七番勝負__巌流佐々木小次郎 〈七〉
小次郎は苛立ちながら武蔵の来着を待っていた。
“動ずるな、厳流”
武蔵を待つ間も小次郎は、焦りを抑えようと自らに言い聞かせていた。
小次郎だけではない。船島に渡った全ての人間が約束の刻限をとうに過ぎてもまだ姿を現さない武蔵を、今か今かと待ち侘びている。中でも新免六人衆の一人、安積小四郎に至っては武蔵が逃亡したと決め込んで、すぐにでも配下の士を使って小次郎を仕留めんと歯を軋らせて身を捩らんばかりであった。
譬え武蔵が現れずとも、自分は殺されるだろうと小次郎は覚悟を決めていた。しかし、それは余りに無念である。どうせ死ぬにしても己の生涯の最後を飾る大勝負に勝利して、悔いを残さず死んで行きたかった。思えば、自分はあの日から__八年前、京に名高い名門吉岡家の当主を相次いで破った彼と、宮本武蔵と初めて対面した時から、今日のこの日の為に歯を食いしばり、死に物狂いの修行を続けて来たのではなかったか。武蔵と一対一で剣を交え、死力を尽くして技を競う事が出来ればそのまま死んでも構わなかった。だが__武蔵がこのまま現れず、己一人がこの場に於いて無意味に犬死するのは何としても心残りであった。
“譬えそうであったとて、最後の最後までこの物干し竿とともに奮戦し、厳流と佐々木源氏の武勇を思い知らせてくれるぞ__”
その時である。
「御家老、あれを__」
現筆頭家老長岡興長に、沖の方を指す者があった。興長だけではない、船島に陣取った全ての者が一斉にその方向を振り返り、水平線上に現れた一艘の小船を注視していた。
“来たか!”
小次郎は、かっと目を見開くと猛然と床几から立ち上がった。いまだ波間に浮かぶ小船に向って小次郎は早くも歩を進め、水際近くに仁王立ちながら待ち受けていた。
時刻は既に巳の刻(午前9時から11時)。
武蔵は島の洲崎に船を止め、被っていた綿入れを脱ぎ、太刀は船において小柄だけを携えると裾を高くたくし上げて、櫂を削った木刀を手に素足のまま波打ち際を歩いて行った。
浜辺を進む事数十歩。その間に手拭いを取り出して鉢巻状に頭に巻いた。
水際に武蔵を待ち受ける小次郎の服装は猩々緋__ダークスカーレットに近い色__の袖無し羽織、染革の裁付袴と言う異装である。普段からこんな格好をしている訳ではなく、これは試合の際の彼の正装である。
小次郎は万感の思いを秘めて武蔵に対面していた。自分の、紛れも無く生涯最後の試合となるこの一番に賭けた情念は言葉にし難いほどに強く、熱く、崇高な筈だった。彼は命を捨てて掛かっている。にも拘わらず、武蔵はその思いを踏みにじるかのように遅参して来たのである。
「宮本武蔵__」
小次郎は堪えきれぬように叫んだ。
「我はかくの如く時刻に先立ち、試合の為に参着して居った。貴公の遅刻は何の積りか。まさか臆したのではあるまいな」
小次郎は、我ながら何故こんな子供じみた文句を着けるのかと不信だった。様々な要因が絡み合い、精神の安定を失っているのかも知れなかった。武蔵は答えず、そのまま波打ち際に立ち尽していた。
小次郎はやおら愛刀物干し竿を抜き放つと、迂闊にも__結果論だが__鞘を放り捨てた。このとき武蔵の口から放たれた言葉は、この決闘の山場として余りに有名であった。
「小次郎、敗れたり!」
突然の武蔵の叫びに、小次郎は意表を突かれて度を失った。この時、彼が武蔵の一言を聞き流しておれば或いはここまで小次郎は自分を見失わなかったであろう。小次郎は不覚にも武蔵の言葉に反応し、我を忘れて言い返した。
「己、何を持ってそのような。理由を言え、言わぬか!」
小次郎の詰問に武蔵は静かに答えた。
「勝つつもりなれば鞘を捨てる事も有るまいに」
小次郎は怒りの余り目が眩むほど頭に血が登った。
そんな小次郎を武蔵は冷ややかに見ていた。
“小次郎、矢張りお前が”
佐々木小次郎__木村小次郎であった。
武蔵は小次郎の性格的な欠点をあの時、八年まえの対面で見抜いていた。純粋で一途で、僅かな事で揺れ動きそうなあの繊細さは、簡単に弱さをさらけ出す。自分とは違って脆さがある、そんな小次郎の性格を武蔵は的確に捕らえていたのである。話に聞いただけだが、小次郎は自ら編み出した飛燕切りの妙技を、一心一刀と名付けたと言う。もしあの小次郎がそのような名称を付けたとしたら、何と一途な、ひたむきで真っ直ぐな名前だろう。この名に、小次郎の思いが、人柄が滲み出ているようである。
“小次郎__”
武蔵は、ゆとりが有る訳ではないが不思議に包容力のある、懐の深い眼差しを小次郎に向けた。
“俺はお前を殺したくは無いのだ”
真剣の試合に於いて手加減など思うように出来る筈は無い。その為には、どうしても相手の心を、小次郎の“一心”を乱し、力を殺がねば成らないのだ。
“小次郎__”
だが、小次郎は怒りを、そして幻滅と失望を胸に抱いて、嘗ての憧れであった最強の剣客を睨みつけていた。
“おのれ、新免。矢張り貴様は少年を斬り捨てた邪悪の男であったか!”
