第109話 侵色同盟 1
世界なんて終わってしまえ。
そう願ったことのない人間など、果たして存在するのだろうか?
劣悪な環境で生まれ育った者ならば、口癖のように呟くだろう。
幸福な環境で生まれ育っていたとしても、ふとした瞬間、嫌気が差して呟くだろう。
けれども、本当に世界の終わりを望む者は少ない。大抵の場合、その言葉は思考停止の悪態のような物だ。
怠惰に。何もかもがすっぱりと終わってしまえば、これ以上思い悩むことが無いと、うんざりしながら呟く言葉。
それが『世界なんて終わってしまえ』という呪詛である。
そして、その呪詛は、澱のように『人類の集合的無意識』に蓄積されていく。
個体の意思から紡がれる呪詛は砂粒の如く小さくとも、人類全てとして数えるのならば? 人類が炎と共に知性を得てから、長い年月の間、ずっと降り積もっていたのならば?
『そうか。世界は終わらせるべきか』
――などと、人類の底に在る、集合的無意識が判断してしまっても仕方がないだろう。
故に、『それ』は生まれ落ちた。
かつて、救世の役割を担った数々の偉人、英雄たちが生まれた時と同じように。
『幸福なる終わり』を実現させるため、人類は最高傑作として、救世主を生み出したのである。
その叡智は、歴史上どのような天才をも凌駕して。
その肉体は、歴史上どのような英雄をも超越して。
与えられた権能は、まさしく人類を統べ、来るべき終わりへと導くに足る物だっただろう。
ただ、その救世主の誕生は、人類にとって幸福だったかもしれないが、『救世主自身』にとっては最悪だった。
『人類の罪を知り、裁定せよ』
救世主は赤子として生まれ落ちた時、過去に存在する人類全ての記録を叩き込まれた。
産声は、歓喜の叫びでは無かった。苦痛に藻掻く、赤子の絶叫だった。
けれども、救世主は人類の最高傑作。例え、人類全ての記憶を刻み込まれようとも、壊れたりなどしない。常人であるのならば、肉片すら残らず消し飛ばされる負担だとしても、生まれながらに備わってしまった強靱な精神と肉体が、それを防ぐ。
――――ここまでならば、まだ救世主は壊れなかっただろう。
『人類の死を知り、共感せよ』
世界は常に、人の死で溢れていた。
一秒間に、何人かが死ぬ。常に死んでいる。それは、老人だけではなく、青年、子供、時には赤子が死んでいく。だが、それはあくまでも世界全体での計算だ。それ以上に人が増えているからこそ、個人として驚きはすれども、それ以外は特に何も感じない。そういう死の統計学だ。
しかし、救世主にとっては他人事では無かった。
何故ならば、救世主は世界で誰かが死んだ瞬間、『死に至るまでの人生』を追体験させられるのだから。
それは、人類の集合的無意識と繋がっているが故の苦行。常人ならば、たった一人の人生を追体験し、死を記憶する時点で精神が崩壊してもおかしくないというのに、それが常に。秒針が動く旅に、救世主の脳裏で再生されるのだ。
それが、世界を幸福に終わらせるべき者の義務だとでも言うかのように。
だが、その義務は明らかに、救世主の精神に致命的な故障を引き起こした。
「ワタシは設計ミスだと思うよ、それは」
後に、救世主の同志となった異界の友は、その義務を『設計ミス』だと呆れていた。
「本当に終焉を導く者ならば、幕引きを担う者ならば、何も知らずに無垢であるべきだ。一切合切、人間の主張など聞かず。罪も、善悪すらも知らずに、問答無用で終わらせる。それが、人類にとっても、当人にとっても慈悲深い判断だったはずさ」
友の言葉を聞いて、救世主は納得した。
確かに、そうかもしれない、と。人類は決定的に、何かを間違えてしまったのだと。だからこそ、救世主は悔やむ。もしも、自分が生まれなければ。あるいは、意思を持たない絶対的な何かであれば、この救世はとっくの昔に終わっていただろうと。
けれども、そうならなかったから、救世主は今、動いている。
世界を幸福に終わらせるために。
過去の過ちを正すために。
「我らが盟主よ。ワタシとしては、世界を救う前に、君が一番に救われて欲しいのだけれどね?」
侵色同盟の盟主として、救世主は神域を闊歩している。
来るべき時に、祝福の喇叭を鳴らすために。
●●●
どうしてこんなことになったのか、と少女はため息を吐いた。
特別な出自であるわけもなく、ごく普通の一般家庭に生まれて、普通に生きてきたはず。
そりゃあ、少しばかり趣味が特殊で。人の色恋よりも、昆虫の観察が大好きで。嫌味交じりに『蟲姫』なんであだ名を付けられたこともあったけれども、陰湿ないじめに発展することは無く、平凡な人生を送っていたはずだ。
