第26話 美少女転校生 8
滝藤瑞奈は、己を出来損ないの生物であると考えている。
弱肉強食の下位。
本来であれば、生きる価値の無い屑。
社会に属する資格も無い、薄汚い獣。
他者に迷惑をかけ続けるだけの肉の塊。
それが、自分だとずっと思いこんでいる。
「アンタなんて、産まなければよかった」
その自己否定の背景にあるのは、生まれてから小学校高学年の間まで、ずっと受け続けてきたネグレクトに起因があった。
彼女の両親は、恋人を作り、社会の中で生きていくには十分な資質を持った人間であったが、致命的に子供を育てるという能力に欠如を抱えた人間だったのである。
自己中心的と言えばいいのだろうか、己と己が好きなことが全て。己が楽しいことをするためだったのならば、どんな困難にも耐えて、準備を重ねられる。けれど、それが他者のためであったのならば、例え血を分けた子供であったとしても、極端にモチベーションが下がる存在だったのだ。
「いい? それで適当に食ってなさい。ああ、家庭に問題があるとか疑われるから、ちゃんと勉強しておきなさいよ、良いわね?」
物心ついた時、瑞奈が最初に覚えたことは、貨幣の使い方だった。
無論、数字のやり取りなんてわからない。ただ、『これ』を用いれば、食事が貰える。生きることが出来る。そういう理解だけがあった。
しかし、瑞奈は決して賢くない。なんとなく使い方が分かったとしても、貨幣の管理なんてわからない。結局、渡された金は数日中に使い切ってしまい、両親からは『贅沢しすぎ』なんて言葉で追加の金は貰えない。
瑞奈は常に、飢えという危機と隣り合わせに居る幼少時代を送っていた。
故に、現在に於いても瑞奈は極力物を食べない。可能な限り、食料を減らさず、出来る限り長く持たせようとする悪癖を抱えている。
本来、幸福を感じるべき三大要求の一つに、嫌悪を抱いているのだ。
「はぁ!? なんで風呂場がびしょびしょになってんの!? アンタは普通の風呂の使い方も分からないの? …………なんで、こんな子が私たちの子供なの!?」
瑞奈の風呂嫌いにも、もちろん、理由がある。
風呂の使い方なんてわからなかった瑞奈は、教育テレビで流れていた子供向けの番組で、なんとかそれらしいものを学んで入っていたのだが、当然、何も教えられていない子供が万事上手くいくわけがない。
だから、次第に風呂に入るという行為を嫌うようになっていった。
「なんで風呂に入らないの!? 汚い、近付かないで!」
もっとも、入らなかったら入らなかったで、文句は言われるのだが。
殴られたことはほとんどない。
ただ、抱きしめられたことはもっとない。
ずっと、母親はヒステリックに瑞奈の存在を嫌っている。父親は『あーあ、うるさいなぁ』とばかりにそれを眺めているだけ。
だから、瑞奈は掛け算よりも先に、己が置かれた状況を正確に理解した。
自分という存在は、誰にも愛されずに生まれてきて、当たり前に邪魔になっているだけの物体なのだと。
『お父さんやお母さんはね、皆のことを愛しているんだよ! 子供のことを愛さない人なんて居ないんだ! だから、自分を傷つけないで!』
暇つぶしに眺めていた子供向け番組は、無責任に愛を謳う。
「くっさ! 近づいてくるなよ、ゴミ!」
「やーい、出来損ない!」
「出来損ないだ! 出来損ない!」
「こっちくるなよぉ! 菌が移るだろー?」
同級生たちは、当たり前に瑞奈を嫌悪して。
「あー、滝藤。お前はな、もっと頑張りなさい。ちゃんとしないから、皆の輪に入っていけないんだぞ?」
担任の教師は、父親にも似た目で『面倒だ』と視線を逸らす。
瑞奈は、自分が悪いのだと考えた。
もっともっと、頑張ればきっと、状況は良くなるはず。誰か一人ぐらい、自分を好きになってくれる人が居るはずだと。
それが間違いだと気づいたのは、そういう頑張りを一年間ほど続けたある日のことだった。
「お前さ、もう、何もするなよ」
誰に言われたのかは覚えていない。
両親なのか? 同級生なのか? 教師なのか? あるいは、その全てか?
