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六番勝負__夢想権之助 〈結〉



「夢想殿、気付かれましたかな」

意識を回復した権之助は武蔵の方を振り返って額に手を置いた。痛みがあったが、それほど深い傷は無い。どうやら僅かな間気を失っただけらしく、場所は今しがた武蔵と立ち会った庭であった。

己の敗北を認識した権之助は巨体を縮めて気の毒なほどに落ち込むと、頭を下げて項垂れた。

「夢想殿、お手前の杖術見事な御手並み、この武蔵、未だ嘗てあのような荒業と立ち会うた事は無い。誠、天晴れな手鎌であった」

意気消沈した権之助に、流石に気の毒と思ったのか武蔵は柄にも無く言葉を重ねて相手の技輌を誉めた。

「気休めは、おやめくだされ、余計に惨めになり申す」

権之助は心底情けないらしく、力無く大きな溜息をついた。自らを誇る時も微笑ましいまでに大袈裟だったが、落胆の仕方も滑稽なほど素直で毒気が無い。本当に真っ正直な好漢なのであろう。

「それがし、これまで幾足りかの試合を重ね、その全てに勝利を収め、自らの杖術を無敵と奢って居り申したが、とんでもない心得違いであった。わしは最早兵法を続ける事など叶わぬ。今まで死に物狂いで修練した杖術をこうも易々と破られたと有ってはこれ以上兵法を続けたとて先は無い」

「それは大変な思い違いで御座る。それがし、貴公の杖術に追い詰められ、試合の最中幾度も負けを覚悟致した。誠、優れた腕前で御座った」

「お止め下され」

権之助はどうしようもないほどに悔しそうな声を上げた。

「追い詰められた等と言われるが、貴殿が用いたのはその様な得物ではないか。こんな物にあしらわれたわしは兵法者を名乗る資格など無いわ」

「それは違う」

武蔵は珍しく多弁になった。それも敗れた相手を励ますなど、この男には嘗てなかった事である。尤も、武蔵と試合を行った相手は大抵死んでいるのだから、仕方が無いのだが。

「それがしが割り木と楊弓を用いたのは、これが最も使い勝手が良いと判断したからで御座る」

「__?」

「それがしも今まで槍などの長い得物と対戦した事は幾度もある。その時に思うたのは、あのような尺の長い道具に対しては、なまじの刀を持って対するより、出来るだけ空身に近い状態でその攻撃を避け、その懐に飛び込むことで御座る」

「……」

「故に、貴公の杖に対してあのような代物を用いて立ち会うたので御座る。決して御手前の業に劣った所があった訳では御座らぬ」

武蔵の、力強い言葉に権之助はなにやら目の覚めるような思いであった。試合の直後、失神から覚めたばかりの頭には武蔵の説明など余り理解できなかったが、兎に角大雑把に、自分の杖の長さを逆手に取られたのだとだけは納得した。

「更に申せば、貴公の心気を乱す為、姑息な芝居を打った事も誠でござる。許されよ」

「いやいや」

権之助は顔を輝かせて武蔵に叩頭した。

「僅かな間にそれだけの事を見抜き、思案を巡らせるとは、貴公は誠に見上げた兵法者に御座る。この夢想権之助、つくづく感服仕った」

単純な権之助は武蔵の態度にすっかり感じ入ってしまい、武蔵に何度も頭を下げた。

それにしても武蔵は何故この権之助の息の根を止めなかったのであろうか。確かに手に持っていたのが楊弓では殺す事は出来ない。気絶した所でわざわざ留めを刺すほどの遺恨も無かった。しかし、最初から手に脇差でも握って戦えば殺せた筈だ。だが、武蔵はもう、殺伐とした真剣勝負などが、何となく厭に為って来ていたのである。血気盛んな世間知らずの少壮期には彼は若気の至りと言うか、手当たり次第に屍の山を築き、気が付けば何ともやるせない、陰惨な境涯に身を置いていた。彼も武士、それもやや遅れて生まれたとは言え、江戸時代の貴族階級としての武士ではなく、戦国の気風をたっぷり残した時代に生まれ育った武士の子である。ましてや兵法者ともなれば、人殺しなどを怖れたり省みたりするのは愚の骨頂とさえいえるであろう。成る程、異常なほどに前向きな考えの持ち主であるこの男は、やってしまった事を一々悔やんだりせぬよう常々自分に言い聞かせてきた。後悔した所で、殺した相手が生き返るわけではないのだから。しかし、戦いは当の本人だけではなく、周りの人間をも巻き込む事になる。吉岡一門の名目人に担ぎ上げられた佐野又市郎少年などは典型的な被害者であった。今でも武蔵は、あの時吉岡一門の馬鹿騒ぎなどに付き合わず、無視すれば良かったかと悩む事がある。もう一つ言えば、武蔵は確かにこの夢想権之助という男に好感を抱いた事も真実であろう。今まで武蔵の江戸滞在中に挑戦を申し込んで来た兵法者といえば、この権之助だけだったのだから。言ってみれば、武蔵に取って数少ない“同志”とも言えるのであった。

その後、権之助は武蔵の信奉者のようになり、筑前黒田家に仕え、九尺の杖を四尺二寸に縮めて改良型神道夢想流杖術を広く指導し、その流儀は今日まで残っている。


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