄していた。
何故ならば、隣で布団を出してすやすやと眠っている照子の姿が気になって仕方がないからだ。正確に言うのであれば、『美少女を気にして眠れない』という自分の行動が信じられないからだろう。
「おかしい……絶対、おかしい。僕はあれだぞ? これでも、優秀な猟師だぞ? 幾つも死線を潜ったし、その度、何度も機転と鋼鉄なる精神で乗り越えてきた。僕はタフで、強い男であるはずだぞ、犬飼銀治」
ベッドの中で丸まりながら、ぼぞぼそと自分に言い聞かせる姿は、とてもタフな男には見えないが、そこは仕方ない。
誰しも男子は、年頃の少女に視線を奪われて、胸が高鳴り、自分が自分ではないような無様を晒してしまうものだ。これは男子としての通行儀礼。思春期の男子ならば、麻疹の如く誰しも罹る代物だ。むしろ、経験していなければ後々、大きなダメージとなって自分に降りかかってくる可能性があるので、思春期としては少し遅めであるが、まだまだ取り返しのつく段階だと言える。
もっとも、そんなこと銀治本人はさっぱりと知らない。
己が精神の不調に戸惑い、狼狽するのみだ。
「………………待て。いや、落ち着こう。落ち着こう、僕。変わらぬ現実を前に、逃避行動を続けるのは愚かだ。精神を落ち着かせて、現状を把握するのだ」
ただ、思春期に突入してしまった銀治であるが、元々、彼は特別だ。
厳しい現実の中で、常に命のやり取りを重ねてきた凄腕の仕事人だ。己の不調をそのままにして、誤魔化すほど愚かではない。
他の一般思春期男子ならば、学校という平穏な日常を過ごしているが故に、多少精神的におかしくとも、何も問題ないだろう。
だが、銀治はこの後に決戦を控えた猟師だ。
全身全霊を賭けても倒せるかどうかわからない、『常冬の王』に挑まんとする叛逆者だ。
この不調をいつまでも抱えていていいわけがない。
「父さんが言っていただろ? 大切なのは認める心だ……認めるんだ……どんなに情けない部分でも、自分の情けなさを認めて、初めて人間は成長出来る……っ!」
寝室の暗闇に埋もれながら、銀治は、今は亡き父の言葉を思い出す。
幼い時に亡くなった銀治の両親であるが、亡くなる前に、銀治に沢山の言葉を残してくれた。銀治は、一人で行き詰った時、苦しい失敗があった時、決まって両親の言葉を思い出す。
その言葉が全て、絶対的に正しいなんて思っていない。
しかし、その言葉は勇気をくれる。前に進むための力をくれる。
人が成長するために必要なのは、正しさではない。愚かであろうとも、前に進むための意志なのだ。
「よし、賭けをしよう、犬飼銀治。これは、己の心をチップにした賭けだ」
両親の言葉を思い出しながら、銀治が考えたのは『区切り』が必要である、ということだ。
このまま、己の心が曖昧なままで居るのは明らかに宜しくない。なので、はっきりとさせる必要がある。
己が、美少女の色香に惑わされる情けない奴なのか、どうかを。
賭けの方法は単純だ。
現在、互いの警戒のために同室で照子は眠っているので、起こさないようにそっとその寝顔を覗くのだ。そこで、胸がときめいてしまったら、賭けは敗北。自分は、女関係ではクッソ情けない童貞野郎だと認めなければならない。
だが、勝利することが出来たのならば、照子の寝顔を見てもときめかず、『やれやれ、警戒心の無いお嬢さんだぜ』とニヒルに笑うことが出来たのならば!
