一番勝負__有馬喜兵衛 (壱)
いよいよ、記録に書かれた”史実”の試合を掲載します。
弁之助は十三歳になった。彼の兵法修行は益々激しさを増し、姉の於政は最早手の付け様も無いと言った有様であった。
「弁之助」
こう呼んでも最近は返事をしなくなった。弁之助は、自分で“武蔵”と名乗り、兵法者に相応しい自分を作り上げるべく骨身を削り、自らを追い詰めていたが、その姿は余りにも子供らしからぬ、不気味な光景であった。
そんなある日、彼らの住む播磨美作の国境に新当流の使い手という有馬喜兵衛なる剣客が現れ、ぜひ試合を望む旨、対戦者を募集するという内容の高札を立て、付近の村々にその名を大いに宣伝したが今の所これに応ずる者は現れていない。新当流と言うのは一名、ト伝流とも言われ、その流祖はこの時期より二十五年前に死んだ、生涯に二百十二人を殺害したと豪語する史上最強__このような在り来たりな形容を立証するのはハッキリ言えば不可能に近いが、残された記録のみを頼りに、その記述を信用すると言う前提で今に名の残る剣客たちの実力、否、実績を吟味した場合、恐らく彼をこう呼んでも間違いは有るまい__の剣客、塚原ト伝高幹を流祖と仰ぐ新興流派である。ただし、当のト伝自身は剣術流派の元祖である鹿島神道流__鹿島七流とも言われる__の代表、元締のような立場であり、何流とも称さず自分のやり方というほどの意味で“当流”等と呼んでいた。これにわざわざ家元の鹿島神道流とえらく紛らわしい新当流なる名前を付けて一流派に仕立て上げたのは、彼の数多い弟子の一人、有馬大膳時貞その人であった。恐らく、喜兵衛は、その有馬一族の縁者なのだろう。ト伝自身、古い鹿島神道流の定型に囚われず、実力主義で通してきた為、その弟子たちにも諸岡一羽斎の一羽流、斎藤伝鬼坊の天流、真壁暗夜軒の霞流といったように、それぞれ勝手に流派名を名乗らせており、自分の流派などをわざわざ作ったとも思えない。
「このような田舎では、我が新当流に挑戦する剣客など居らんと見える」
喜兵衛がそう嘯いていると言う噂を聞いた弁之助は喜兵衛の高札に明日、挑戦に応ずるとの意思を書き込み、高札に書かれた“扶桑第一”という部分を墨で消して帰って来たのであった。これに対し喜兵衛は激怒した。
「新免武蔵とは何者じゃ」
どうやら竹山城の新免伊賀守の一族らしい事は分かるが、その中に武蔵と言う名の武芸者が居るなどとは誰も聞いた事が無い。喜兵衛としても、相手の事が何一つわからぬというのは不気味であり、不安でもあった。しかし、試合を拒絶するわけにも行かぬであろう。まさか相手が十三歳の子供とは知らぬ喜兵衛は大河の浜辺に矢来を組んで試合の用意を整えた。
帰宅した弁之助は__武蔵は、於政には何も告げず、しかし、いつもとは明らかに違う様子で、声を掛ける事さえ憚られるほどに緊張していた。元々弁之助は普通とは違う、乱暴で我の強い、可愛げのない子供だったが、最近はいよいよその度合いが深刻化しており、寡黙で異様なその姿に、村の子供たちも気味悪がって近付かず、武蔵自身も誰かが声を掛けても返事さえしないのであった。姉の於政でさえほとんど口を聞く事も無く、今では全く孤立した己一人の世界に閉じこもっている感があったが、今日はまた一段と、というか何か別の場所に居るが如くであった。
食事の際も一言も口を聞かず、於政も弟の只ならぬ様子に、声を掛けようと何度も口を開きかけたが、鋼鉄のような沈黙に拒絶され、遂に一言も会話は交わされなかった。
「どうしたのじゃ、弁之助は」
不安を押さえる事も、打ち明ける事も出来ず、於政は一人で弟の身を案ずるのであった。
喜兵衛との試合を控えて、武蔵は寝床の中で眠る事さえ出来ず、たけり立つ闘志__否、恐怖かもしれない__を必死に押さえようとしていた。当然である。如何に武蔵が尋常でない少年であったと言っても、生まれて初めての試合、それも命を掛けた勝負を行うのである。少なくとも武蔵はそう思っている。恐ろしいのは当然であった。死の恐怖を前に、少年は精神の全てを絞り上げ、己に言い聞かせた。
“死ねや”
武蔵は己に言い聞かせ、歯をキリキリと噛み締めながら、布団に包まって猛り立つ心身を抑えようと必死だった。
そうして迎えた翌日の朝、武蔵は木刀を手に試合場となった、浜辺の矢来に出かけたのであった。それから、暫くして於政の元に弁之助が読み書きを習っている、庵村正蓮院の道林坊が息せき切ってやって来て、慌ただしく尋ねた。
「於政どの、弁之助どのは居られるかな」
「いえ、朝から何処かへ出かけ申したが……」
「やはりそうか、いや、まだ分からんが……」
道林坊が何を言いたいのか分からぬ於政は、不安げな面持ちで聞き返した。
「あの、ご住職、弁之助が何か……」
「於政どのは、弁之助どのからは何も聞いておられぬのかな?」
「あの、ですから、何を……」
心配の余り、気ぜわしく尋ねる於政に、道林坊はしばし間を置いた後、おもむろに話を始めた。
「ご住職」
「うむ」
腕を組み、目を閉じてから道林坊は語りだした。
「於政どの、有馬喜兵衛のことはご存知でありましょうな」
「はあ、弁之助から聞かされております」
喜兵衛の示威行為が気に入らない弁之助は、於政の前でもしばしば彼の事を口に出し、腹立たしげに毒づいていた。
「その、有馬某がどう致しました?」
「実は有馬の高札に試合を受けると認めた者がおって、今日その試合が行われるそうなのじゃが、有馬と試合う相手と言うのが、新免武蔵と名乗って居るそうなのじゃ」
「新免……」
そう聞いて、於政は顔から血の気が失せた。武蔵と言えば、弁之助が最近自称している兵法者名ではないか。
「まさか、弁之助が……」
「分からん、わしもまさかとは思うが、万が一と言う事も有ると思うてこうして来て見たのじゃ。弁之助どのは大層利かん気じゃからの、有り得る事じゃと思うてこうして尋ねてきたのじゃが……」
弁之助はここに居らず、どうやら道林坊の心配は的中したようであった。