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一番勝負__有馬喜兵衛  (参)


矢来の外に集まった見物衆は、ざわざわと不安そうな気配をはらみながらこの試合を見守っていた。当然であろう、新当流の名人という成人の兵法者と少年が、木刀を構えて相対しているのである。

喜兵衛の堂々たる青眼の構えに対し、武蔵のそれは型の定まらない八方破れな構えである。喜兵衛の構えが何処から押しても揺るぎそうに無い、それでいて無駄な力が抜けて完成された、磐石の構えなのに対し、武蔵の青眼はどの方向にでも動き回る感じの、動物的な気配を漂わせている。後年の武蔵は、どのような太刀筋も動きも可能な、無形の構えで有りながら、巌のように小揺るぎもしない、絶対値の構えとも言うべき剣を習得したが、この頃はまだ少年であり、その様な技能も風格も望むべくも無い。激しい情念とヴァイタリティが全身に満ち、若々しい力で無理矢理木太刀を握っている感じだった。

武蔵の全身に震えが走り抜けた。武者震いなのか、恐怖の戦慄なのか、そのどちらでもあるのか。明らかに武蔵は緊張し、気が逸っている。それを目にした時、喜兵衛はふと安心を覚え、同時に目の前の生意気な小僧が何となくいとおしく感じられた。

“矢張り、まだ子供じゃな”

自分にもこんな頃があった、と喜兵衛は思い、少年の初々しい姿に何か感動にも似たものを感じるのだった。反抗的で、生意気で、とにかく自分がこの世で一番強いのだと思い込み、周囲の大人に何かと逆らってみたい衝動を抑えきれないのだ。ましてや、兵法を志すほどの少年ならば尚更であろう、一度くらい大人の剣客に挑戦し、自分の力を試したいと思うのは少しも不思議ではない。そんな少年の無謀さに対し、本気で腹を立てた自分の大人気なさが少なからず恥ずかしく思われ、彼は自らを戒めた。少しばかり浮華な所が有るようだが、基本的にはお人好しなのかも知れない。が、この甘さが喜兵衛の不幸であり、命取りとなったのである。喜兵衛は自然と暖かな、見守るような笑みを武蔵少年に向けた。その笑顔が、武蔵を逆上させた。

絶叫を上げながら正面から喜兵衛に撃ちかかり、渾身の力を込めて木太刀を振り下ろした。子供とは思えぬその鋭い一太刀を辛くもかわした喜兵衛だったが、そのまま向きを変え、体が流れて姿勢を崩した武蔵に対し青眼に付けた。武蔵は思い切って跳躍し、喜兵衛との距離を取ると再び木刀を構えた。今度は喜兵衛が仕掛けた。足運びを使って悠々と距離を詰めると、武蔵と同じように正面から一撃を放った。武蔵のそれとは比べ物にならない、技術的に洗練された太刀筋であった。手の内が固く、柄をしっかりと握りこんでいる為、振り下ろす太刀がぶれる事無く真っ直ぐに打ち込まれるのだ。腕も下に降ろさず、振りかぶった状態から真っ直ぐに突き出す。そうすれば切っ先は自然と弧を描いて動くのだ。喜兵衛の太刀筋を、驚異的な動体視力で見切り大きく跳んでかわした武蔵だったが、もしそのままでも喜兵衛は寸でのところで太刀を止めたであろう。重い金属刀と違い、木刀ならば慣れた者ならばある程度加減が効く。譬え歯引きをしていても、金属製の刀であれば、少し手元が狂っただけでも骨が砕け、頭にでも当たれば頭蓋骨が陥没して死ぬ恐れがある。

喜兵衛は再び太刀を構え、武蔵にピタリとつけている。その姿は静かで重々しく、正に鹿島神道流最強の剣士塚原ト伝の系統を受け継ぐ由緒ある流儀の剣客と言った趣であった。業だけではなく、精神の方も充分に鍛えているのだろう。その重厚な構えに思わず位負けするような焦燥を感じ、武蔵は進退窮まったような想いだった。所詮実力差が有り過ぎるのだ。最初から分かっていたことであったがそれでも武蔵は勝負を投げるつもりはさらさら無かった。己の剣客人生の門出とも言うべきこの試合で、試合を捨てて許しを請うことなど断じて出来る事ではなかった。譬え殺されたとしても、絶対に負けを認める事などは出来ない。第一降参したとして、無事に済むかどうか。

「良いか、もし試合となったら必ず相手の息の根を止めよ」

武蔵の脳裏に、神子上典膳__武蔵は彼の名を知らなかったが__の言葉が蘇り、五体に戦慄が走った。

“殺されるのか”

その言葉を胸に刻み込んだ武蔵は、試合となれば、何が何でも相手を殺すのが兵法の試合だと心得ていた。

「譬え相手が子供であろうと試合となれば必ず留めを刺す、それが兵法と言うものなのだ」

武蔵は、自分もこの場で殺されるのだと思った。相手のあの怒りようから察するに、譬え負けを認めたとても、生きて帰れるかどうかは分からない。一命は取り留めるとしても、二度と太刀を握る事が出来ぬほどに打ちのめされ、兵法者として名を上げる事など適わぬ体になるのかも知れなかった。そう思った時、武蔵は一か八かの手段をとった。


今回の、お人よしの有馬喜兵衛は戸部新十郎氏の『考証・宮本武蔵』がイメージの元になりました。


「恐らく喜兵衛は苦笑いでも浮かべていたであろう」


という一文から、何となくこういうキャラクターが生まれました。

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