「僕はきっと、タフな自分を信じられる」
そして、銀治は賭けに出た。
もちろん、細心の注意は払っている。いや、それどころか、銀治はこの窮地に於いて、成長していた。かつてないほど自然に、水蒸気が霧散して消えていくように気配を薄めて、動く技術を獲得していたのである。
心は凪ぐ水面のように。
体は微風のように。
それでいて、技術は精緻を重ねに重ねて。
「…………ふぅー」
銀治は隠形の境地に至り、気配を悟られること無く照子の隣へ辿り着くことが出来た。
「すぅ、すぅ、んにゃ」
つい数時間前であれば、寝息を聞いただけで心を乱されていた銀治であったが、覚悟を決めた彼は違っていた。
心の凪が乱れることは無い。
もう何も恐れることなどはない。
きっと、今ならば自分の素直な気持ちを信じられる。
そのような面持ちで、銀治はそっと照子の寝顔を覗いて。
「………………」
無言のまま、ベッドの中に戻った。
掛布団を頭まですっぽりと被り、息苦しい暗闇の中で、彼は賭けの結果を内心で吐露し始めていた。その内心を仮に、言葉にするのなら、次のようになる。
『か、かわいいいぃいいいいいいい!!? え!? 卑怯じゃない!? 起きている時は、ミステリアスな感じのキリっとした綺麗系美少女だったのに! 寝ている時は、無邪気な寝顔で、可愛いって、反則じゃない!? イカサマじゃないですかぁ!? 信じられねぇ! 都会の美少女って奴は、ここまで圧倒的なの!!?』
完全敗北したことを認めざるを得なくなってしまった銀治であるが、これは偏に、銀治の女性に対する免疫の無さが原因とは言えない。
銀治は到底知らないことだが、照子の肉体はかつて、『懐古主義』という集団が、天照大御神専用として依頼した一品である。
その完成度たるや、『なんで金髪碧眼?』という点を除けば、太陽神に相応しい物だ。
陽光の如く周囲を明るく照らすような美貌はもちろん、呼吸音から指先の動き一つに至るまで、無意識に人を魅了し、屈服させるように計算されて作られているのだから、銀治でなくとも、魅了されるのは当然だ。
むしろ、極寒の領域で生存競争に明け暮れる銀治だからこそ、このような思春期特有の発作で済んだと言えるだろう。
仮に、銀治と同じように、同世代の女子に対して全く免疫がない者が照子と対面してしまえば、もはや、好意を通り越して崇拝になってしまうのは確実。
現在の照子は。それほどまでに美しく、圧倒的なカリスマを持っているのだ。
「ま、負けた……僕の、負け…………ちくしょう、これが完全敗北の味、か……はは、苦くて辛いけど、何故か、心地よくすら感じるぜ……っ!」
無論、そんなことを露とも知らぬ銀治は、ベッドの中で自分を『クソ童貞野郎』と認めてしまっているし、すやすや眠る照子には知る由も無かったのだった。
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「僕が全面的に協力しよう」
「え、でも、悪いよ?」
「いいや、これは僕の仕事を円滑にするためにも必要だから」
「あー、ごめんね? なんかこう、色々と」
「気にしないで欲しい。僕が勝手にやっていることなんだしさ」
銀治は己の中にある情けない部分と向かい合い、決意した。
そうだ、出来る限り早く照子の用事が終わるように協力しよう、と。
ついでに、もしもチャンスがあったら恩を売ったり、沢山好印象を抱いて貰って、別れ際に連絡先とか貰えたら最高だ、と。
そう、そうだ。今まで、一体、何を悩んでいたのだろう? 自分はこういうチャンスを待っていたのではないだろうか?
ライトノベルの主人公のように、美少女に対して格好つけるその日を。
余りにも突然の出会いであったからこそ、警戒し、戸惑ったのだが、むしろ、都会で体験するはずの素敵ハイスクールライフが、向こうから迎えに来てくれたと考えればいい。
ここは銀治の庭みたいな物。
目を瞑ってでも、大体の地形を把握し、平然と駆け抜けることが可能なほどに熟知した場所だ。このマイフィールドならばきっと、実力者と思しき照子に対していい格好を見せられるはず。いいや、無意識に行動を起こしていたが、ひょっとして既に中々の好印象を抱いてくれているかもしれない。
そのように考えれば、昨日の完全敗北もまた、成長イベントの一種だと割り切れば、これもまた青春ハイスクールライフの一部。
「さぁ、猟師の戦い方を見せてあげるよ、照子さん」
照子の戦いを助けて、好印象を抱いて貰う。