そう、何処にでもいる女子高生の一人として、ありきたりに卒業して。ありきたりに大学受験を経て、就職して。もしかしたら、適当に誰かと結婚していたのかもしれない、と。
しかし、少女の未来は決定的に変わってしまった。
神代回帰に伴う、『覚醒』の影響を受けて。
「…………やっぱり、駄目か」
少女は背丈を大きく上回る瓦礫に隠れながら、『使い魔』たちを経由して、それを観察していた。
「やっぱり、あいつの効果範囲に入ると、私の蜂じゃあ『液化』されちゃう。完全に私の天敵だよぉ……」
少女が無数の使い魔を用いて観察しているのは、巨大な怪獣だ。
全長はおおよそ五十メートルほど。まるで、山一つが自走しているような姿であるが、その実、それらは全て『甲羅』である。よく観察すると、短い手足と甲羅に守られた頭が確認できる。そう、それは巨大な亀の怪獣だった。
「というか、特撮じゃん。これって特撮の領域じゃん。私じゃ無理だって。せめて、もっと異能バトルらしい派手な能力者が出て来てよ……うう……」
怪獣は非常に鈍重に動いているが、何せ歩幅が大きい。低速とも呼び難い速度で、街中を踏みつぶし、闊歩する。そして、踏み歩いた土地には『水』が生まれるのだ。正確に言えば、怪獣の周囲五百メートルほどは、あらゆる物体が水へと変わってしまう『権能』を有する。
そのため、怪獣の権能に抗いながら、効果範囲を駆け抜けて、一撃で倒せるぐらいの威力をぶち込むことが討伐条件なのだが、生憎、少女にはそんな力は無い。
少女が持つ力は、自らが生み出した使い魔――蜂を自在に操り、感覚を一部共有すること。
「どうして、どうして私がこんな役目を――」
「見つけた」
それともう一つ。
突然、横殴りに数トンクラスの重量があるハンマーをぶち込まれても、『群体』となって逃げるだけの対応力――否、異形性があるだけだ。
『わ、ととと……んもう、またぁ?』
ぶぶぶぶぶ、と蜂の羽音が少女の意思に呼応して、声らしきものを作る。
そして、無数の蜂の群体となった少女が視覚するのは、『身の丈以上の巨大な木づち』を持つ小学生ぐらいの体躯の少年だった。
否、少年の姿をした高位の魔物、いわゆる魔神と呼ぶべき存在だった。
「今度は逃がさない」
『あのぉ、今はあのでっかい亀をどうにかした方がいいと思うんですけどぉ?』
「お前を倒さないと、僕は力を完全に取り戻せない。お前が、『毒』を解除すれば、あの亀を叩き割ってやってもいい」
『でも、そうするとぉ……私たち人間を奴隷にしようとしますよね?』
「奴隷? 違う、人材の有効活用だ。男は戦士に。女は母に。それが、この世の正しい道理という物だろう?」
『うっわー、時代遅れのクソ老害みたいなことを言ってるぅー。見た目、ガキなのにぃー』
魔神は下級の魔物とは違い、知性を持つ存在だ。
しかし、知性を持つからといって、柔軟な思考を持つとは限らない。むしろ逆に、『役割』として様々な神格、妖怪などの側面の影響を受けていることから、極端な思考を持ちやすい。
巨大な木づちを持つ、この魔神も同じく、極端な原始的闘争社会の思考を持つ。
故に、人間に対して守護的ではあるものの、この魔神に支配下に置かれたが最後、現代の人間の感性では、最低水準にも満たない生活しか送れなくなるだろう。
「ほざけ、異能者。貴様のような異例が居るからこそ、世の中が乱れる」
『はいはい、そうですねー。テンプレ負けキャラの言動ですねー』
従って、少女はこの魔神と協力体制を取る気には全くなれなかった。
蜂による奇襲が決まり、『毒』によって力の半分以上を引き出せない今、少女の手によって魔神を葬ることは難しくない。
基本的に、魔神は物理攻撃。巨大な木づちを振り回して、そこに膨大な『重力』を加算することによって、どんな強固な守りも砕く力を持つ。しかし、その力は当たらなければ意味は無い。少女はその異能により、体を『高速移動可能な蜂の群れ』と変じることが出来るのだ。
そのため、魔神の攻撃にはほとんど当たらず、当たったところで数匹程度。魔力の自然回復量にも満たない力で、簡単に再生することが可能である。相性的にかなり有利なので、まず負けることは無いだろう。魔神が奥の手を隠していたとしても、少女も全ての手札を晒したわけでは無いので、全ての力を取り戻さない限りは、勝利する自信……いや、確信があった。
『もうちょっとまともな奴だったら、共闘も在り得たんだけどなぁ』
