七番勝負__巌流佐々木小次郎 〈六〉
潮風が波間を渡り、張り巡らされた幔幕を膨らませ、床几に腰掛け運命の瞬間を待つ小次郎の後ろに束ねた髪を靡かせていた。
小次郎は悲壮な決意を秘めつつこの船島に渡った。
“俺は恐らく生きてこの船島を出る事は叶わぬであろう”
試合場に詰め掛けた関係者は、筆頭家老長岡興長を始め悉くが反佐々木派というべき顔触ればかりだった。仮に武蔵に勝った所で無事帰れるとは到底思えなかった。今日の試合が小次郎抹殺の為に設えられた一大舞台である事は、領民の端々まで知れ渡っていたのである。
船島に渡る直前、辺りを散策していた小次郎が、ふと試合の関係者を船島に送る渡し守と思しき老人に、
「朝から物々しい事だな。一体何の騒ぎだ」
と声を掛けたのである。老人はあきれたような表情で声を掛けてきた侍に答えた。この武士は、今日のこの一大試合の事を知らぬのだろうか。
「ご存知では御座りませぬかの。今日は御家中の厳流様と、宮本武蔵と申される兵法使いとが向島で試合を行うのですじゃ」
「ふ__」
小次郎は軽く笑いながら答えた。
「俺がその厳流だと言ったら__」
言ってしまってから、我ながら子供じみた事をしたと小次郎は思った。老人は息を止めて小次郎を見返した。
「あんたが、厳流様__」
確かに言われてみれば、この若い武士の佇まいは尋常のものではない。
「いや、冗談だ。俺は只の通りすがりの者だ」
小次郎は背を向けて歩き出そうとしたが、老人が声を掛けた。
「お待ち下さいませ、厳流様」
「いやいや__」
小次郎は頭を振った。
「俺は厳流などではない、今言った事は只の冗談ゆえ、忘れてくれ」
「あなた様が厳流様かどうかは存じ上げませぬが__構いませぬ、聞いてくだされ」
小次郎の言葉に、それでも老人は食い下がった。
「今日のこの試合は、まともな試合では御座いませぬ。あなた様が、いえ、厳流様が勝った所で、神の如き使い手であっても、生きて島を出る事はかないませぬぞ」
「何故?」
「今日のこの試合は、最初から仕組まれております。厳流様が武蔵に勝ったその時は、家中の新免衆が襲い掛かり、殺す手筈となっており申す」
小次郎は言葉を呑み込んだ。既に分かっていた事を改めて確認しただけの事ではあったが、こうして聞かされると何やら胸に来る物がある。
「何故その様な事を存じて居るのだ?」
「向島に渡る顔触れを見れば判る事に御座います。悪い事は申しませぬ、今日の試合は思い止まって下され」
己の身を案じる老人の言葉に、小次郎は何か、感激に近いものを感じた。
「厳流様__」
小次郎は神々しいまでに澄み切った、すがすがしい微笑を見せた。老人はその姿に気後れのような感動を覚えた。
「確かに御主の言う通り、自分は生きて向島を出られぬかも知れぬ」
小次郎は沖に見える船島に眼を向けた。
「しかしな、俺は逃げる訳には行かぬ。これは細川の御家、我が血党の佐々木氏、そして何よりも俺自身の名誉が掛かっておる。ここで試合を放棄すれば、厳流は相手を恐れて逃げたと人は言うであろう。男として武士として、そして兵法者としてそれは断じて許されぬ事だ。俺はあの島で生涯最後の、最大の試合を行うのだ。悔いは無い。それがこの佐々木小次郎の生き方なのだからな」
老人は涙を流した。小次郎は懐から鼻紙袋を取り出した。
「ここで御主と会うたのも何かの縁であろう。我が霊を祀って、水なりともそそいではくれぬか」
「厳流様__」
このように、小次郎が今日の試合で勝った所で生きては帰れぬであろうと言う事は、最早公然の秘密に近かったのである。