ともかく、瑞奈はその時に学んだ。自分が何かをする度に迷惑をかける存在であることを。
実際、瑞奈は要領が悪く、先天的に他者の空気を察することが致命的に苦手な人間だ。幼少の経験も理由の大半を占めるが、少なくとも、社会不適合者としての傾向は生まれながらの素質の中に含まれていた。
『この世界は地獄だ! お前らにはそれが分からないんだ!』
全て無為に終わった後、瑞奈はテレビのコマーシャルに流れていたドラマのセリフに、共感した。確かに、この世界は地獄だ。ろくでもない。
でも、一番ろくでもないのは自分自身。
他の人が当たり前に出来ていることでも、苦労する自分自身が一番嫌いだった。
だから、瑞奈はせめて、己の出来る最大限の善を為そうと考えた。
自分が存在するだけで、他者は嫌な顔をする。
自分もまた、他者と関わると痛い思いだけをする。
ならば、誰一人も居ない場所で、静かに自分の命を断つことこそが自分の出来る最大限の善行だと考えて。
「うちの姪っ子はどこだぁああああああああああああああ!!?」
救いは、あまりにも唐突に訪れた。
その人は、目も眩むような金髪を靡かせて、肩にはべこべこに凹んだ金属バットを背負っていた。そう、控えめに言ってもヤンキーみたいな成人女性が、突如として授業中の教室に殴り込んできたのである。
「な、なんですか、貴方は!? け、警察――」
「うるせぇ、ゴミがっ!!」
慌てて止めようとした男性教師を殴り飛ばして、そのまま自分の席にやって来た時、控えめに言っても瑞奈は己の死を覚悟した。
まさか、自分で命を断つ前にこんな目に遭うとは。しかし、こういう終わり方だったならば、きっと、誰にも迷惑をかけずに終われるのではないか?
そんな幼くも愚かな瑞奈の期待は、あっさりと裏切られることになる。
「お前、名前は!?」
「…………えっと、あの!」
「叫べ! 己の名を!」
「ひぅっ! あうあうあ…………みじゅ、みじゅな、です……」
「ヨシ! 姪っ子確認!」
ヒャッハー! という掛け声と共に、瑞奈はそのまま襲撃者の脇に担がれて、攫われてしまった。
混乱の中、襲撃者の顔つきが、自分の母親に似ていたことを思い出したのは、それからずっと後のことだった。
●●●
滝藤 秋絵。
それが、瑞奈を攫った襲撃者の名前だった。血縁関係としては、伯母に当たる人物になる。
どうやら、瑞奈の母親とは疎遠だったのだが、瑞奈の環境をどこからか耳にして、烈火の如く怒り狂いながら授業中の瑞奈を攫ったというのが事の流れである。
なお、この件は不思議なことに警察沙汰には発展しなかった。
瑞奈が秋絵の下でしばらく経った後に尋ねてみても、『あーん? 正義は勝つんだよ、馬鹿野郎』という言葉を返すのみでまったく要領を得ない。
ただ、後々の瑞奈の推察であるが、秋絵という人物は尋常ならざるコネクションを持っており、それを駆使することによって問題を未然に抑え込んだのではないかと考えている。
少なくとも、そうあってもおかしくないという破天荒さが秋絵にはあった。
「くぉんの、馬鹿妹がぁあああああ!! いつの間に人間失格になったんだ、テメェは!? ああん!? 死ね! 死んで詫びろ!!」
「はぁ!? 姉さんだけには言われたくな――――ごふぇ!?」
「お義姉さん! 暴力は! 暴力はいけませ――ぐぼがぁ!?」
「うるせぇ、ゴミどもぉ!! この子の痛みを! そして、なにより! 有休を失った私の痛みを、思い知れぇええええええ!!!」
問答無用の大嵐。
滝藤秋絵という人物を的確に表現するのならば、これが正しい。
何せ、瑞奈を攫ったその足で、瑞奈の両親を呼び出して、ボコボコに叩きのめすという荒行をやって見せたのだから。しかも、挨拶も無しに最初に怒鳴り、次に拳だった。凄まじい勢いでデンプシーロールを叩き込んで、病院送り。止めようとした父親にも、凄まじい速さのジャブを繰り返す拳の機関銃で対応。容赦なく病院送りにした。
「いよぉし! 瑞奈ぁ!」
「は、はひっ」
「止めをさせぇ!!」
「とどめ!?」
「今までの怨恨を込めて、命乞いするこいつらを殺せェ!! 親を殺すことによって、人は一回り大きくなれるんだ、オラぁ!!」
「ひ、ひぃ……」
しかも、病院送りにする前に、姪っ子である瑞奈へ金属バットを手渡し、止めを刺させようとするのだから、もはや蛮族だ。コンクリートジャングルに生まれ落ちてしまった蛮族が、秋絵という人物だった。
