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閑話休題__木津川沿いにて 〈結〉



「おっちゃん、強いなあ」

いきなり武蔵の目の前に飛び出して来た子供__少年というよりは、幼児、その間くらいだろうか__が屈託無く話し掛けた。

「おっちゃんみたいに強い侍初めて見たわ。ホンマに凄いなあ」

どうやら先程の気配のもう一方はこの子供らしい。大胆と言うか、非常識な子供と言って良かった。通りの真中で今のような殺伐とした光景に出くわせば、大人でも平静では居られない。それが全然動じていない上に、武蔵に、この武蔵に平気で話し掛けるのだから、相当特殊な子供と言えるだろう。大人でさえ気味悪がって滅多に近付かない武蔵に、子供が話し掛ける事など殆んどない事だ。元々人嫌いで孤独癖が有る上に、一乗寺下がり松以来子供を見ると反射的に忌まわしい過去を思い出す為に、武蔵は出来るだけ自分から避けているし、第一子供などは、彼の姿を見るだけで逃げるか泣き出すのだから。

「おっちゃん、宮本武蔵て言うんやろ。さっきの兄ちゃんが言うてたわ」

子供は恐いもの知らずとは言う者の、本能的な恐怖に対しては敏感な物である。しかし、まるで物怖じする事無く武蔵に話し掛けるこの幼童、只者ではない。おまけにその服装は、泥にまみれて汚れているが、相当に金が掛かっているらしい。そこらの百姓町人、貧乏徒歩の子供がおいそれと袖を通せるような代物では無さそうだった。

「ホンマに強いわ、おっちゃん。せやけど……」

幼童か挑発的な目を武蔵に向けた。

「僕のおじいちゃんの方が強いで」

「ほう」

武蔵がこの男らしくも無く相槌を打った。どうやら幼童の無邪気な元気につい釣り込まれたらしい。

「僕のおじいちゃん、日本一の剣客やってん」

「そうか」

「せやけど……」

幼童の顔に翳りが挿した。これも子供らしい、感情のままの無邪気な表情だった。

「おじいちゃん、僕が生まれる前に死んでしもてん……」

幼童の顔が、また一転明るく輝いた。

「せやけど、嘘と違うで。みんな言うてるもん、おじいちゃんは日本一やったて」

「分かった」

武蔵はとうとう口元を綻ばせた。本当にこの男らしくない。幼童の余りに無邪気な振る舞いにこの陰気な男も普段見せる事の無い一面を表に出しているらしかった。

「みんな言うてるで、僕はおじいちゃんの生まれ変わりやて。だから僕も日本一になるねん。おじいちゃんみたいに日本一にならなアカンねん」

「成る程」

「せやから……」

幼童がこれまでで一番のとびっきりの笑顔で言った。

「おじちゃん、僕と試合して」

「俺がか」

「うん」

これには流石の武蔵も笑い出してしまった。無論意地の悪い笑いではなかった。

「モチロン、今とちゃうで。僕が大人になったらやで」

「何故だ」

「だっておっちゃんに勝ったら僕が日本一になれるもん」

「今は俺が日本一か」

「そうや」

幼童が頷いた。

「だから、おっちゃん、僕と試合して。おっちゃんに勝って日本一になるねん」

「どうかな」

武蔵が言った。

「世の中は広い。六十余州を見渡せば、俺よりも強い武芸者もいるやも知れぬ」

「そんな事無い、おっちゃんは日本一や。今の日本一はおっちゃんや、絶対そうや」

「仮に今は日本一だとしても、歳を取るぞ。それに勝負は時の運だ。必ずしも強い者が勝つとも限らぬ。もし自分より弱い相手に敗れたとしても、それを証明する方法は無い。真剣の勝負は命懸けだ、一度きりだ。やり直しは出来ぬ」

