零番勝負__神子上典膳 〈結〉
「弁之助、稽古は終わったのかえ?」
姉の於政が声を掛けても、弁之助は返事をせず、奥に引きこもって行った。
“我が弟ながら、相変わらず得体の知れぬ餓鬼じゃわい”
元々姉の於政は出戻りで普段から機嫌が良くなかったが、可愛げのない弟の素っ気無い態度は益々彼女の気分を悪化させていた。父母も無く、姉と弟の二人暮らしだったが平均とは大幅にずれた性格の、それも気難しく気性が荒く、口数少ない弟に歳の離れた母親代わりの姉も辟易している。
「弁之助」
その声も弁之助の耳には全く届いては居ないようであった。部屋の真中に寝転ぶと、先刻の出来事を思い出し、興奮の余り、息を詰めて目を大きく見開いていた。
“強い男じゃった”
弁之助は、先程立ち会った侍の姿を、言葉を、業前を、闘気を思い出し、身震いするほどの感動を覚えていた。感動、と一言で言って良いのだろうか。感動も確かに混じってはいたが、恐れ、屈辱、対抗意識など、あらゆる感情がない交ぜになって交錯し、熱い何かを少年の体の中に生じさせているのだった。弁之助が忘れ難いのは、強さだけではない。
「良いか、試合となったら、必ず留めを刺せ」
弁之助の胸にあの言葉が強烈に刻み込まれていた。
「わしもなってやるのじゃ」
あんな強い剣客となる、少年は強く心にそう決意するのだった。弁之助が兵法者を目指した理由、それは今は無き彼の父親の後を継ぐ、いや、そんな大袈裟なものではなく、兵法者であった父の面影を思い出し、それを追い求めているのかも知れなかった。
弁之助の父新免武仁は、新免伊賀守の一族であり、竹山城の家老職を勤めた武芸者でもあり、美作宮本村の長であった。彼は平田無二斎という号名を持ち、十手術にも長じた名人で、最後の室町将軍足利義昭の御前で吉岡憲法と試合を行い、三本勝負の末見事にこれを破った腕前を賞賛され“日下無双”の号を受けたとされている。しかし、武芸者にありがちな一種の異常性格者でもあった。彼は弁之助が八歳の時に死んだのだが、弁之助は、凡そこの父親に可愛がられたと言う記憶が無かったのである。あれは幾つ位の時であったろうか、父に構ってもらいたかった弁之助は、楊枝を削る父親をからかってみた。虫の居所が悪かったのだろうか、武仁は気が狂ったように怒り出し、手にもっていた小刀を弁之助に投げつけ、避けられたと見るや更に小柄を抜いて投げつけた。幼児に小刀を投げつける等とは何処か頭でもおかしくなっていたのだろうか。それでも弁之助は父親が好きであった。彼は亡き父を追悼するように、その面影を追うような想いで兵法を志し、誰にも教わる事無く一人で腕を磨いていたのだった。彼は一人で立ち木を打ち、木刀の素振りをする時、常にあの父の孤独で厳格な陰を思い出し、己に対し厳しくあろうと心掛けるのであった。
あの武士も、そうであった。
父武仁とどこか似通った、厳しさと激しさ、ある種の狂気をまとわりつかせた、あの兵法者の姿を思い出し、弁之助は益々厳しい修行を己に課す事を決意するのであった。
宮本武蔵に姉がいたらしいという資料は残っていますが、その名前については不明です。
この於政という名前は、柴田鎌三郎先生の『決闘者』から付けました。
自分にとっての宮本武蔵像はこの柴鎌武蔵が原型なんですよ。