七番勝負__巌流佐々木小次郎 〈弐〉
佐々木小次郎。
この当時二六歳の俊英は佐々木源氏の一族であり、元は越前の郷士だったが同族の伝手を頼ってこの九州にやって来たのである。小次郎の父、木村厳流は世に全く名の知られぬ兵法者で、主に山岳廻りの、武道と言うより修験道に近い意味不明の荒行に生涯を費やした過激な世捨て人であった。小次郎もまた父に従い、世常の子供には想像もつかない幼少期を過したが、十三歳の頃、父厳流はポックリと往ってしまった為親戚に引き取られ、中条流、しかも名高い富田勢源系統の道場に入門し、見る見る頭角を現して弱冠十六歳にして師匠の打ち太刀を勤めるまでになったのである。この中条流とは中条兵庫助という兵法者が始めたとされる小太刀の抜刀術で、その相手と言えば当然尺の長い大太刀である。それを繰り返す内に小次郎は中条流にふと疑問を抱いたのである。中条流その物に対する疑問と言うよりも、大太刀の理に気付いたのである。元々小太刀の技と言うのは非常用の物であって、実戦と言う視点から見れば成る程、便利では有るが試合となるとまた別物ではないかと思ったのだ。使用する得物は長いほうが有利に決まっている。それに対抗する為に小太刀の技と言うものを修練する訳だが、それは持ち運びが容易であらゆる場所、あらゆる状況にも対応出来るように考えられているからである。銃に譬えればポケットピストルと狙撃用ライフルの関係である。それならば、純粋に試合と言う状況に限定してしまえば長い刀の方が有利だし、それを修練すれば更に強くなるではないか。言ってみれば当たり前の事なのだが、こう言った流派というか、既に江戸時代に隆盛を極めた武道の家元化の精神から言えば、自分の考えを持つ事は好ましくないし、譬えそう思っても口に出さず師の言う通りに従う事が美徳とされた。だが、小次郎はついその事を口にしてしまったのだ。彼は何も中条流自体が間違っていると言った積りは無いのだが、言い分の中身より、流儀に疑念を抱いた事自体が許し難い思い上がりなのである。はっきり言えば小次郎の考えている事くらい、誰でも思い付くのだが、それを口に出した事が容易ならぬ事態を引き起こした。別に小次郎は中条流に反旗を翻す積りではなかったが、何とか相手に判って貰おうと言葉を重ねた事が益々師匠の反感を買い、とうとう小次郎が大太刀を用い、門下の高弟が小太刀を使って試合と言う事に成ったのである。この時、小次郎が師匠に理解して貰おうなどと考えず、黙って謝っていればここまで事態は悪化しなかったであろう。小次郎不遜、を印象付けた最初の事件であった。この、小次郎の師匠の中条流の剣客が誰なのか、正確な記録が残っていない。富田勢源の弟子であったとの事だが、この人物は永禄三年(1560年)に美濃の国主斎藤義竜の御前で試合をした事で有名だが、この時四十歳位であったと言われるから、小次郎が入門した頃には八十を越えている。教える位なら出来ない事も無いと言えなくも無いが、この人は眼病を患い家督を弟に譲った位だったし、ハッキリしないのだが慶長元年(1595年)に死んだという説もあるから、余り考えられない事である。勢源ではなく弟子の富田越後守重政に習ったのではないかとも言われるが“名人越後”と呼ばれた重政の弟子ならば、そう記録される筈ではないかと思われるのだが。別に、勢源の弟子と言っても重政だけでは有るまい、数多い弟子のうちの誰かの元で中条流を学んだのだろうか。師匠の命令で同門の門人と立ち会った小次郎はこれをあっさりと打ち破り、代わりに道場に居られなくなって各地を放浪した挙句に、伊東一刀斎の師匠でもあった同じ中条流系統の金巻自斎の元を訪れた際数日間逗留し、別れ際の手土産代わりに免許皆伝を受けたのであった。この自斎も弟子であった一刀斎に打ち負かされてからはすっかり覇気をなくし、年齢的にも余命幾ばくも無い老人だった為、若年で独自の境地を見出した小次郎の妙技に感じ入り、その場で、言わば死に土産の代わりに免状を渡したのであった。その後、同じ血を引く佐々木源氏の一族と合流し、自らの信ずるままに大太刀の修行を積み、遂に宙を飛ぶ燕をも斬るほどの神業を体得し、その術技に一心一刀虎切刀と名付け、父厳流をしのんで厳流と名付けたのであった。その噂を聞いた細川忠興は、是非にその剣客を召抱えたいと言い出したのである。その当時、細川領内には所領を失った佐々木氏の残党が居残り、隠然たる影響力を保持していた為新しい支配者である細川氏としては厄介な存在であった。彼らを弾圧するのは治世の上で好ましくないが、さりとても細川家の家臣として召抱えるとなれば、彼らはかなりの高禄を要求するであろうから、中々難しい問題であった。そこで、小次郎の噂を耳にした忠興は、兵法師範という実権の無い名誉職に、それも若くて政治色の無い彼を据える事によって佐々木氏の感情を和らげようと図ったのである。しかし、政治感覚が無いと言うのも度が過ぎれば逆に厄介だった。小次郎は忠興の意図が見抜けず、自分が今日あるのは佐々木一族のお陰であるとして姓を木村から佐々木に改め、一族の名を高めようと躍起になっていた。いや、小次郎とてその位の事は薄々気付き始めてはいたが、だからと言って一族を見捨てる事など彼には出来なかった。その為、忠興も最近では小次郎を疎んじ始め、彼の立場は細川家中に於いて孤立し始めていたのである。




