第28話 美少女転校生 10
絵を描くことを、その少女が楽しいと思ったことはあまりなかった。
ならば何故、絵を描くかと言えば、それは単なる偶然に過ぎない、と少女は言うだろう。たまたま、何か一つ『武器』を探そうとして、手に取ったのはまっさらなスケッチブックと鉛筆であったというだけの話。これが、最初に手に取ったのが違う物だったのならば、少女は己の才能を知ることも無く、大嵐に絡めとられてしまっていただろう。
少女が、絵を描くことを楽しいと思ったことはあまりない。
けれども、自分の絵を誰かが見て、そこに意味を見出してくれるのならば。大切な誰かが、好きであると言ってくれるのならば、少女はそれでいいと思っていた。
親しい誰かのために絵を描いていれば、特に望むことは無い。少女の隣に、唯一の友達が居てくれるだけで、少女はこの上なく満たされていたのだから。
でも、少女はそれに甘えた。
友達の好意に甘えて、当たり前だと善意に乗っかって、結果、取り返しの付かない破綻が訪れてしまう。
どちらが悪いとかではない。
どちらも悪く、どちらも正しい喧嘩。
だからこそ、どうしようもないのだ。取返しが付かない。以前の関係に戻ることなんて出来ない。例え、それが双方望まぬ喧嘩だったとしても、関係性は進んでしまったのだから、後は駆け抜けていくしかないだろう。
少女はそれが、怖かった。
自分が変わることも、周囲が変わることも怖かった。
ずっと、停滞の安寧に浸って居たかったし、今でもその時に戻れるのならば、喜んで戻りたいとさえ思っているかもしれない。
だが、先に進むことでしかもう一度、友達と触れ合えないのであれば、やはり、駆けていくしかないのだと、少女はようやく悟った。
曙光の如き同類に照らされ、己の立ち位置を理解して。
友達に向けるための、答えを探すため、少女は初めて己のために筆を取る。
「違う……違うっ! こんなんじゃ、ない! こういうのじゃ、ないはずだ!」
己のために初めて描く絵は、苦痛と共に在った。
今までは、己の余分を吐き出すような気軽い爽快感さえあったというのに、この時はまるで違っていた。
迷う。
これで本当にいいのかと迷う。
悩んだ末に決断して、いざ描き出してみれば、あまりの情けない線の有様に、すぐさまやり直してしまう。
苦悩。
少女は己と向き合って初めて、創作者が誰しも当たり前に感じている苦悩にぶち当たった。
「私は、私は一体、何のために……何がしたくて……絵を描くんだろう? 私は、なんで絵を描いているんだろう?」
ぐるぐると頭の中を回る禅問答。
描けば描くほど、己の血液をインクとしているかのように擦り減っていく心身。
それでも、止まらない。
何度も、何度もやり直しても、止まらない。
迷宮の中を、何度も行き止まりにぶち当たっても、出口なんてないと思うぐらいに迷い込んでしまっても、少女は進もうとすることを止めない。
今まで散々、立ち止まって来たのだから、今ぐらいは死んでも描き続けろと、己の弱気を蹴り飛ばして、先へ進む。
納得の行く答えなど見つかるかどうかは分からないけれど。
それでも、描き続ければいつか、絵が完成する時が訪れるのだから。
「………………ん?」
一体、どれだけ描き続けたのだろうか?
少女はふと、己の筆先が止まっていることに気づいた。
「んんんん?」
しばらくの間、唸って少女は己の絵を見つけて、「ああ」と理解の声を上げる。
「もう、完成していたんだ」
とても、納得できる絵では無かった。
もっと、もっと何か素晴らしい答えを描き上げられると思っていた。けれども、今の少女の力量ではこれが精いっぱい。どれだけ色を重ねようとも、どれだけやり直しても、恐らくはこれが限界点。
ならば、これが今の自分の答えだと、少女は認めることにした。
『今すぐ会いたい。答え合わせを、しよう』
描き上げた衝動で、少女はここ数か月ずっと使わなかったメッセージアプリで、短い文章を送る。送った後に、ようやく、今が明け方だということに気づく。まだまだ、陽も昇っていない午前四時前だ。こんな時間に、起きているわけがない。
『どこで?』
しかし、少女の予想に話して、メッセージは一分も経たずに返って来る。
少女が送った物よりも、短い文章。
『いつもの、公園で』
『分かった。すぐ行く。待ってて』
久しぶりのやり取り。
少女は思わず己の頬が緩むのを感じたが、即座に、ばちんと両頬を叩いて気を引き締める。少しでも、気が緩めば、そのまま寝てしまいそうだったから。
「行ってきます」
少女は同居人に内緒でそっと家を抜け出し、近場の公園に急ぐ。
走って、五分の位置にある小さな公共の公園。
いつだって、少女と友達はそこで言葉を交わした。ベンチに座って、一緒に絵を描いた。絵が完成したら、自動販売機から、缶ジュースを買って、一緒に乾杯。
今でも夢に見る、黄金の日々を思い返しながら、少女は暗闇を走る。
運動は全然得意ではないけれど、それでも、早く。早く。早く、答えを見せたい。自分の描いた絵を見せたい。
あの黄昏に輝く幸せの日々には戻れないかもしれないけれど、それでも、もう一度、違う関係になったとしてもやり直せるのならば。
特別な人と一緒に居られるのならば。
それはきっと、自分を変えるに足る理由なのだろう。
「…………あっ」
少女が駆けていった先で、待ち合わせの公園で、見覚えのある姿が見えた。
街灯に照らされて浮かび上がる、不機嫌そうな顔はまさしく、友達の物だ。不思議と、毎日教室で見ているはずなのに、まるで初めてあったような気分になってしまう。
