閑話休題__木津川沿いにて 〈壱〉
武蔵は木津川沿いの大通り、現在の国道163号線を歩いていた。彼はこのまま更に西に進み、九州を目指して豊前小倉に入る為であった。
江戸で為す所も無く日々を送っていた武蔵に、漸く名門から挑戦者が現れた。それも一刀流と並ぶ__この頃は少々の違いはあれど、まだ小野家と柳生家の間に極端な家禄の違いは無かったのである__柳生新陰流の高弟、大瀬戸隼人、辻風某である。事の起こりは武蔵が小野次郎衛門に接近し、何やら親しそうに振舞っていた事にあった。どうやら柳生道場では武蔵が小野次郎衛門と手を組むのではないかと恐れているようであった。いや、そこまで深刻に考えている訳では無さそうである。当主柳生宗矩の指示では無く、本人たちの勇み足であるようだ。宗矩にしてみれば命令を下したのではなく、せいぜい黙認している程度らしかった。この頃は柳生一門もまだまだ荒々しい気風が残っており、門人の中には進んで他流試合に赴く勇者もいたのである。
この二人、大瀬戸、辻風の両名は新陰流正統二代目、柳生石舟斎宗厳存命の頃からの門人であり、以前にも他流の剣客に試合を挑み、撃破してきた実績がある。柳生道場でも筆頭の実力者たちで、少なくとも庄田喜左衛門、木村助九郎などに比べればその腕前は数段上であった。武蔵に取っては願っても無い強敵であり、勇んで試合に臨んだのである。武蔵はこれを破ったのだが、彼らはその後宗矩によって柳生道場から除名されている。元々先代以来の古株だったが、当主である宗矩から見れば鬱陶しい小姑のような存在であった為、この機会に追放したのである。尤も、辻風の方はその後死んでしまったので除名も何も無いのだが、彼らの不幸は、柳生道場の歴史からその名前まで抹殺されてしまった事である。こう言った事は初期の柳生家では珍しくない。京都で僧侶から教わった示現流を薩摩に持ち帰り、幕末まで根付かせた功労者、東郷重位にも柳生から二人の挑戦者が乗り出して、苦も無く返り討ちに会ったのだが、彼らも柳生道場からは除名され、その名は示現流の方に残り、柳生の側には何処にも記されていない。その後、柳生流では全面的に他流試合を禁じてしまった。
それは兎も角、先程から武蔵は二つの視線を感じている。そのその内の片方は濃厚な敵意を剥き出してはいるが、今ひとつの気配から害意は感じられないし、何と言えば良いのか、寧ろ好奇心剥き出しの無邪気さと言う感じだった。一応身を隠しているようだが、気配を消すと言うような事はまるで考えていないようだった。まあ、用があるのなら向こうの方から接触してくるだろうと思い、武蔵は捨て置いた。その時である。
「新免伊賀守血族、宮本武蔵玄信だな」
目の前にいきなり飛び出してきた男が有った。これが二つのうちの片割れ、敵意の有る方だった。もう一つの、無邪気な方の気配は相変わらず物見高い期待感を保ったままこちらを窺っていた。
「貴公は?」
武蔵は無感動に尋ねた。
「自分は、本井田又八__」
聞いた事の無い名前だった。功名目当てに試合でも申し込む手合いらしい。そう思っていたのだが__
「自分は嘗て吉岡道場において修行した者だ」
「吉岡__」
武蔵に取っては聞きたくない名前だったが、厭でも付き纏う汚名だった。
「それは良い、新免武蔵、我が名に思い当たる事は無いか」
この男は一体出し抜けに何を言い出すのだろう。武蔵は全く合点が行かず、押し黙ったまま立ち尽していた。
「貴様、本当に何も思い出せぬのか?」
釈然としない様子で沈黙を続ける武蔵に、又八と名乗った男は苛立たしげに言った。
「いい加減にせい、武蔵、自らの罪を思い出す事も無く、ようも抜け抜けと。わしは本井田又八。貴様の父、平田無二斎に謀殺された、本井田外記の息子だ!」
そこまで言われて、漸く武蔵は腑に落ちたのであった。本井田事件__武蔵も聞いた事がある。武蔵の父、新免武仁こと平田無二斎が新免伊賀守の命を受けて二番家老の本井田外記を上位討ちにした事件である。無二斎が死ぬ前年の事でもう相当の高齢でもあったし、あり、相手の外記は彼の弟子でも有ったので正直やりたくは無かったのだが、主の強硬な命によりやむなく決行したのである。そのやり方が良くなかった。
「極意を伝授する」
と外記を誘き出し、二人掛りで騙まし討ち同然の方法で暗殺したものだから、主命を果たした忠士ではなく、権勢に屈して弟子を売った男として、無二斎の評判は大層悪かった。
「それで?」
武蔵の質問は当然だった。父親同士の諍いに、息子が一体何の関係が有るのだろう。だが、又八は眉根を引き寄せて怒り出した。
「この試合、我が父外記の敵討ちと心得よ、覚悟は良いか」
この男は一体何を言いたいのだろうか。別に武蔵自身が殺した訳ではない。それが敵討ちとは何の勘違いなのか。だが、試合を挑んで来るのならば受けて立つ。逃げる理由は無いのだから。
又八は腰の太刀を引き抜いた。
「抜け、武蔵。尋常に勝負せい」
おぼつかない腰つきで青眼に構えた又八は、目を白黒させながら喚いた。どうやら真剣で他人と渡り合うのは初めてであるらしい。武蔵はそれを見て、なにやら馬鹿馬鹿しいやら気の毒やら、とてもまともに相手をする気には成れなかった。
「武蔵、どうした、勝負を受けぬのか」
両肩に異常なほど力の入った又八の声は裏返って、何もせぬうちから全身から大汗が滴り落ちていた。ぜいぜいと肩で息をする又八に向って、武蔵は無言で歩き出した。
「く__」
又八はもう何が何やら判らず、近付いてくる武蔵に向って無我夢中で刀を振り回した。それを武蔵が苦も無くかわすと、又八は身体が流れて前へつんのめった。慌てて振り返った又八は目を血走らせて太刀を振り被り、訳の判らぬ奇声を上げて武蔵に向って行った。一撃目をかわされると二撃三撃と繰り出して、武蔵を狙うが、憎き相手に掠りもしない。やればやるほど体が崩れ、すぐに息が上がり始めた。金属製の真剣は、そう何度も振り回せる代物ではない。とうとう又八は足をもつれさせて転倒し、情けない悲鳴をあげた。どうやら自分の刀で自分が傷付いたらしい。傷の具合は大した事は無い。手を少しばかり切った位だが、又八はこの世の終わりのような声を上げて転がり回った。
それを冷ややかに見過ごすと、武蔵は何も無かったように歩き出した。その武蔵の前に再び何者かが飛び出して来た。
子供であった。