満面の笑みで、握手しながらのお別れ。けれど、自分の手には照子の連絡先が書かれた紙片が握らされていて。
やがて、『常冬の王』を狩って、自由を手に入れた銀治が都会に行くと、ふとした偶然で、照子と再会。そこから始まる、バラ色の青春。
完璧だ。
僕の未来設計は完璧だ! 自分が恐ろしい! などと脳内で盛大に浮かれている銀治であるが、表面上は微塵もその気配を出さない。
凛々しい表情で、体に染みついた装備点検をこなしていく姿はまさしく、プロそのもの。
「ふふふ、頼りにしているぜ、銀治君」
そんな銀治の姿を見て、照子は素直に信頼を寄せていた。
…………ここまでは概ね、銀治の予想通りだったと言えるだろう。そう、ここまでは。
「いやぁ、凄い! 完璧な援護だったよ、銀治君! あんな遠くから、針の穴を通すような狙撃の連続。気配がまるで感じられないから、虚空から銃弾が撃ち出されているのかと思った! 君が後ろに居てくれると、とても頼もしいよ!」
「…………あ、うん。どうも」
一時間後。
照子の周囲には魔獣の死体の山が積みあがっていた。
その傍らには、ゴロゴロと緑色の魔結晶が並べられている。
照子と銀治が共に、ログハウスから出てからおおよそ一時間の間、異常なほどの勢いで魔獣が出現。生存本能をどこかへ忘れてしまったような憎悪のスタンピードに、流石の銀治も撤退を視野に入れていたのだが、その考えは照子の活躍で不必要になっていた。
次から次へと襲い掛かる魔獣の群れ。
それを、照子は銀治から借りた鉈に魔力を込めて、次々と薙ぎ払ったのである。
決して、技術的には上手くない鉈の振るい方。けれども、それを補って有り余る、魔力による異常な身体強化で照子は魔獣たちを圧倒した。
突風の如く照子の姿が消えたかと思えば、次の瞬間には、数体の魔獣の肉体が両断されて、死に果てている。照子の手には、いつの間にか、魔結晶が。
そういう異常が、当然のように巻き起こされる現実を、銀治はずっと見ていた。
「…………強いな、照子さんは。いや、マジで強い」
「うーん、そうかな? 私としては、まだまだ上が居るから、そういう実感はあんまり無いのだけれどね? どちらかと言えば、私が『あ、噛まれる』と思った瞬間に、動きをフォローする形で放たれる狙撃の凄まじさに感心したよ。錬磨の果てに得た、技術の集大成って感じで」
「ははは、そっかぁ」
強い。
技術的な意味で強いのではなく、生物として強い。
存在の格が違うような、圧倒的な強さ。
――――喉から手が出る程欲しかった、優秀な前衛としての強さだ。
「…………そっかぁ」
気づけば、銀治の思考は浮かれた物から現実的な物へと切り替わっていた。
冷たく、正しい戦況判断担当の脳が告げる。
照子を味方に引き入れて、『常冬の王』に挑めば、かなりの確率で勝利することが可能になると。名誉も、先祖代々の因縁も、女の子を盾にして強大な敵に挑むという倫理観が最低である点も無視すれば、確実な勝利とまではいかないが、高確率で勝利が可能であると。
だが、その判断を即座に下せるほど、銀治は現実にも自分にも絶望していなかった。
悩みはするけれども、その程度。
照子から『何か、お礼を』と言われれば、頭を下げてお願いする覚悟はあるが、それだけ。
積極的に照子へ頼み込まないのが、銀治という少年の弱さであり……また、彼の根底を支える強さでもあった。
「さて、折角案内して貰ったのだから、そろそろ私に殺されるために、顔を出して来てもいい頃合いだと思うのだけれどねぇ、グーラ」
もっとも、照子としてはそんな葛藤を知るわけもなく、自分と共に極寒の世界にやって来た魔人を虎視眈々と狙っているのだが。
「…………っと、ん? 銀治君?」
「ああ、多分、照子さんの考えている通りだと思う」
二人が戦闘を終え、周囲にまだ襲ってくる魔獣が居ないか探っている時だった。
ほぼ同時に、二人は五百メートル先に異質な気配を察知する。
その気配は魔獣と呼ぶには、余りにも弱々しく鈍い動きをしていて…………そして、緩やかに雪原に倒れ込み、動かなくなった。
銀治はまさか、と思いつつも、照子は何も考えずにほぼ条件反射で、倒れた気配の所へ向かう。
「おや、私が言えた義理じゃあないけれど、珍しいこともあるものだねぇ?」
「…………珍しいどころじゃなくて、青天の霹靂だよ、これ」
そこには、真っ白な顔をして雪の中に倒れ込む、黒髪ベリーショートの少女が一人。
どうやら、常冬の領域はまた一人、招かれざる者の侵入を許してしまったらしい。




