一番勝負__有馬喜兵衛 (弐)
有馬喜兵衛は矢来の内に在って、床几に腰掛け、新免武蔵の来着を待っていた。
「遅い、何をしておる!」
指定された時刻がきても相手は現れず、喜兵衛は苛立っていた。後年の武蔵も、しばしば決闘の時刻に遅れたり、早く来着したりして相手の意表をついたが、この時既にその片鱗が現れていたと言えよう。だが、今回は意識した戦略的な心理作戦などではなく、恐怖の余り迷っていた為に遅れたのである。
やがて、見物人の群れがわっとざわめき、左右に分かれた人垣の間から、一人の少年が姿を現した。その少年に、喜兵衛は不信の表情を向けた。
「何者じゃ、そなた」
怪訝な表情で尋ねる喜兵衛に向い、少年が固い声で答えた。
「新免武蔵、只今推参致した」
それを聞いた喜兵衛が柳眉を逆立てて怒り狂った。
「貴様、わしを嬲るつもりか?」
彼の怒りも当然では有ろう。如何に年より老けて見えるとは言え、目の前に立ちはだかった人物は、どう見てもまだ二十歳にもならぬ子供である。この時代、人の成長も早かったのは事実だがそれでも命がけの決闘に少年が出てくるなど、仇討のような当事者同士の事情が絡んだ特殊な場合を除いて余り無い事で、その為助太刀なども有り得るのだが、このような実力本位の一対一の決闘で少年が登場するのは条件が違いすぎる。喜兵衛にしてみれば、危険を承知でわざわざ高札を立て自らの存在を誇示するのは、ひとえに我が名をあげるためである。それが出てきた相手が子供では勝って当たり前、逆に負ければ大恥をかいてしまう。どう見ても喜兵衛にしてみれば割に合わない話である。
「小僧、我が高札に悪戯をしたのも貴様の仕業か?」
「悪戯などはせぬ」
微かに震える、硬い声で武蔵が答えた。
「あの高札に我が名を書き記したるは貴公と雌雄を決さんが為である。遠慮は御無用故、存分に参られよ」
「ふざけるな!」
喜兵衛が益々怒りを漲らせた表情で怒鳴った。
「わっぱ、今ここに手を着いて詫びよ。さすれば高札を汚した無礼も許してくれる。さもなくばこの場にて無礼打ちじゃ。分かったか」
しかし武蔵は詫びるどころか不敵な笑みを浮かべると、無言で木刀を構えたのであった。喜兵衛は腸が煮え繰り返るような怒りを感じたが、何とか自分を押さえつけながら叫んだ。
「話にならぬわ」
後ろを向き、その場を立ち去ろうとする喜兵衛に向って武蔵が叫んだ。
「逃げるのか?」
「何?」
振り向いた喜兵衛の表情はもはや収まりが着かぬほど引き攣っており、唇の端が痙攣を起こしていたほどだった。
「貴公がこの場を去られるのは勝手だが、そうなれば自然とこの試合はそれがしの勝と相成る。それでも構わぬか?」
「このこわっぱ!」
手に持った木刀を横に一振りすると、喜兵衛は叫んだ。
「そこまで言うなら試合を受けてやろう。だが、譬え命を落としたとて、不具者になろうとも責任は取れぬぞ、それでも構わぬと申すのだな!」
「もとより、試合を申し入れた以上は一命を賭す覚悟でござる」
いきり立つ喜兵衛に対し、武蔵は内心の恐怖を押し隠して静かに答えた。喜兵衛は木太刀を青眼に構えると、もう一度言った。
「良いか、この試合で命を失うたとて当方は一切責任は取らぬぞ、承知の上か?」
「それはお互い様であろうかと存ずる」
武蔵の不敵な答えを聞いて、喜兵衛のこめかみに血管が浮き出たほどであった。