怒りに任せて物干し竿を振り被ると、物凄い形相で小次郎は武蔵を見据えていた。どう見てもまともな精神状態ではない。小次郎にしてみればこの試合は命と引き替えに臨んだ最後の大勝負であった。それがこのような姑息な手段によって汚され様とは、小次郎にしてみれば死んでも死に切れぬと言うか、最早何もかもを失って、破れかぶれの心境であった。それが余計に小次郎を逆上させたのである。小次郎は冷静に間合いを計ることも出来なかった。何時までたっても近付いてこない、それ所か得物さえ構えない武蔵に耐え難いまでの憎しみを抱いていた。小次郎は自分から武蔵に近付いてゆく。武蔵は動かない。もう少し。後もう少しで物干し竿の届く距離にまで近付く事が出来る。もう後一歩__小次郎が踏み出そうとしたその時を狙って武蔵がすっと後退し、再び小次郎との間合いを外した。普通ならどうと言う事も無いのだが、感情が極限まで昂ぶった小次郎は、高がその位の事で更に頭に来てしまった。その時である。武蔵が自分から小次郎との間を詰めた。冷静さを欠いた小次郎はそれに対して全身が強張り、技の切れが随分と鈍っていた。
「うお!」
精神の空白を突かれた小次郎は、やや投げやりな感じで飛燕切りの秘儀、一心一刀を放った。完全な状態とは凡そ言い難い雑な太刀打ちであったが、それでも相手が並みの剣客なればまずかわす事は不可能だったに違いない。しかし、武蔵には通用しなかった。鉢巻が切り落とされるほどの、まさに紙一重、いや、髪一重と言っても良いほどの、文字通りの間一髪である。
重い長刀を振り切ったばかりで体勢を戻せない小次郎に、櫂の木刀を片手打ちで間合いを稼ぎながら打ち込むと、見事に小次郎の脳天を直撃した。この木刀は四尺を遥かに越える。柄も入れれば五尺近くにもなる小次郎の物干し竿ほどではないが、かなりの長さになるであろう。それに、いかに水を吸って重くなっているとは言え、刃渡り三尺の大剣に比べれば軽いものである。扱い易さが違う。一撃目は浅いと見た武蔵はフラフラとよろけた小次郎の肋骨に、留めの一撃を打ち込んだ。命に別条は無い。その位は手応えで判るのだ。
倒れた小次郎を見下ろした武蔵は小次郎が完全に動かなくなったのを見届けると、長岡佐渡守に近寄り、頭を下げると素早く乗ってきた小船に乗り込んだ。
“やった__”
会心の試合であった。
試合と言うのが兵法者の作品であるとすれば、この試合はまさに最高傑作とも言うべき完璧な試合であった。何もかもが思い通りに運び、思い通りの結果となった。
“小次郎”
武蔵は帰りの船上で、再び小次郎との試合を誓った。
“済まぬ、小次郎。お前とは、もう一度、今度こそ誰にも邪魔される事の無い、本当の勝負で真の決着を着けようぞ”
その頃__