「ぜぇ、ぜっ……あ、あの、こ、これ……っ!」
少女は息を切らしながら、再会の挨拶よりも先に、己が大事に抱えていた絵を差し出す。
これが、これこそが、自分の答えだと。まずはこれを見てもらって、それから、それから、ちゃんと話そうと少女は覚悟を決めて。
「なにこれ、くだらない」
「――――えっ?」
少女は己の絵が、友達の手によってびりびりに破かれる瞬間を見た。
意味不明だった。
心底不愉快という顔つきの友達が、全然知らない他人のように思える。
だって、友達は少女を傷つけたとしても、絶対に少女の絵を傷つけるような人では無かったのだから。
「もう、アタシに近づかないでよね」
そして、呆然とする少女を置き去りに、友達の姿をした何かは、少女の眼前から立ち去った。
「なん、で?」
何をしていいのか、分からない。
何が起こったのかも、分からない。
まるで、悪夢の中に迷い込んでしまったかのようで。
『ぎひっ……歪んじゃえ♪』
少女の耳元から、悍ましい何かの声が聞こえた瞬間、少女の意識は暗転して。
――――少女、滝藤瑞奈は、魔に刺された。
●●●
少女は恵まれていた。
優しい両親。何不自由ない、裕福な家庭環境。生まれながらに備わった、社会に馴染みやすい素質。何事も人並み以上にこなせる才能。美少女と呼ぶほどではないが、人の嫉妬を集めない程度に整った外見。
少女は生まれながらにして、人間社会に祝福された存在だった。
まるで、絵にかいたような理想的な家庭。母親は常に優しい微笑みを浮かべながらも、きちんと少女に淑女としての教育を与えて。父親は無口でありながらも、きちんと少女に善悪を教え込み、倫理観と道徳を育て上げた。
少女は、周囲に褒められることが大好きだった。
褒められて、認められる。それこそが、少女の生きがい。出来るだけ凄い人に、凄く褒められること。それが、幼い少女が夢に見た、己の理想図だった。
「うわぁ、凄い! 君って、絵の才能があるんだね! 漫画家になれるよ!」
その理想図が少し変わったのは、小学校低学年の頃。
生まれて初めて、真剣に絵を褒められた時のことである。
少女は普段から褒められ慣れているので、褒める言葉にどれだけの虚飾、おべっかが込められているのかを、なんとなく見抜くようになっていた。
けれど、その賞賛からは純粋な尊敬が込められているのみ。
嘘偽りのない、本当の賞賛を受けて、少女は驚いた。まさか、自分にそんな才能があったのかと。素直に、その賞賛を信じ込んでしまったのだ。
「私、将来は芸術家になるから! ふふん!」
故に、少女は芸術家になるのだと、幼くして己の将来を決めてしまう。
無論、両親などは本気の少女に対して、悩みながらもとりあえず様子見ということで、全面的に肯定はしなかったのだけれど、却ってそれが少女に火を付けた。
インターネットを駆使して、現実を学んだ。
お小遣いを貯めて、様々な画材を揃えた。
誰かと一緒に居る以外の時間、つまり、一人の時間のほとんどを睡眠以外、絵に費やすことに決めた。
少女は、夢見がちではあったものの、本気だったのだろう。
凄まじい練習量に加えて、生まれながらの要領の良さから、同世代の子供たちを置き去りにどんどんと成長していった。
この時の少女は、まだ無邪気に己の未来を信じていた。
多少苦労をしようとも、漫画の主人公みたいにそれを乗り越えて、希望の未来を掴むことが出来るのだと。
諦めなければきっと、夢は叶うのだと。
「…………あ、えっと、あの……た、滝藤……瑞奈れす……はい……」
一人の怪物に出会うまでは、素直にそう思っていた。
少女が、怪物を見た第一印象としては、『弱々しい人』だった。陸の上に居るのに、今にも酸欠で溺れてしまいそうな、ただ生きることも難しいような社会不適合者。
関わる価値もなく、関わる予定も無い相手だと少女は怪物を見限って。
「――――っ!? っは、あ? なに、あ、れ?」
ある日、少女は怪物が怪物である由縁を知った。
ただ、絵を描いていただけに見えただろう。同世代では、少女ほど錬磨を積み上げなければ、理解できなかっただろう。怪物がどれだけ美しく絵を描いているのかを。
当然のように引かれる、滑らかな曲線。
初雪の如く、優しく色を降らせる筆使い。
少女は思わず、己の手を止めてでも、少女の作業風景を、凝視した。目が乾いても、構うものかと凝視を続けて、結局、少女が中断するまでずっと動けなかった。
「なんで、なんで、あんなのが!」
少女は怪物と出会い、今まで積み上げてきた全ての幸福を踏みつぶされた気分だった。
だって、だって、あんなものを知ってしまったのならば、今までが色あせてしまう。あんな衝撃を得てしまったのならもう、今までの平穏で満足できるわけがない。
少女は、怪物と出会ってどうにかなってしまった。
「あんなの、あんなの! 愛してしまうしか、ないじゃない!!」
今までの価値観を粉々に砕き、それを改めて、新たなる自分の幸福のためにつなぎ合わせる。怪物のような、己の神様を信奉するために。
「…………ね、ねぇ! そ、そのっ! 一緒に、ご飯食べない?」
「ふへ?」
それからの少女の日々は、充実していたと言えるだろう。
もっとも、それは信奉者としての幸せだが。
己が尊いと感じる者に尽くす喜びは、少女にとって甘美な物であり、同時に邪なる独占欲が生まれていった。
このまま過ごせば、自分だけがこの素晴らしい存在を独り占めできるのでは?