問題は、この場で勝利しても後には続かないということだ。
相性の問題で、少女は魔神に勝利することが出来る。しかし、その後に残っている怪獣を倒すことは出来ない。少女の異能の強度では、怪獣が常に展開する権能を突破出来ない。逆に、この魔神の権能ならば、怪獣を一撃で仕留めることも可能だ。
このような三つ巴によって、少女は魔神を倒すことが出来ないで居た。
せめてもう一人、協力者となる人間側の味方がいれば話は別なのだが、生憎、少女が住む町では、まともな戦力は少女だけ。他は、神代回帰の影響で覚醒した異能者が数人いても、全員が補助か、回復、もしくは特殊な条件をクリアしなければ使い物にならない類の物ばかり。
『…………こんな、馬鹿みたいなことが起こる世界なんだから。だから、フィクションみたいに、ヒーローとか颯爽に現れてくれないかなぁ? そうしたらもう、私は生まれて三度目の恋をすることは確実……って、えっ?』
そして、少女が魔神の攻撃を受け流しながら、現実逃避の妄言を呟いている時、『どぉんっ!』という重低音が町中に響き渡った。
『きゃっ!? な、なに!?』
「むぅ、この反応は」
まるで、爆弾でも投下されたかの如き衝撃波が、周囲の瓦礫を崩していく。
少女は突然の異変に戸惑いながらも、今までの戦いで得た戦闘経験に従って、衝撃波の発生源へと視線を向けた。どれだけ不可解な出来事であっても、視線を向けてまず、確認。それこそが、少女が今まで、この神代回帰の大災害を生き残って来た鉄則であるが故に。
だからこそ、少女はその光景を見逃さなかった。
『…………えっ?』
巨大な亀の怪獣が、打撃によって宙に浮いている、という異常な光景を。
さながら、格闘ゲームの空中コンボのように、怪獣は幾多の打撃によってその身を削られながら宙に浮き続けて、その余波が街中へと響き渡る。そう、金色に光る何かが、怪獣と比べて比較にもならない何かが、打撃で怪獣を圧倒しているのだ。権能の効果範囲に居るというのに、全く意にも介さずに。
「なんだ、あれは? 神でもなく、人でもない……化物め」
やがて、忌々しげに魔神が言葉を吐き捨てる頃には、荒唐無稽な戦闘風景は終わっていた。
無論、為すすべなく怪獣がその身を霧散させ、跡形もなく消し去られるという結末で。
「もはや、一刻の猶予も無い。迅速に、この異能者を排除し、本来の力を――」
突然の三つ巴が消滅したことに、まず反応したのが魔神だった。今まで隠していた奥の手を使おうと己の魔力を高めて、少女へと向き直る。
少女もまた、魔神の行動によって我を取り戻し、今こそ魔神を討伐可能なタイミングだと、意識を先頭へと集中させる。
「やぁ、戦闘中に失礼」
だというのに、両者はまるで反応出来なかった。
少女の研ぎ澄まされた感覚でさえ、常人を遥かにしのぐ蜂の群体視点でさえ、その動きは捉えることが出来なかった。
まるで、最初からそこに居たかのように、するりと『それ』は現れた。
金髪のポニーテイルに、真っ黒なダークスーツ。少女と同じぐらいの外見年頃で、けれども、目が眩むほどの美少女。
そんな美少女の手に、魔神の頭部があった。美少女の隣には、いつの間にか首が切られていた、魔神の胴体が。
「無粋かもしれないけれど、ちょっと私は急いでいてね。雑魚の掃除を肩代わりさせて貰ったよ」
言葉を挟む暇も無かった。
少女はただ、先ほどまで戦っていた魔神が、決して弱くない存在が、あっさりと頭部を潰される光景を眺めて……つい、小さく笑ってしまう。
だって、こんなのは無理だ。理不尽だ。どう足掻こうとも、先ほどの魔神のように、何が何だか分からない間に消されてしまう。そういう可能性がある相手なのだ。少女がいくら群体だとはいえ、全ての蜂が潰されてしまえば、少女も死ぬのだから、不死には程遠い。
今が蜂の群体となっていて良かった、と少女は苦笑する。そうでなければ、きっと、自分は無様に上から下まで漏らして、醜い有様を晒していただろうから。
「その手間賃代わりと言っては何だけど、君に頼み事があるんだ」
『…………なん、ですか?』
少女は諦観の混じった言葉で、美少女の形をした化物へと問いかけた。
次の瞬間、自身が消滅する恐怖に怯えながら。
「――――ここが何処か、具体的な地名を教えて欲しい」
『へっ?』
そして、恐怖に怯えていた少女の心は、一転して疑問で満ちることになる。
そう、この美少女の形をした化物――天宮照子は今、迷走の果てに、九州地方のとある町まで、来てしまっていたのだった。




