七番勝負__巌流佐々木小次郎 〈壱〉
燕が飛んでいる。
長身の、蒼白い顔色の若者が、静かに背中の大剣に手を掛けると自然な動作で鞘からそろりと引き抜いた。長い太刀であった。刃渡り三尺一寸二分__自ら“物干し竿”と名付けた備前長光の業物であった。風が後で束ねた髪を戦場の直垂のように軽くはためかせ、額に垂らした前髪を靡かせている。上空を旋回する燕はあちこちを飛び回り、若者の周辺にも近付いて来る。その時には愛刀物干し竿を担ぐような姿勢で構えていたが、彼の五体からは僅かな邪念は勿論、殺気も闘志も、いや、全ての思念が消え失せて、まさしく無想の境地と言うべき状態でそこに佇んでいた。その姿は、あたかも回りの空間に溶け込んだような、神秘的なまでの清らかさをさえ感じさせる。その姿勢のまま微動だにせぬ若者の目の前を燕が何の警戒心も無く通り過ぎようとした、その刹那__空気が切り裂かれ、若者の手にした物干し竿が全く別の位置、別の角度に向きを変え、燕が真っ二つに切り裂かれて地上に落ちていた。その動作は全く肉眼に補足し難い早業であり、見ていた者があれば、目晦ましにでも会ったように感じるであろう。
「許せ__」
地上に落ちた燕に言葉を掛けると、若者は血塗れた愛刀を拭ってから徐に鞘に収めた。
「相変わらず、見事な手並みだのう、小次郎」
若者に小次郎と声を掛けた老人は、元細川家筆頭家老長岡佐渡守康之。
「御家老、痛み入り申す」
「ほほほほ、家老ではない。わしはもう隠居の身じゃ」
老骨に淡白な人徳が滲み出てはいるが、この老人も若い頃には当時出家の身であった一条院門跡覚慶こと足利義昭を松永弾正の攻撃から救い出し、室町十五代将軍に担ぎ出す計略に一枚噛んだ曲者なのである。
「それにしても見事じゃ。その若さで良くそこまでの境地を会得したのう。この康之、感じ入ったぞ」
「無益な殺生を致し申した」
小次郎と呼ばれた若者がが痛ましげに言った。
「武士として生まれた上は、立ち向こうて来る強敵を討ち果たす事に心の咎は御座いませぬが、罪無き小鳥を殺めたる事、誠に慙愧の思いで御座る」
鋭い面貌に繊細な翳りを映し、小次郎は答えた。その姿に、長岡康之は好ましいものを覚えながら、一方で何と言うか、一種の軽蔑に近いものを抱いていた。それほど意地の悪いものではない、そう、強いて言えば同情に近い感情であったかも知れない。男として、武士として同情というのは一種の軽蔑に近いと言えよう。このような優しさは確かに美徳では有るものの、小次郎の風姿は余りにも儚く、侍としては線が細過ぎるのでは有るまいか。只、見ている分には心地良いものだが、実用となると別である。人生の前半をあざとい権謀術策に費やして来た康之の目には、ある意味で言えば平和の象徴のような光景とも映るのだが。人を刀に譬えてみれば、この小次郎は床の間に飾って鑑賞する名刀の類と言えるだろうか。確かに切れ味は良く、そこらの鈍ら等よりは頑丈なのだが、もったいなくて破損紛失の危険が孕む戦場などに持っては行けないのだ。戦場で使用される武器は消耗品である。たった一本の名刀よりは二,三本鈍らが混じっていても、其れなりに斬れる百本の刀の方が実用品と言える。戦場で役に立つのはたった一人の達人よりも数多い雑兵なのである。現に戦国期には、戦場に刀を五,六本持って行った者も多い。剣客などは所詮その様にしか見られていない。要するに“芸術者”なのである。
加えてこの若者の家中での評判は余り芳しい物ではなかった。傲慢不遜、協調性に掛けると言うのである。確かに、若気の至りと言うか、生一本な生堅さは取り様によっては相当に不快なものだ。周りが下らない事で盛り上がっていればそれに調子を合わせても良さそうなものだが、この小次郎はそう言った愛想を振り撒くことが出来ない。皆が嬉しそうにしている中で、所在無さげに押し黙っているか、時には座を外して出て行ってしまうのである。前半生を陰険で図太い戦国乱世の権謀術数に費やして来たこの老人から見れば小次郎の生真面目さなどは裏表の無い、寧ろ可愛げさえ感じるほどの少壮客気に過ぎないのだが、秩序期に入ったこのご時世に在っては、この程度の生真面目さでさえ皆が不快に感じるらしい。元々、兵法指南などと言う政治の実権が伴わない名誉職に据えているのだから、余り周りが目くじらを立てることもあるまいが、それでも気に入らぬらしい。家中の者の中には何処からか剣客を連れて来てこの小次郎と戦わせ、なんとか彼を、謀殺も含めたあらゆる手段でもって失脚させようと手を尽くすのだが、その尽くを打ち破り、小次郎の評判は余計に上がり、益々彼に対する憎悪も激しくなると言った悪循環が繰り返されていた。長岡康之元筆頭家老はその事を大分心配している。