いや、自分だけが、この子の素晴らしさを知っていればいい。
この子だって、自分を望んでいる。依存している。
ならば、将来もこの子を養って、自分から離れられなくなるほど依存させて、ずっと囲い込めば、両者にとって幸福な人生を過ごせるのだ。
少女が、怪物の狂信者ならば、実際にその考えを実行に移したかもしれない。
怪物の才能だけを愛していたのならば、二人きりの閉じた世界を望んだかもしれない。
「駄目だ…………駄目だっ! あの子は、もっとちゃんとした幸せも、知らないと」
かつて、粉々に砕いた過去の価値観が。一介の絵描きとしての意地が。何より、才能ではなく、当人の人格を愛おしく思う、友達としての思いやりが、それを留めた。
だからこそ、少女は怪物に告げたのである。
「ねぇ、瑞奈はさぁ……自分の絵を、どこかに発表とかしないの?」
それが、二人の蜜月を破綻させるためのきっかけとなることを、知りつつも。
●●●
「はぁっ、はぁ、はっ――くそっ! もっと、早く動け! アタシの足ぃ!」
少女は――亜季は暗闇の中を、無我夢中で駆け抜けていく。
精一杯息を吸い込んで、吐き出して。化粧なんて当然してなくて。ぼさぼさの髪に、部屋着にジャケットを羽織っただけの恰好。それでも、運動靴を履いた足を、前へ、前へと進ませていくのだ。
「瑞奈、瑞奈、瑞奈――瑞奈っ!」
会いたい。
知りたい。
アタシの怪物が。
アタシの友達が。
どんな答えを出したのか、知りたい。
そのためだったら、自分の寿命なんて縮んでもいいから、どうか、足よ、もっと速く。
「みぃ、ずぅ、なぁああああああ!!」
魔法のように、彼女に至る道を駆け抜けてくれと願いながら。
亜季はひたすら速さを求めて駆けていた。
そして、十分ほど息を切らしながら全力疾走したおかげで、亜季は自分でも驚くほどの速さで、待ち合わせ場所へと辿り着く。
もちろん、会った時にどうするかなんて考えていない。
何を言うのかも、何を謝ればいいのかもわからないまま、ひたすら先を求める。
「ぜぇ、ぜぇ、ぜっ…………アンタ、誰だ?」
「――――ふふふっ」
だが、待ち合わせ場所には既に、自分が、池内亜季と同じ姿形の何かが居た。
いいや、違う。偽物の亜季は、現在の亜季のように慌てていない。きっちりと服装も髪型も整えた、余裕のある外出用の姿だった。
ドッペルゲンガー?
亜季の頭の中には、とある都市伝説の名前が浮かんだが、即座にどうでもいい物と切り捨てる。
非日常? 怪異? そんな物、全て邪魔だ。
「どけよ、邪魔するなら殺す」
「…………」
亜季の殺意の籠った恫喝に対して、偽物の亜季は意味深な笑みだけを残して、その場から消え去った。まるで、霞のように眼前から描き消えたのである。
意味不明な怪異現象。
されど、そんな物で今の亜季は止まらない。
よっしゃ、よくわからん何かが消えたわ、とばかりに、亜季は公園内に設置されてあるベンチへ走っていって。
「………………み、瑞奈?」
「――――ふひっ」
先ほどの怪異など、比べ物にならない異常がそこに在った。
纏うは、鮮血の如き赤きドレス。
ぼさぼさの髪は、毛先まで艶やかに梳かれていて。
おどおどとした雰囲気は皆無の、『女王』という言葉を連想させる、滝藤瑞奈という怪物が、そこに居た。
「踊れ、【空想可能な私の血液】」
そして、池内亜季にとっての非日常が始まる。