“ならば、それも良かろう”
関門海峡の激しいうねりも、小次郎を地獄に誘う悪魔の歌声のように響いていた。島に遣わされた検使や警備の者は全て反小次郎派で占められており、その中には当然新免の一族や息の掛かった者も居た。
試合の刻限は辰の刻(午前7時から9時)の約束であった。もうその時刻に差し掛かる頃である。しかし武蔵は一向に姿を現さない。
“遅い、何をしておる”
新免六人衆の一人、内海孫兵衛は苛立ちながら武蔵を待ち続けた。武蔵は今までにもわざと遅れて試合に臨んだ事も多いから、今回もそれかと思われたが、一抹の不安も無いではなかった。
“まさか武蔵め、逃げたのでは有るまいな”
有り得る事だと孫兵衛は思った。ここ数日の武蔵の様子から見るに、相当六人衆の浅ましさに嫌気がさしていたような気配であった。最初、小倉に到着した当時の武蔵は九州無双の名を欲しい侭にする剣狂、佐々木小次郎との決闘に傍で見ていても判るほどの意気込みを露にしていたが、これを利用して細川家における自分たちの地位を益々高めたいと画策する新免六人衆の意地ましさにほとほと愛想が尽きたのである。昨日、突如姿を消した武蔵は、長岡興長に手紙を書いて寄越し、自分達には全く連絡を寄越さない。
“情知らずめが”
今日に於いても、利権を意味する“人情”なる政治用語は賊議員、いや、族議員達の間に根強く定着し、抜き差しならぬ経済破綻の最中に於いてさえ改まる気配が無い。一族の血縁者である武蔵が自分達の為に一働きするのは当然であると六人衆の誰もが思っていたにも拘わらず、武蔵は彼らを冷ややかに見下し露骨に嫌悪を示していた。
“あれならば、佐々木小次郎の方がまだましではないか”
小次郎は自分を引き立ててくれた佐々木一族の恩を忘れず、それに報いる為に命を賭けて試合を重ね、一族の名を高らしめようと懸命であった。武蔵にはそんな殊勝な心掛けは欠片ほども無いのである。一本気で融通の利かぬ所はあったが、小次郎は礼儀も正しく傍目から見ても清々しいほどの若者である。正直な話、彼ら新免衆達は小次郎に対して個人的な恨みが有るわけではない。成る程、家中にその剣名を轟かせ、佐々木氏の幅を利かせる小次郎は鬱陶しい存在では有ったが、取り立てて新免衆にだけ邪魔なわけではなく、家中全体から煙たがられていた訳で、それを利用して地位を高めたかっただけである。
“もしも武蔵が来なんだ場合には”
昨日の予定通り、全員で小次郎を謀殺する。孫兵衛は心中堅く決意を固めたのであった。
丁度その頃、武蔵は小林太郎左衛門の所で、漸く寝床より起き出して来ていた。小倉からの飛脚によると、小次郎は既に船島に渡ったとの事だったが、武蔵は動ずる事無く手水を使い飯を食い、太郎左衛門から一本、船の櫂を貰い受け悠々とこれを削って木刀を作成し始めた。そうこうしているうちに再び飛脚が訪れ、武蔵に船島へ渡るよう促がした。
「只今、得物が完成した所に御座る。参ろうぞ」
そう答えた武蔵は絹の袷を着込み、手拭いを帯に挟むとその上に綿入れを羽織り、太郎左衛門の使用人が操る小船に乗り込んだのであった。
「だんな、どうでやす、自信の方は」
渡しの若者が興味深げに聞いてきたが、武蔵は答えず紙縒りを縒って襷にかけると綿入れを被ったまま船底に横になったのである。若者もそれっきり何も言わなかった。
「だんな、見えましたぜ」
若者の言葉に促がされ、武蔵はむくりと上体を起した。目の前に、やや扁平な形をした小さな島が見える。
船島であった。
無表情な武蔵の双眸に重く鋭い光が宿り、戦いの舞台である海峡の孤島を見据えていた。