「さっきは生きとったやん、あの兄ちゃん」

「あれは試合とはいえぬ。相手が弱過ぎた」

「せやけど……」

「それにな」

武蔵は上を向いて遠くを見詰めた。空ではなく、遠い遠い、どこか別の場所を。

「俺が日本一かどうかはまだ判らん」

「え?」

「それをこれから確かめる所だ」

幼童は黙したまま武蔵を見返した。彼にも武蔵の言わんとする事が理解できた。

「その人って、強いん?」

「その様には聞いている」

武蔵の目に宿った強い光に、幼童も思わず口をつぐんだ。

「だが、俺の予感がしきりと告げている。この試合は__」

武蔵はいつに無く綻んだ表情を再び固く引き締めた。

「この武蔵に取って、一世一代の勝負となろう」

「ふうん……」

幼童が感じ入ったように黙り込んだ。

「でも……」

幼童が徐に口を開いた。

「でも、大丈夫や」

武蔵が幼童を見返した。

「おっちゃんは絶対に勝つ。僕の予感では勝っておっちゃんは僕と試合するんや。間違いあらへん」

幼童は腕を組んで深々と目を閉じた。その姿に、武蔵は又も苦笑いを噛み締めた。

「そうか」

この男らしくも無く和やかに、本当にらしくない和やかさで頷いた。

「それで坊との試合はどちらが勝つのだ?」

「それは分からん」

幼童が含蓄ありげに答えた。

「なんちゅうても勝負は時の運やからな。これだけはやってみんかったら判れへん」

度胸だけではなく、頭も良い子だった。中々のユーモアセンスと言うべきであろう。流石の武蔵もこの幼童に掛かっては形無しだった。

「おっちゃん、これからどうするん?」

「これから?」

「良かったらウチに来えへん?大きい家やから一人くらいやったら泊まれるで」

「いや、宿は決めてある。行かねば先方に迷惑が掛かろう」

「そうか……」

幼童は残念そうに言った。

「それやったらしゃあないな、約束破ったらアカンもんな」

「しかし……」

いよいよこの男らしくも無く、自分から話を続けた。

「坊の祖父殿が強い事は判った。だが、父上はどうなのだ?」

「お父ちゃんはアカン」

「兵法者ではないのか?」

「一応兵法者やけど……」

幼童は顔を曇らせた。その話には触れたくないといった趣だった。

「おっちゃんの方がずっと強いで」

「そうか」

武蔵は頷いた。

「俺はそろそろ行かねばならぬ」

「そうかあ」

「楽しかったぞ」

本音である。

「ホンマ?」

「ああ」

「ほな、おっちゃん」

幼童が手を差し出した。武蔵はその手を握り返した。

「坊の名はなんと言う」

「七郎」

「七郎か」

「憶えといてや」

七郎が嬉しそうに言った。

「うむ」

七郎は元気に走り出した。南__大和の方角である。

「おっちゃん」

走りながら振り返った七郎が元気に叫んだ。

「約束忘れたらアカンで」

「どうかな」

「逃げてもアカンで」

「逃げるかも知れんぞ」

「アカンでえ、逃がさへんでー。逃げたって追っかけるからなー」

武蔵が手を上げると、七郎が両手を大きく振って応えた。そしてもう一度向き直ると、今度こそ走り去って行った。

“あの童は……”

武蔵は何気なく考えた。

“大和柳生庄に領地を持つ、柳生家の息子では有るまいか”

七郎自慢の“日本一強いおじいちゃん”とは、数年前に亡くなった、柳生石舟斎宗厳では有るまいか。最初はまさかと思ったが、大和の方角に帰って行った七郎を見て、その可能性が濃くなった。しかしそれだけだ。譬え息子と親しくなった所で、将軍家兵法師範、柳生但馬守宗矩が武蔵の挑戦に応じてくれる訳ではなかろう。この縁を頼って柳生家に近付き、権門に取り入ろうとした等と評判が立っては、プライドの高い武蔵には耐え難い屈辱であった。


今回のこのシーンも、正直言って時代考証が怪しいです。

慶長十二年生まれの七郎(柳生十兵衛)は、同十七年に行われた巌流島の決闘前だったら五歳以下のはずですから、幾分年齢に不自然な点がございます。

小説ですので、そこは大目に願います。


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