番外勝負__松山主水 〈壱〉
それ以来__有馬喜兵衛を滅多打ちにして惨殺したその日以来、みなの武蔵に対する目が大きく変わった。元々、誰もが子供らしくない可愛げのない少年だった武蔵を余り好いてはいなかったが、狂乱状態で喜兵衛を撲殺してからこの方、皆一層彼に対する悪い印象を、ハッキリ言えば恐怖を抱くようになったのであった。新免一族の連枝である新免平田家は、宮本村の長ではあったが、絶対支配者などではない。武蔵自身はそんな周囲の視線など何とも思わなかったが、姉の於政が弟の悪評に居たたまれなくなり、いや、彼女自身もこの異常な弟を恐れ、二人っきりの姉弟の間は冷たく乾いた壁に隔てられ、最早共に暮らす事などは不可能になっていた。流石の武蔵もこれには閉口したのであろうか、とうとう十四歳になる直前の頃に生家を飛び出し、於政は、救われたような思いで弟の出郷を見送った。初めての試合で見事勝利を収めた自信は、弁之助少年を兵法者新免武蔵に変貌させ、怖れる事無く武者修行の旅へと誘ったのであった。
しかし、現実と言うものはそんなに甘くは無い。食えないのである。出掛けに幾ばくかの餞別は受け取ったものの、そんな物位では到底長期にわたって生活してゆく事など出来はしない。最初は山野で獣や木の実を採りながら少しづつ路銀を切り崩せばなどと、子供ながらに計画を立ててはいたものの、現実はそう簡単には行かなかったのである。彼は後年、
「一生福力あり、金銀乏しからず」
などと評されたやりくり上手だったが、この頃はまだ世間の世知辛さも知らない純朴__と言うには些か激しいが、生一本な田舎の若者である事に変わりは無かった。余りにも真面目過ぎ、美作の田舎でははみ出したほどであったが。勿論獣なども捕まるときは有ったが、時期的な都合で獲れる時と獲れない時が有る。宮本村で悪童時代を過していた時にも何日も家に帰らず野宿したり、盛んに木の実や川魚、時には兎や狸などを捕まえて食ったりするなど、山野の生活には慣れているつもりだったが、基本的に帰る家が有ったからこその冒険に過ぎなかった。現実に、それで生活していくとなれば全く話は別なのである。寝るときも、時に農家の軒先を借りる事も出来たが、そんな幸運は滅多に有る物ではなく、殆んど野宿だった。武蔵は無口で無愛想で、凡そ人に好かれる人柄ではない事も有り、中々上手くは行かなかった。
そんな武蔵が辿り着いた山中の一軒屋で、一人暮らしらしい老人が彼を出迎えた。
ええ、二階堂流の松山主水という兵法者も経歴があいまいで生年月日がはっきりしていませんが、まさか武蔵が少年時代に老人という事は無かったでしょうねえ。
これも矢張り、柴鎌先生の影響です。
武蔵の少年時代に松山主水が老人で登場するのは少し無理が有るかもしれませんが、塚原ト伝が柳生宗矩の屋敷に乗り込むのに比べたらまだしもですよねw