「で、できましぇん……」
「ちっ! この子の優しさに救われたなぁ、おい!」
「い、いや、ちがっ」
「命が惜しければ、二度とその面を見せるんじゃねぇぞ!! 分かったか!? …………返事がねぇぞ!? あああ!!?」
「気絶……っ! 気絶してましゅ……っ!」
なお、瑞奈としては両親に対して思うことは特にプラスもマイナスも無かったので、生死はどうでもよかったのだが、ひたすら秋絵が怖かったから拒絶しただけである。
後、普通に人を殺すのはとても嫌だった。
通常であれば、子供に親を殺させるなんて真似をするわけがないのだが、秋絵の価値観は独特の蛮族的な物で構成されているので、半分以上は本気だったに違いない。
「ということで、今日からはお前は私のファミリーだ! 滝藤姓だぜ! 法律!? ああ、そんなのは私の仲間がなんとかしてくれる! だからとりあえず、飯だ! 美味い肉を食っていれば、とりあえず何とかなる!」
「ひぇえええ……」
それからの瑞奈の生活は、良くも悪くも一変した。
まず、食事は否が応でも口にねじ込まれる日々が続き、瑞奈は肉がちょっと嫌いになった。風呂にも毎日入れられたが、クソ熱い温度の湯船が毎日だったので、瑞奈はさらに風呂が嫌いになった。
「勉強!? 大丈夫だ、問題ねぇ!! 生きていく方法を教えてやる! ああん!? 自分は屑だから、出来るわけがない? 大丈夫だ! 出来るまでやろうぜ!!」
「し、しんじゃう……」
かつて自殺を考えていた瑞奈だが、秋絵の余りのごり押し教育はそれどころではない。魂の死を感じてしまう。よって、瑞奈は必死に生きるための手段を考えるようになってきた。
このままでは、屑の自分は居なくなるかもしれないが、代わりに、蛮族二号が生まれる未来しか見えない、と。
そのため、物分かりが悪いなりに、勉強をしっかりとやるようになったし、それを言い訳として、なんとか休憩時間を得られるようになった。
自由時間を得て、栄養が十分に頭に回り、いくらかまともな思考が出来るようになれば、瑞奈は常識に気を遣うようになった。何せ、隣が生きる非常識である。どんな仕事をしているか分からない、奇想天外人類である。
これと、これと同類にだけはなりたくない。
「中学校ぉ!? 行けんのぉ!? お前の社交性でぇ!? そんなことよりも、一緒にアラスカ行こうぜ! アラスカ!」
「そんなことよりも!? だ、駄目です! 義務教育があります!」
「義務教育? そんなものよりも、私の方が強い!!」
「強弱じゃなくてぇ! 行かなきゃいけないところなのぉ!!」
「ならば、力を示せ!!」
「力を示せ!?」
中学進学を望む姪っ子に対して投げかける言葉では無かった。
しかし、身柄を押さえられている瑞奈にとっては、秋絵こそがルール。警察の介入すら防ぐ謎の力を持つ、現代蛮族。
力を示さなければ、アラスカに連れていかれてきっと、B級映画みたいな毎日を送るに違いない。その非日常の中で、正気を保てる自信が瑞奈には無かった。
だからこそ、瑞奈は生まれて初めて自分のためにとてつもなく努力を重ねた。遅れた勉強を取り戻し、必死に社会常識を学び、そして、自分の武器を手に入れたのである。
「……ほう。中々やるじゃねーか。ったく、馬鹿妹め。テメェのガキの才能すら、知らなかったなんてな」
瑞奈からすれば、よくわからないことであったが、どうやら自身は絵や芸術に関して才能と呼ばれるものがあるらしい。
それが本当なのかはさておき、肝心なのは叔母である秋絵が認めるかどうか、だ。
「いよし! よくぞ、私の前に力を示した! 中学進学を認めてやろう! だが、しかしぃ! その資格が無いと分かれば、直ぐにパキスタンに連れて行く! いいな!?」
「パキスタン!!?」
瑞奈は何とか死力を尽くし、中学進学を果たした。
だが、戦いは終わりではないことを瑞奈は理解していた。瑞奈の社交性はゴミであると、自身で理解している。普通に授業を受けていても、辛うじて内容についていけるかもしれないが、好成績などとても望めない。
目立った何かが必要だった。
叔母である秋絵を認めさせるには、何かこれぞという物が必要だった。
「…………ね、ねぇ! そ、そのっ! 一緒に、ご飯食べない?」
「ふへ?」
そんな時である。
瑞奈が、池内亜季と出会ったのは。