「小次郎」
康之老人が話を切り出した。
「そなたの次の対手が決まったそうじゃ」
「それを知らせにわざわざ足を運んできたので御座るか」
小次郎は深々と頭を下げた。
「御家老自らこの小次郎の為に自ら御足労頂いた事、誠に痛み入り申す」
「いやいや」
小次郎の、四角四面と言うか滑稽なほどに糞真面目な態度に流石の元家老も閉口する思いだったが、決して不快ではなかった。寧ろ、豪傑風を気取ってわざと行儀の悪さをこれ見よがしに強調する下品な非行侍などよりも、こちらの方が余程すがすがしい気分になる物だ。
「済まぬのう、小次郎」
長岡老人が心底申し訳無さそうに言った。
「何故に?」
小次郎が怪訝そうに答えた。
「いや、またしてもそなたが危ない橋を渡る事になったでな。いつもの事ながら気の毒で成らぬ」
「これは異な事を」
小次郎が剥きになって言った。
「兵法者たるものが試合を恐れて何と致しましょうぞ。この佐々木小次郎、不肖なりとも御家の禄を食み、兵法指南の栄誉に与りましたる上は、この身に代えましても細川家の名を高らしめんと全力を持って修行に励んでおる次第に御座る。決して御家の体面を汚す事など有り得ませぬ故、どうかご安心下され」
「いやいや、そうではない」
確かに小次郎のこう言った所は傲慢、と言われても仕方が無いかもしれない。老人が穏やかに諭した。
「確かにそなたの腕前はしかと心得て居る。万が一にもそなたが遅れをとるなどとは思うては居らぬが__」
老人もどうやって小次郎に説明すれば良いのかと考えた。
「小次郎よ、誠に言いづらい事なのじゃが……」
老人の言葉に、小次郎は目を欄と光らせて聞き入っている。
「そなたは御家中ではなにやら誤解されておるらしいの」
「我が不徳の致す所で御座る」
小次郎は表情を曇らせた。
「今回もそうなのだが、そなたの所に度々持ち込まれる試合の話も、そなたを良う思うては居らぬもの達が連れて来た剣客との試合ばかりじゃ。彼奴らはそなたが敗れる事を願うて次々と刺客を送り込んでくるのだが、そなたが苦も無くこれを討ち果たしてしまうでな、みな頭に来ておる様じゃの」
「御家老のお心遣い、誠に恐縮いたしまする」
「それでの、小次郎」
長岡老人が、何やら密談のような、説得のような、念を押すような感じで小次郎に言った。
「確かにそなたの心映えは立派じゃ。刀取る者の鑑と言えるほどに凛々しく、天晴れと言う他無い。しかし、心の狭い者達にはどうもそれが気に入らぬようじゃ。わしもあ奴ら目に申し聞かせては居るのだがな、人と言うものは頑迷なものでの、どうしても聞き入れてはくれぬ。そこでの、小次郎」
老人が小次郎の目を覗き込んだ。
「もう少し、そなたの方で折れてはくれぬか。わしのような老いぼれが言うても詮の無いことでは有るが、そなたの方で心を広う持って家中の者どもに対して欲しいのじゃ。さもなくば、何れ試合所か、あ奴等めがどのような手段に訴えてくるやも知れぬ。人と言うものは、感情的になればそれこそ何を仕出かすかも判らぬ故な」
只の隠居老人ではなく、乱世の興亡を渡り歩いた千軍万馬の策士だけに説得力を感じさせる。近頃の、甘やかされて育った切れ易い武士などと違い人間に重みあった。
「心得申した」
小次郎が再び叩頭した。
「このような若輩者に御家老自らそこまでお心を掛けていただき、佐々木小次郎、言葉すら御座いませぬ」
素直な男であった。物事にのめり込み易く、周りが見えなくなる事も多い生真面目さは、率直さでも有るのだ。こうやって条理を尽くせばすぐに納得する若者なのに、細川家中に於いては傲昧不羈などと嫌われるのは、要するに皆の度量の無さであろう。それはいいのだが__
「そこでの、小次郎」
老人が改めて小次郎に切り出した。
「せめて名乗りだけでも改めてくれぬか。その佐々木姓では余りに家中の風当たりが強いのじゃ。元の木村姓にでも改名して貰えぬかのう」
「御家老のお言葉なれど、これだけは変えられませぬ」
小次郎は強い調子で答えた。
「今日、この小次郎が有りますのも全て一族の引き立てが有ったればこそ。細川家に仕官するに有っても、その縁故の故で御座る。その恩義を思えばこの佐々木の名乗りを捨てる訳には参らぬ」
その頑なな口調に、流石の長岡康之も些か鼻白んだのであった。